日曜の朝。
僕は仁川駅の改札口を出ても、まだ少し迷っていた。
迷っていたと言っても、道に迷っていたわけじゃない。
本当にこのまま、ねえさんに会いに行っていいのかを、だ。
夕べはねえさんに会いたい衝動が抑えきれなくてなかなか寝付けず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
もう眠ってしまおうと目を閉じると、ねえさんの笑った顔が次々と浮かんだ。
まるで恋をしているみたいだと思うと胸がドキドキして、また眠れなくなった。
たった一度会っただけの、何も知らない相手のことを考えてこんな気持ちになるなんて、どうかしてる。
僕はきっと、初めて会った綺麗な人に思いがけず優しくされて、勘違いしているだけなんだ。
もう一度会えば、これは恋なんかじゃない、勘違いだと気付くかな?
ようやく眠りの淵に落ちる頃、薄れていく意識の中で、勘違いでもなんでもいいから、もう一度ねえさんに会いたいと、僕は思った。
ぼんやりと夕べのことを考えながら歩いているうちに、競馬場に着いてしまった。
今日もここでレースをやっているようで、先週ほどではないけれど、たくさんの人が訪れている。
どうしようか。
やっぱりこのまま引き返そうか。
ここに来てまだ及び腰になっている。
ああ、そうか。
今日もここに確実にねえさんがいると決まっているわけじゃない。
僕は競馬場に来たんだから、素直にレースを観ればいいんだ。
誰が咎めるわけでもないのに、心の中で自分自身にそんな苦しい言い訳をしながら、場内に足を踏み入れた。
先週は案内板の前で立ち止まって因縁をつけられたから、今日はもう立ち止まらない。
僕にも学習能力ってものがあるんだ。
まず向かうのはどこだ?
いきなりゴール前?
買いもしないのに、馬券売り場なんて行っても仕方ないしな。
とりあえず、フードコーナーでコーヒーでも飲んで落ち着くか。
いや……それこそ落ち着けよ。
やっぱり、どう考えてもパドックだろ?
あんなに会いたいと思っていたくせに、そこにいて欲しいような、いて欲しくないような、妙な気持ちだ。
僕は恐る恐るパドックに向かって歩く。
もしねえさんがいたら?
遠くから一目だけその姿を見られたら、声を掛けずに帰ってしまおうか。
いや、ねえさんが僕に気付いて声を掛けてくれるまで、黙って待っていようか。
それともやっぱり……勇気を出して、声を掛けてみようか。
すり鉢状になっているパドックに着くと、周回する馬を見るよりもまず、ねえさんの後ろ姿を探した。
緊張して、胸がドキドキして、握りしめた掌に汗がにじむ。
……いない。
もうゴール前に行ったのかな?
それとも今日は、ここには来ていないのかも。
ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちだ。
なんだか気が抜けた。
ねえさんがいないなら僕がここにいる意味なんてないって、ホントはわかってる。
やっぱり帰ろう。
ああそうだ。
せっかく来たんだから、カツサンドくらいは買って帰ろうか。
あの美味しいカツサンドを買いに、わざわざここまで来たんだと思えばいいじゃないか。
よし、そうしよう。
クルリと振り返ると、ねえさんがいた。
それも、僕の目の前に。
急激に胸が高鳴った。
「あ……ねえさん……」
僕の頭の中は真っ白だ。
だけど目の前にいるねえさんは、他の人とは違う輝きを放っているように見えた。
「おお、アンチャン!!今日も来たんか!」
ねえさんが僕の肩をポンポンと叩いた。
ねえさんの手が触れた場所から、僕の身体中が熱くなった。
な、な、なんだこれ……?!
僕はおかしくなってしまったのか?
「さては、競馬にハマったな?」
「まぁ……そんなところです……」
違う、違うよ。
僕は競馬じゃなくて、ねえさんにハマってしまったんだ。
会いたくて会いたくて眠れなくなるくらいに。
ねえさんの笑顔が、頭から離れなくなって。
ねえさんの声が、何度も耳の奥に響いて。
ねえさんの温もりを忘れられなくて。
会うのが怖くて、でも会いたくて。
何も知らないとか、勘違いとか、もうどうでもいい。
これが恋でも、恋じゃなくても。
僕は今、ねえさんに会えて間違いなく嬉しい。
それが今の僕の気持ちのすべてだ。
「あ……会えて、良かったです」
僕はありったけの勇気を振り絞って、今のこの気持ちを、ほんの少しだけ伝えた。
「ん?そうか、一人やとまだ不安なんやな。じゃあ今日も一緒に行こか」
「はい……」
……そういう意味じゃないんだけどな。
それでもいい。
ねえさんと一緒にいられるなら、僕はもう仔犬でも園児でも、アンチャンでもなんでもいい。
「おう、アンチャン!!また来たんか!」
「あ……この間はご馳走さまでした……」
……いいんだ、たとえおじさんが一緒でも。
「アンチャン、今日は馬券買うてみる?」
お昼前、レースが終わってパドックに向かって歩いている時、ねえさんが言った。
「馬券……ですか?」
「そう、せっかく競馬場に来てるんやしさ。賭け方はもう大体わかったやろ?どの馬が勝つかパドック行って予想してみよか」
たしかにこの間は先輩から頼まれた馬券を買っただけで、ただひたすらレースを観ていた。
予想して観ると、面白さも増すかも知れない。
「やってみようかな……」
「よし、行こ!」
ねえさんが八重歯を覗かせてニコッと笑い、僕の手を掴んでスタスタ早足で歩き出した。
ねえさんの手が、僕の腕じゃなくて手を掴んでいる。
女の子と手を繋いで歩くなんて、幼稚園以来かも知れない。
手を繋いでいると言うよりは、掴まれていると言う状況ではあるけれど、照れくさくてドキドキする。
ねえさんに手を引かれて、パドックがもう少しだけ遠ければいいのにと思いながら歩いた。
次のレースで僕の予想は見事に外れたけれど、ねえさんと一緒にどの馬が勝つか予想するのは思ってた以上に楽しくて、自分が勝つと予想した馬を応援するレースは、更に面白かった。
初めて自分で予想して、百円だけ賭けたハズレ馬券は、今日の記念に大事に取っておこう。
お昼にはカツカレーを食べた。
場所が場所だけに、勝負事に勝つようにとゲン担ぎで『カツ』メニューが多いんだな。
その後もまたねえさんと一緒にパドックで予想して、百円だけ賭けた馬券を買って、ゴール前でレースを観た。
僕の予想はことごとく外れたけれど、すごく楽しい。
一度だけ、割と高いオッズがついた予想が的中して、払い戻すと7250円になった。
僕はなけなしの勇気を振り絞って、初めて勝った記念に、そのお金で帰りにビールでも飲もうとねえさんを誘った。
ねえさんはまた、八重歯を覗かせながら、笑ってうなずいた。
これで今日も、少しだけ長くねえさんと一緒にいられる。
最終レースのあと、また先週と同じ居酒屋に行った。
ねえさんと、もちろんおじさんも一緒だけど。
先週はおじさんにご馳走してもらったから、今日は僕がご馳走すると言うと、おじさんは『ほな一杯だけご馳走になるわ』と嬉しそうに言った。
おじさんは今日も勝ったみたいで、『料理は俺がおごったる』と言ってくれた。
今日もねえさんとおじさんは、競馬と野球と、身近な他愛もない話で盛り上がっている。
野球の話に入れない僕は、その話を聞きながらビールを飲んだ。
不思議なほど、お互いの話はしないんだな。
不意に、金曜日の合コンを思い出した。
また誘われても、もう合コンは断ろう。
先輩はいい人だし悪気がないのはわかっているけど、引き立て役にされるために行くなんて、二度とごめんだ。
楽しいことなんて何一つない。
合コンに行くより、ここでこうしている方がずっと楽しい。