「lily」

Chapter 1 - モノクロの世界で

宮間風蘭2020/07/02 07:17
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(初めて煙草を覚えたのはいつだっただろうか?)

 人気のない校舎裏で煙草をふかして、口から吐き出される煙をぼんやりと目で追いながら、白雪命(しらゆきみこと)はふとそんなことを思う。茶色く染められ、軽く巻かれた髪の中心には、人形のような端正な顔立ちが置かれている。高校二年生である命が、煙草を吸っていることは当然、正常であるとは言えないが、彼女にとって、放課後に校舎裏で煙草を吸ことがルーティーンとなってる節があった。

(別に煙草吸うだけなら、家で吸えばいいのに……。なんでわざわざ学校で吸ってんだか……。ばれたら、停学だろうなー)

 命にはそれが自傷行動の一つだという事が分かっていた。高校なんていつ辞めてもいい、しかし、自分から辞めることに踏み切ることはできない。そのジレンマに満ちた感情の表現こそが、校舎でわざわざ煙草を吸うという行動につながっていたのである。ふと、煙の先の空が命の目に映し出される。

(そういえば、最近、ずっと天気悪いなぁ。雨とか降らないといいけど……)

 そんなことを思っていると、命の方へ人が歩いてくるような気配がした。命は思わず煙草を手で握り潰して、背中に隠した。手に刃物が突き刺さったような痛みを感じるが、奥歯を食いしばり、必死に平然を装う。

「白雪さん、こんなところで何してるの?」

 目の前には、同じクラスの黒鉄詩(くろがねうた)が立っている。肩にかかるかかからないかという長さの黒髪に、切れ長の目、鼻筋の通った顔は美人を絵に描いたようである。命は、顔には出さないものの、心の中では苦虫でも噛み潰したように感じる。特段、詩が命に対して何かをしたというわけでもないが、一年生のころから剣道部のエースとして校内外で有名であり、学業においても非常に優秀、教師、友人からの信頼も厚い、自分と真反対ともいえる詩に対して、命は理屈ではない嫌悪感を抱いていた。

「別に、何もしていないけど。それより、黒鉄さんこそ、こんなところに何の用?」

 詩は、一瞬きょとんとしてから、軽く相貌を崩しながら口を開く。

「さっきまで、先生に呼ばれて、職員室に行っていたんだけど、その途中で、白雪さんがこっちの方に行くのが見えて、ちょっと気になって見に来ちゃったの」

(……全く、はた迷惑な好奇心だ。たまたま同じクラスになっただけの人間がどこに行こうと、わざわざ気にしなくたっていいだろう……。特に私みたいな人間に関わる必要なんてないだろうに)

 詩は、何も話そうとしない命を見て、悪意のない意地悪っぽい笑顔を浮かべながら話しを続ける。

「白雪さん。いくら校舎裏に人が来ないからって高校生が煙草を吸うのはよくないと思うよ?」

命の背筋に氷でも押し付けられたような寒気が広がる。

「なっ!? なんで……」

 言葉が出てこない命に対して、そのままの笑顔で詩が言葉を続ける。

「だって、煙草は隠せても、とっさだと匂いは消せないでしょ? ばれたら、停学になっちゃうよ? 私、同じクラスの子が停学になっちゃうの嫌だなー」

 少し考えれば分かることだった、と命は自分の思慮の浅さを恥ずかしく思いながらも、詩の笑顔が、彼女の詩に対するコンプレックスと相まって憤怒の感情が生まれていることを感じる。特に、「同じクラスの子が停学になるのが嫌」などという偽善的な言葉が命の感情を煮えたぎらせる大きな燃料源となっていた。命は、自分の感情への点火を止めることが出来ず、思うままの言葉を下手な鉄砲撃ちのように放っていく。

「別に、私が停学になったところで、あなたには関係ないじゃない! あなたみたいに、品行方正で成績優秀で、周りの人からも信頼が厚いような人の近くから一人の屑がいなくなったところで、何の影響もないわよ!」

 自分の眼光がどんどん鋭くなっていくことを感じながらも、命の言葉は止まらない。

「あなたみたいな人生勝ち組みたいな人間が、わざわざ、私みたいな人間のテリトリーに入ってこないで! 偽善的な言葉を吐いていれば、誰もがあなたにほだされるとでも思ってるの!? 笑わせないでよ!」

 息を大きく吸って、酸欠の頭に酸素を巡らせる。命の言葉に、詩は何も言わずただうつむくだけだった。二人の間にしばしの静寂が流れる。遠くからうっすらと聞こえる運動部の掛け声がその静寂をより一層不快なものへと変えていく。

「白雪さん……」

 そうつぶやくと、詩は命の目をしっかりと見据え、まるで何かを決意したような表情でゆっくりと、近づいていく。命はそんな詩の様子に、一瞬、臆したものの一歩も引こうとはしなかった。やがて、二人の体が触れるか、触れないか、というところまで近づいた。五センチ以上背の高い詩が、命を見下ろしている。

 詩は右手で、徐に命の顔を触れる。

(殴られる!?)

 命は思わず目をつぶった。 

 その瞬間、命の唇に、柔らかいものが触れる。

 予想外の感触に戸惑った命が目を開けると目の前には、彼女の唇を奪う詩がいた。彼女は狼狽しながらも、詩をはねのけようとするが、命の動きより早く、腕が命の腰へとまわり、距離をとることが出来ない。

(え?)

 命が、その腕に戸惑いを見せた、その一瞬、力が緩むと同時に、詩の舌が命の中へと侵入していく。

「ん……っ。んん……っ。あっ……」

 命の意志とは関係なく、口から声があふれ出す。いきなり、キスされたこと、逃げることのできない状況が命の判断能力をどんどん鈍らせていく。それとともに、身体の力も抜けていく。命にはもう自分がどんな顔をしているのかも分からない。唾液の絡み合う音と命と詩の時折漏れ出す官能的な音に命の羞恥心は極限まで煽られる。

「んぁ……。やぁ……っ」

 命が、とうとう膝から崩れ落ち、ようやく短いようで長い羞恥の園から解放された。命は、顔を炎のように赤くし、唇に手をあてたまま下を向き続けていた。彼女は、自分に何が起きたのかを、まだはっきりと理解できていない。詩は、そんな命の耳もとでささやく。

「ごめんね。私、あなたが思っているよりもいい子じゃないのよ。自分の欲しいものは奪い取るの、力づくでもね。あなたの前じゃいい子でいたかったし、ずっとそうしてきたのだけど……。そんな子は、好みじゃないみたいね。だから、これからは本音の私でぶつかることにするわ」

 詩は、何事もなかったかのように立ち上がり、荷物をまとめると「私、これから部活だから。また明日ね」と言って、悪戯っぽい笑顔を浮かべて去っていった。さっきのとは笑顔とは、うってかわって、悪意たっぷりの笑顔で。

「っ……。なん……なの、あれ……」

 命は、燃えるような自らの頬を触れながら、しきれない頭の整理に全神経を注いでいた。命にとっては、あらゆることが初めて過ぎた。キスをすることも、他人から、しかも女の子から好意を向けられることも、そして、なにより、快楽を与えられることも……。

 視線を動かすと、詩が来る前に吸っていた煙草の吸殻が落ちているのが目に入る。いつの間にか手元から落ちていたのだろう。命は、呆然とする頭の中、その煙草に火をつける。それを吸うでもなく、ただ揺らめく煙を目で追っていく。

「あれ……今日、晴れてたんだ……」