キョウダイセブン

FreeWriting

イナベより愛をこめて(5)

イナベより愛をこめて(5) 話の通じない人を相手にして時間とエネルギーを浪費しないこと 三重県では以前、免許の更新のためには県庁所在地の津まで行く必要があった。公務員だから午後5時には仕事が終了するというので仕事を休んで行く必要があった。私が出向いた時は正午前だった。私の後ろには自分の番を待つ人が長い列をつくっていた。 私の書類を受け取ったら正午になって、受付の女性はカーテンを閉めてしまった。私の次の人は憤慨して 「オレは仕事を休んで来てんだぞぉ!さっさと窓を開けろぉ!」 と怒鳴っていた。もちろん、開くはずがない。公務員だもの。 お役所だから決まった手順の仕事以外はやらない。改善する気もない。今ならロボットが代わりをやった方がずっとマシ。こんな公務員の態度に憤慨しても時間とエネルギーの浪費だ。 学校も同じで、公立中学・高校の先生は公務員で何も決められない。決まったことを処理したらそれだけでいいという仕事。自分の学力に全然合わないテキスト、授業進度、テスト。そんなこと抗議や提案しても無題。改善する気がない。 京大医学部医学科に現役合格したある女子は、授業中はすべて内職をしていた。学校の定

イナベより愛をこめて(5)

キョウダイセブン

FreeWriting

イナベより愛をこめて(3)

「自由権」を大切にしよう 自由とは誰かが与えてくれるものではない。日本の給食は全員同じものがお盆に乗せられて用意される。しかし、私のいたローガン中学校ではバイキング方式だった。自分の好きなものを、好きな量だけお盆に乗せる。考えてみたら当たり前ですよね。大きな身体の子もいれば、小さな子もいる。同じものを、同じ量だけなんてナンセンス。 学力も同じこと。得意科目はみんな違う。同じ数学でも、分数計算ができない中学生や高校生もいる。逆に、中学生や高校生の中でも微分・積分を楽しく計算する子もいる。チャート式でも、簡単な白、標準の黄色や青。難しい赤と分かれている。志望大学もAランクからFランクまでバラバラに進学する。それなのに、同じ授業で同じ宿題なんてありえない。 自分で自由に教材を選び、学習進度を決められない状態を“奴隷”と呼ぶ。ご主人様が全てを決めて、奴隷は無条件でその命令に従うしかない。日本の中学生・高校生は自分の受けるテストさえ決められない。ベネッセの進研模試は簡単すぎると言う高校生が多いけれど、どの模試を受けるかは学校に決定権があるのでバカバカしくても受けるしかない。 エピクテトスは言った

イナベより愛をこめて(3)

キョウダイセブン

FreeWriting

イナベより愛をこめて(2)

自分が大切なら「ノー」と言ってみよう 私がハッキリ日本の社会、学校がおかしいと気づいたのはアメリカのユタ州にあるローガン中学校にいた時のことだ。日本では、みんな同じ制服、靴、鞄、靴を身につけ、みんな同じクラス、教材、宿題をやる。 授業が終わると、みんな部活で日没まで学校にいる。 ところが、アメリカでは私服、化粧も自由。みんなバラバラ。もちろん、髪も色とりどりでカールやパーマの子も多い。クラスなど存在せず、授業毎にみんなバラバラで歩き回る。部活など無いので帰宅後は学校とちがう生活がある。教会活動やボランティア。スポーツをする子も勉強する子もバラバラ。 日本の中学も高校生も、他人の意のままに動く操り人形のように見えた。他人の命令によって動いている日本の生徒たちは不気味でさえある。自分の人生が自分中心にまわっているアメリカの中学生や高校生とちがって、自分を押し殺して生きている。 他人に自分の人生をコントロールされている人を犠牲者と呼ぶ。きっと、日本の中学生も高校生もこう言うだろう。 「だって、小さい頃から“先生の言うことを聞いて良い子でね”って言われて育ったんだよ」 私は、そのような日本の中

イナベより愛をこめて(2)

キョウダイセブン

FreeWriting

イナベより愛をこめて(1)

イナベより愛をこめて(1) 1章 学校まかせではいけない あなたの毎日の生活をふり返ってみよう。朝起きる。朝食をとって学校へ出かける。そして、教室で時間割どおりの従業を受ける。そして、部活。帰宅すると、先生のだした宿題に追われる。夕食をとって風呂に入って寝る。 よく考えてみたら朝から寝るまで教師の決めたとおりに動くようにがんじがらめになっている毎日ではないだろうか?他人があなたの人生の全てをコントロールしている。それは、プーチンが情報統制して国民を自分の意のままにコントロールしているのと基本的に何も変わらない。 人間は世界中、どこでも相手を支配しようとする生き物だ。そして、大多数の人はロシアの国民のように自分がコントロールされている自覚さえない。あるいは、気づいていてもあらがう術が見つからない。黙って従っている方が楽なのだろう。 自分の人生を犠牲にする必要などない。自分の人生をどのように生きるのか。それは、あなたが決めることだ。何も先生に逆らってトラブルを起こせと言っているわけではない。自分なりの哲学をしっかり持って、従えるところは従い、ノーと言うべき時ははっきりノーと言おう。 それだ

イナベより愛をこめて(1)

キョウダイセブン

FreeWriting

父親は一筋縄ではいかない(8章、A子ちゃんのこと②)

当たり前だが、マナーやエチケット、採点官に対する思いやりが欠ける英作文は高く評価されない。学力だけではなく、そういう人間的な深みがないと見込みがない。浅い理解では京大などの難関大は合格できるものではない。 実は、私に京大を7回も受けさせたのも直接的にはA子ちゃんの影響が大きい。 「この子は日本の宝だ。何としても志望校に合格させなければ」 と思った。出来ることは何でもやる。娘以外の人間で、私にそんな思いをさせたのはA子ちゃんが初めての生徒だった。 A子ちゃんは、あるクラブに所属して大会で入賞する成績をおさめていることは耳にしていた。ところが、高校2年のある時、自主的にそのクラブを引退した。理由は分からなかったけれど、成績が伸び悩んでいたのが理由だということは推測できた。 私は、彼女の覚悟というか気魄に驚いた。 「先生はバツイチでも、1回結婚できたからいいですよ」 と笑っていた。言葉の端々にクラブばかりか、彼氏も結婚も何もかも犠牲にしても医者になるんだという決意が満ちていた。彼女のクラスがある時は、楽しかったけれど緊張した。 「この仕事を始めてよかった」 私にそう思わせてくれた塾生の子は多

父親は一筋縄ではいかない(8章、A子ちゃんのこと②)

キョウダイセブン

FreeWriting

父親は一筋縄ではいかない(8章、A子ちゃんのこと①)

8章、A子ちゃん もう10年以上経ったから書いても人物が特定できないだろう。長く受験指導をしていると忘れられない生徒がいるものだ。A子ちゃんも、その一人だ。 私の塾に来てくれたのは彼女が小学6年生の時のことだった。最初に面接した時に、一目見て 「この子は賢い子だ」 と分かった。学力を確認しようとプリントを渡したら、いつまで経っても提出しようとしない。完全に仕上げるまで粘る子だった。 彼女は小学校の時から 「私は医者になりたい」 と言っていた。私の塾はそういう子が多い。しかし、家庭は金持ちではないので何がなんでも国立大でないといけないと覚悟していた。私の小学校時代とはえらい違いだ。 中学校では猛勉強して常に学年でトップクラスだった。そして、 「自治医大だと無医村に行けば学費が浮くとか聞いた」 とお金がなくても医者になれる情報を集めだした。私もできるだけ協力して情報を収集した。 そう思わせてくれる塾生だった。 灘やラサールや東海の過去問を集めて練習する授業も彼女から始めた。そして、当然のように四日市高校の国際科に合格した。 その頃、メールやファイルが普及し出したので私はさっそく 「家庭学習

父親は一筋縄ではいかない(8章、A子ちゃんのこと①)

キョウダイセブン

FreeWriting

父親は一筋縄ではいかない(6章、京都大学を7回受けることに)

6章,京都大学を7回受けることに 中学の数学を徹底的に教え込んでいるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よく分からない。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。 その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。 そのくらいやらないと、優秀な生徒の指導には役立たない。成績開示をしたら、京大数学で7割正解だった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子を指導しても困らなくなった。 しかし、そういう点数の問題だけではない。自分の中で大きな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖くなくなった。今では 「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」 とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので常に本番なのだ。 今では、英語より数学の方がはるかに面白いと思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑

父親は一筋縄ではいかない(6章、京都大学を7回受けることに)

キョウダイセブン

FreeWriting

父親は一筋縄ではいかない(5章、英語講師なのに数学Ⅲの勉強を始めた)

5章,英語講師なのに数学Ⅲの勉強をはじめた ところが、自分で塾を始めると 「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」 と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。 そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。 そういう優秀な子は 「高校に入っても指導をお願いできませんか?」 とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束だったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。 それで、考えた。 「灘高の入試問題の数学が解ける私なら高校数学も大丈夫かな?」 と考えた。 「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」 と思って、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。 それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎていた。まだトラウマがあり、手が震えた(笑)。しかし、驚いたことに、25年前の記憶が残っておりどんどん解けた。

父親は一筋縄ではいかない(5章、英語講師なのに数学Ⅲの勉強を始めた)

キョウダイセブン

FreeWriting

父親は一筋縄ではいかない(4章、名古屋大学の受験前)

4章,名古屋大学の受験前 数学に対する執着は残っていた。 最初に 「ボクは数学が苦手なのだろうか?」 と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。 当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。 点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて 「もうボクの頭には入りきれない」 と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、 「こんなのありえない!」 とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、 「証明できないと、使う気になれない」 というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。 2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ち

父親は一筋縄ではいかない(4章、名古屋大学の受験前)