パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 1 - 競馬場デビュー 1

櫻井音衣2020/09/15 09:44
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その時僕は、途方にくれていた。

職場の先輩に半ば強引に誘われた競馬場の前で、腕時計を見るのはもう何度目だろう。

約束の時間を、もう20分も過ぎている。


つい先日こちらに越してきたばかりの僕は、職場の先輩に『日曜日に競馬場に行こう』と誘われた。

この辺りはまだ慣れていなくて右も左もわからないのに、先輩は当たり前のように『競馬場前で9時に待ち合わせな』と言った。

仕方なく競馬場に行く交通手段や駅からの道のりを調べ、日曜の朝早くから家を出て、今に至る。


競馬場には続々と人の波が押し寄せ、どの人も競馬新聞やスポーツ新聞を片手に、目をギラギラさせている。

先輩、もしかして寝過ごしたのかな?

黙って待っているのもなんだから電話を掛けようとした時、ポケットの中でスマホの着信音が鳴った。


「先輩!今どこですか?僕、ずっと待ってるんですけど!」

「すまんな、ちょっと事情があって行けんようになってしもた。おまえ、俺の代わりに馬券うといてくれるか?」

「えぇっ……」

「メインレース5─7頼むわ。千円な」

「そんなこと言われても……」

「頼むでえ!せや、明日の昼飯奢ったるわ!ほんじゃ、また明日な!!」

「ああっ、先輩!」


言いたいことだけ言うと、先輩はさっさと電話を切ってしまった。

『事情があってな』なんて言っていたけど、先輩の後ろで女の人の笑い声がしていたのを、僕は聞き逃さなかった。

大方、夕べの合コンで意気投合した可愛い女の子をお持ち帰りしちゃったとか、そんなところだろう。

……羨ましい。

先輩は僕と違ってイケメンで背が高くて、おまけに口が達者だからモテるんだ。

彼女はいないと言っていたけど、女の子に不自由しているようには見えない。

背が低くて童顔で冴えない僕は、女の子をお持ち帰りどころか、好きになってもフラれるのが怖くて、告白する勇気もなくて、もちろん恋愛経験がまったくない。

モテる先輩が、ただひたすら羨ましい!

今すぐ先輩より背の高いイケメンになって、可愛い女の子と付き合いたい!!


……そんなことは置いといて。

しかしどうしたものか。

競馬場に来たのなんて初めてだから、馬券の買い方はおろか、まずはどこに行けばいいのかもわからない。

だけど頼まれちゃったんだからしょうがない。

僕は並々ならぬ闘志を燃やす人たちの進む先を見る。

どうやらあの場所で入場料を払って場内に入るようだ。

この人たちについて行けば、なんとかなるのかな?

とりあえず頼まれた馬券を買ってさっさと帰ろう。

電車代と入場料は、明日の昼飯を奢ってもらえばチャラになるはずだ。


列の最後尾に並んで待った末に、『未成年では?』とか『学生では?』とかいぶかられながらも、ようやく入場料を払い、なんとか場内に入ることができた。

しかし馬券売り場はどこだろう?

場内の案内板を見て位置を確認しようと立ち止まると、後ろから歩いて来た人たちにぶつかられた。


「こんな所で立ち止まんな、邪魔やろが!」


前をろくに見もしないで歩いてきたこの人たちも悪いのに、関西弁で怒鳴られると怖くて文句も言い返せない。

神奈川生まれの神奈川育ちの僕にとって、関西は未知の世界で、言葉といい勢いといい、何もかもが恐ろしい。

とりあえず殴られないうちに謝っておこう。


「す、すみません……」


素直に謝ったと言うのに、男は僕のシャツの襟首をガシッとつかんで顔をグッと近付けた。


「すみませんで済んだら警察要らんのじゃ!」


えぇーっ?!

ぶつかっただけで大袈裟な!

そもそも、ぶつかって来たのはそっちじゃないか!

……なんて、怖くて口が裂けても言えない!!

強面の男たちにわけのわからない因縁をつけられる僕を、誰もが見ないふりして素通りしていく。

誰も助けてくれないなんて、関西人は情に厚いんじゃなかったのか?!

こちらに来てからまだ1週間しか経っていないのに、意外と冷たい関西人に絶望しそうになっていると、誰かが男の腕を掴んだ。

天の助けか、はたまた神か。

きっとさらにイカツイ強そうな男の人に違いない。


「ちょっとアンタらぁ、そんな坊や相手に何調子こいてんねん。ええ加減にしときぃや」


予想に反して女の人の声がした。


「あっ、ねえさん……」


……ねえさん?

どう見ても20代半ば過ぎの、華奢な体つきをした女性だ。

この強面の男たちが怖れるような女性にはとても見えない。


「大の男がしょうもない事でいちいちガタガタぬかすな、みっともない」

「すんません……」

「わかったら早よ行け」


ねえさんと呼ばれたその女性がシッシッと手で追い払うと、強面の男たちは頭を下げて、そそくさと去って行った。

一体この人、何者なんだ?


「大丈夫か?ケガしてへん?」

「あっ、大丈夫です。ありがとうございました」


僕が慌てて頭を下げると、その人は笑って僕の頭をワシャワシャと撫でた。


「ええって、気にせんといて。なんや、この辺の子やないな?競馬場、初めてか?」

「はい……。馬券を買って来るように頼まれたんですけど、どこに行けばいいのかもわからなくて」

「そうなんや。じゃあ、ついといで。アタシが連れてったる」


ねえさんは僕の頭をポンポンと叩いて笑った。

よく見ると、肌が白くて切れ長の涼しげな目をした綺麗な人だ。

笑うと形の良い唇から八重歯が覗いて可愛らしい。


「ありがとうございます……」


初めて会ったのに、綺麗な上になんて親切な人なんだろう。

関西人の冷たさと恐ろしさに絶望しかけていた僕に、関西人も悪い人ばかりではないと教えてくれた気がする。


「馬券買うだけでええの?せっかく来たんやから競馬観て行けば?今日は開催日やから目の前で馬の走るとこ観れるし、GⅠもあるしな」

「僕、競馬は全然わからないんですけど……」

「大丈夫やって。賭け方わからんでも、馬走るの観れば面白いから」

「そう言えば僕、馬が走るの生で見た事ないです。観てみようかな」

「そうしとき。観て行かんかったら、入場料もったいないで!」


僕はねえさんの半歩後ろをついて歩く。

さっきは強面の男たちから恐れられていたけれど、そんなに怖い人とは思えない。


「頼まれたレースは何レース目なん?」

「えーっと……たしかメインレース……って言ってました」

「ああ……桜花賞やな。まだ時間あるし、あとで馬券売り場に連れてったるから、先にこっち行こか」


ねえさんは僕の腕を掴んで、人混みをすり抜けるようにしてスタスタと歩く。

生まれてこのかた、母親と身内のおばさん以外の大人の女の人に腕を掴まれるのなんて初めてだ。

僕の腕を掴むねえさんの細くて柔らかな指先に、ドキドキして顔が赤くなってしまう。

ねえさんは立ち止まり、人のたくさん集まる場所の先を指差した。


「ほら、見てみ」

「あ……馬……?」


そこには数頭の馬がいて、丸いトラックのような場所を周回していた。


「ここ、パドック言うねん。これからレースに出る馬が見れる場所」

「へぇ……」


目の前にいる馬よりも、僕の腕を掴むねえさんの手が気になって仕方がない。

まだこうしていて欲しいような、恥ずかしくてもう離して欲しいような、妙な気分だ。

僕はなんとか気をまぎらわそうと、ねえさんに話し掛ける。


「ここでこの馬たちの何を見るんですか」

「今日の馬体の仕上がり具合とか、馬の調子とか、今の状態やな。歩様がしっかりしてるなとか、落ち着いてるなとか。逆に興奮しすぎて勝負にならんなとか」


競馬新聞の記者でもあるまいし、馬が歩く様子を見ただけで素人がそこまでわかるものなんだろうか?


「そんなことまでわかるんですか?」

「ずっと見てるからな、だいたいはわかるよ。ホラ、5番のあの馬なんか、イレ込みまくって思いきり頭上げ下げして、厩務員振り回してるやろ。ああなってまうとろくに屋根の言うことも聞かんで、勝負にならんのよ」

「イレ込み……?屋根……?」

「イレ込むっていうのは興奮すること。屋根は騎手のこと。わかる?」

「初めて聞きました。そんな競馬用語があるんですね」


新しいことを教えてもらうのは、なんでも新鮮なものだ。

ついさっきまで競馬にはなんの興味もなかったのに、こんなふうに教えてもらうと少し興味が湧いてくる。


「おっ、今日は珍しく男連れか?」


ねえさんの隣に立ったおじさんが、ねえさんの肩を叩いた。

おじさんはねえさんと僕を交互に見る。


「なんや、弟か?それとも若いアンチャン、ナンパして来たんか?」


おじさんの言葉にねえさんはケラケラ笑った。


「ちゃうよ。入り口んとこでガラの悪いのに絡まれてたから。ここ初めてやって言うし、迷わんように連れてきたんよ。競馬も初めて言うし、ちょっと教えてた」

「そうか。ホンマにアンチャンやな」


僕にはその言葉の意味はわからないけれど、おじさんはおかしそうに笑った。


「アンチャン……?」

「新人ジョッキーのことな、アンチャンって言うねん。よし、ちょうどええから、アンタのことはアンチャンって呼ぶわ」


アンチャンって……。

確かに僕は競馬初心者だし、職場でも新人だけど……。

やっぱりここでも子供扱いなんだなと、僕が少し複雑な気持ちになっていることなど気付く様子もなく、おじさんは競馬新聞を広げてねえさんに見せた。


「ところでなぁ、おねーちゃん。4番どないやろ?」


おねーちゃんって……。

どう見てもねえさんは、おじさんの娘くらいの歳だろう?


「悪くもないけど、良くもないな。勝ち負けは厳しいで」


ねえさんは差し出された新聞を見もしないで、パドックを周回している4番の馬を見ながら答えた。


「やっぱりそうか。最終追いきりで一番時計出したとか、新聞ではええ感じのこと書いてるんやけどな」

「新馬やからな。そんなもんあてにならんよ。慣れん輸送で疲れたんちゃう?」


二人の会話を聞いていると、見かけによらず馬を見る目があるのは熟練者っぽいおじさんではなく、若くて綺麗なねえさんの方らしい。


「最低人気やけど1ー3やな。おっちゃん、毎週来てるくせにホンマ馬見る目ないわ」

「ひどいのう、彼氏にそんなこと言うなや」


「えっ……彼氏?!」


おじさんの一言に驚いて、僕は思わず声をあげた。

いやいや、どう見ても彼氏と彼女と言うよりは親子だろう?

っていうか、こんな若くて綺麗な人に、こんな無精髭のおじさんは似合わないよ!


「おっちゃん、アンチャンがびっくりしてるやん」

「週末の彼氏やろ?」


ねえさんはおじさんの一言に吹き出した。


「たしかに毎週ここでうてるし、週末一番長いこと一緒におるな」

「ほれみい、週末の彼氏や」


おじさんが肩を抱き寄せると、ねえさんはその手を掴んで捻り上げた。


「痛い、痛いて!!」

「わかったわかった。そういうことにしといたるわ。でもお触りはナシやで。アタシら、ずっと清い関係でいよな、おっちゃん」


ねえさんはニコニコ笑いながらおじさんの手を離した。

おじさんは痛そうに肩をさする。


「なんや、あかんか。おねーちゃん落とすんは難しいのう」


そりゃそうだろう……。

多分冗談なんだろうけど、このおじさんの考えていることもよくわからない。


「おっちゃん、馬券買うんやったら早よ行かんと締め切られてまうで」

「おお、ホンマや。行ってくるわ」


おじさんは電光掲示板の時計を見ると、慌ててその場を離れた。

ねえさんは離していた僕の腕をまた掴む。


「もう少ししたらレース始まるわ。アンチャンはアタシとゴール前に行こか」


ねえさんに手を引かれながら、人混みの中を歩いた。

春の暖かな風がねえさんの香りを運び、僕の鼻孔をくすぐる。

コロンか何かつけているのかな。

それともシャンプーの香り?

それはむせかえるような強すぎる香りではなくて、ふんわりとほのかに香る。

満員電車の中で主張し合う、強すぎる香水や柔軟剤の香りとはまったく違う。

ねえさんから香る大人の女の人の香りにクラクラして、抱きしめたい衝動に駆られてしまいそうだ。


「おっ、ラッキーやん、ええ場所あったわ」


ねえさんが突然立ち止まるので、僕は止まりきれず、ねえさんの背中にぶつかってしまった。

その拍子に、ねえさんの華奢な体がグラリとよろめく。


「うわっ!」

「ああっ!」


僕は咄嗟にねえさんの体を支えようと手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。

ねえさんは転ぶ寸前、自力で踏ん張って体勢を建て直す。


「危ないなぁ、もうちょっとでこけるとこやった」

「ごっ、ごめんなさい!」


女の人一人も支えられないなんて、本当に情けない。

こんな時、先輩みたいな背の高いイケメンなら、さりげなく片手で抱き止めたりするんだろう。

伸びなかった身長が恨めしい。

せめてもう少したくましくなれるように、筋トレでも始めてみようか。