パドックで会いましょう 【完結】

Chapter 2 - 競馬場デビュー 2

櫻井音衣2020/09/15 09:44
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「ほらアンチャン、こっち来てみ」


ねえさんは柵に手を掛けて手招きをした。

僕が隣に立つと、ねえさんは正面を指差した。


「あの正面にあるのがゴール板な。馬が1着目指してさ、必死になって駆け込んで来るんよ。ここから観るのが一番迫力あるねん。テレビで観るのとは迫力が全然違うで」

「へぇ……」


よほど競馬が好きなのか、ねえさんは目をキラキラさせて競馬の魅力を語る。


「ところでなぁ、アンチャン」

「はい、なんでしょう」

「いまさら聞くのもなんやけどな……アンタ、未成年ちゃうの?」


ああ、まただ。

入場券を買う時にも同じことを聞かれたんだ。


「違いますよ……。成人してます」

「成人してても、大学生は馬券うたらあかんのやで」


そう、これも聞かれた。

学生さんではありませんか?って。

もうため息しか出ないよ。


「……こんな見た目ですけどね……成人した社会人です」


声を大にして叫びたい。

童顔で背も低いけど、僕は成人した社会人だ!

どこに行っても高校生と間違われるけど、僕はもう大人なんだ!


「そうかぁ、あんまり可愛い顔してるから、未成年の学生さんやと思った。ごめんやで」

「……いつものことだから慣れてます」


こんな綺麗な大人の女の人に面と向かって言われると、ものすごく子供だと言われているようで、正直ヘコむ。


「なんや、いつも言われてしょげてるんか。若いんやから焦らんでもええよ。これからどんどん大人っぽく男らしくなれるって」

「なりたいですけどね……」


できればあなたのような大人の女性に釣り合うくらいの大人の男にね、なんて歯の浮くような台詞、僕には似合わない。


「せめて、どこに行っても年齢確認されないようになりたいです」


肩を落として呟く僕の肩を、ねえさんはポンポンと叩いて笑った。


「なれるなれる。そのうちイヤでもオッサンになるからな」

「オッサンですか……」


それでは僕は、オッサンになるまで見た目は子供だということか?


「歳下の可愛い男が好きー!っていう女もおるから、若いうちはええんちゃう?」

「……いればいいんですけどね」


可愛いとか童顔とか、イヤと言うほど言われてきたけれど、恋愛対象として見られたことなんて一度もない。

人並みの恋愛経験をすることもできなかった過去を振り返って、余計に落ち込んでしまった。


「しょげるな、そのうちアンタのことがええって言う女が一人くらいは現れるはずやと思うで、きっと、多分、おそらく」

「なんですか、それ……。すっごく曖昧ですね……」


励ますには望みの薄過ぎる言い方だろう。

嘘でもいいから、もうちょっと強く希望を持たせてくれないかな。

思わずため息をつくと、ねえさんは僕の丸めた背中をバシンと叩いた。


「大人の男なんやったら、もっと自信持ってシャンとせぇ!!そんなことより!もうすぐ本馬場入場やから、よう見とけ!」


自分から言い出したくせに、ねえさんはこの話題を完全に投げ出した。

かなり横暴だ。

でも八重歯をのぞかせながらニコッと笑われると、どうにも憎めない。


騎手を乗せた馬たちが馬場に姿を現した。

ねえさんが言うには、馬がレースをするトラックみたいな場所を、馬場と言うんだそうだ。

天気の良い今日は、地面が乾いて状態が良いことから、良馬場と言うらしい。

ねえさんは騎手を乗せて軽く流すように駆ける馬たちを楽しそうに見ている。

今まで僕の周りにはいなかった自由奔放なタイプだ。

ついさっき初めて会ったのに、どういうわけか僕は、この人に惹き付けられている。

不思議な人だなあ。


ねえさんは僕の視線に気付く様子もなく、競走馬が順番にゲートに入っていくのを、相変わらず楽しそうに眺めている。


「おー、あいつゲート嫌って暴れとるなぁ」


やんちゃな子供を見るように、ねえさんは優しい目をして笑う。

ゴール前からではゲートは遠くて見えにくいのに、ねえさんの目には馬たちの様子がよく見えているみたいだ。

凡人の僕は正面の大きな画面で、ゲート入りの様子を見ていた。

ねえさんいわく、この大型の画面はターフビジョンと言うそうだ。

無事に全馬ゲートインを済ませると、スターターの合図でゲートが開いた。

レースの始まりだ。

ゲートから一斉に馬が飛び出す中、2番の馬がわずかに出遅れた。


「あー、出遅れた。新馬にはようあることや」


騎手が出遅れを取り戻そうと手綱をさばく。

順調にスタートを切った馬たちの馬群の先頭には4番の馬がいる。

1番の馬と3番の馬は、馬群の後方に控えている。


「さぁ、どっから仕掛けるんや?」


最終コーナーの手前で4番の馬が馬群を抜け出した。


「おい、やっぱり4番来るんちゃうか?!」


いつの間にそこにいたのか、ねえさんの隣でおじさんが声をあげた。


「あー、仕掛けどころ間違えよったな。あいつは直線でガレて沈むやろ」


最終コーナーを回り直線に入った。

馬たちはゴールめがけて最後の脚を振り絞る。

地を這うような轟音が近づいて来ると、ねえさんはキラキラと目を輝かせた。


「来たで……!!」

「うわっ……!何ですか、これ?地響き?」


あまりの迫力に、僕は思わず息を飲む。


「馬の蹄の音。すごいやろ?」


後方から1番と3番の馬が一気に追い上げてくる。


「よっしゃ行けー!!」


馬群を大きく引き離し、先頭で横並びになった1番と3番の馬が、激しく競り合いながらゴールした。

人気の低い馬同士の組み合わせに落胆した客たちが投げ出したハズレ馬券が、紙吹雪のように無数に宙を舞う。


「どっちや?」

「んー……ハナ差で3番やな。最後はもう首の上げ下げやった」

「はあーっ……。やっぱりおねーちゃんの審馬眼はすごいで……」


当たり馬券をマジマジと見つめながら、おじさんはため息をついた。

そして嬉しそうに笑って、ねえさんの肩をガシッと掴んだ。


「よっしゃ!!おねーちゃん、今日はおごったる!!飲みに行くで!!」

「ホンマ?」

「ホンマや。おねーちゃんのおかげで大穴当てたからな!アンチャンも来い!ついでにおごったる!」

「あ……ありがとうございます……」


なんだかよくわからないけど、おじさんがおごってくれるらしい。


「アンチャン、酒飲めるんか?」

「あまり強くはないですけど、少しなら」

「まあ、無理せん程度に飲めや」

「はい……」


あれ?

僕はどうして今日初めて会ったばかりの、どこの誰かも知らない人たちとこうしているんだろう?

だけど全然イヤじゃない。

なんだかとっても不思議な気分だ。



お昼時になり、さっきまで脇目もふらず馬を観ていたねえさんが大きく伸びをした。


「なぁ、お腹空かへん?そろそろお昼にしよか」


ねえさんはまた僕の腕を掴んで歩き出した。


「あの……どちらへ?」

「フードコーナー。お昼ごはん食べるやろ?」

「おじさんはいいんですか?」

「おっちゃんはおっちゃんで、好きなようにしてるからええねん」


ねえさんとおじさんは顔見知りではあるようだけど、ここで顔を合わせたからと言って、常に行動を共にしているわけではなさそうだ。


「そうや。今やったら馬券売り場空いてるはずやで。頼まれた馬券、先に買うとき」


ねえさんは僕を馬券売り場に連れて行き、馬券の買い方を教えてくれた。

ねえさんに教わりながら、マークシートを鉛筆で塗りつぶす。

まるで学生の時のマークシート試験みたいだ。

そんなことを思いながらも、僕のすぐとなりにいるねえさんとの距離の近さに思わずドキドキしてしまう。

モテた経験がないからな。

女の人がこんな近くにいることなんて、滅多にない。

わざと失敗して時間稼ぎをしてやろうかなんて、バカみたいなことまで考えてしまう僕が情けない。

よこしまな考えは捨てよう。

素直にねえさんの言うことを聞いて、頼まれていた馬券を無事に買うことができた。

馬券売り場からフードコーナーへ移動して、ねえさんは僕の手を引きながら人だかりへと向かう。


「ここのカツサンドがな、めっちゃ美味しいねん」

「そうなんですか?僕、カツサンド大好きです。食べたいな」

「よし、カツサンドに決まりやな」


カツサンドとコーヒーを買って外に出た。

ターフビジョンの見える階段に腰掛けて、カツサンドの箱を開ける。

ねえさんはカツサンドを美味しそうに頬張りながら、僕の方を見た。


「どない?初めてって言うてたけど、競馬場は楽しい?」

「はい、楽しいです」

「そら良かった」


もちろん一人なら、こんなに楽しいとは思わなかっただろう。

競馬のことはなんにも知らない僕に、あれこれ教えてくれたねえさんがいたから、こんなに楽しいんだと思う。

どこでどんな出逢いがあるかなんてわからないものだと思いながら、僕もカツサンドにかぶりついた。


「美味しい?」

「美味しいです!」

「せやろ?ここで一番のアタシのお気に入りやからな」


ねえさんは子供みたいに大きく口を開いて、パクリとカツサンドにかぶりついた。

美人なのに気取らない人だな。

若い女性にしては珍しい薄化粧も、飾り気のないラフな服装も、すべてがこの人を引き立てているように見えてくる。


「アンチャン、ここ、ソースついてるで」

「え?」


ねえさんが唇の横を指差した。

僕は自分の口元を指で拭う。


「そことちゃう、反対や」


ねえさんの細い指が、僕の拭った反対側の唇の端をそっと拭った。

その指先の柔らかさに、僕の胸がドキドキと高鳴る。

ねえさんは指先についたソースをペロリと舐めて笑った。


「子供みたいやね」

子供扱いされて、僕は無性に恥ずかしくなる。

それだけでなく、ねえさんが僕の口元についたソースを拭った指を、ことも無げに舐めとったのが更に恥ずかしかった。

なんだこれ?

なんなんだ、このドキドキは?!

彼女に一度はしてもらいたいシチュエーションじゃないか!!

恋愛経験のない僕には刺激が強すぎて、思わずうつむいてしまう。

これは……僕が子供だと思って、からかってるのかな?

もしかして、僕がどんな反応をするのか試して面白がってる?

僕が上目遣いでそっと様子を窺うと、ねえさんは柔らかく微笑んだ。


「ん?どないしたん?」

「いえ……なんにも……」


からかうとか、面白がるとか、そんな人じゃなさそうだ。

自然に出た行動なのだろう。

……と言うことは、ねえさんにはこんなことを日常的にやってあげる相手がいるのかな。

その相手が羨ましい。

ねえさんは気にも留めない様子で、ホットコーヒーを飲んでいる。

まあ、あれだ。

どんなにドキドキしたところで、こんな子供みたいな僕は、ねえさんの眼中にはないだろう。