Chapter 3 - 黒蜻蛉
誰かが私に教えてくれたこと。
高校の友人だっただろうか。いや、もしかしたら小学生の時にやったコックリさんだったろうか。
何れにせよ、その不確かな言葉は私の脳裏に刻みついている。
「貴女は前世に恋人と死に別れている」
不思議な事だ。本当にどうでもいい話のはずなのに。普段は全く思い出しもしない。
前世など判った所でなんの役にも立たない。己の感性にほんの少しの彩が生まれるだけ。
だがそれは、前触れもなくやって来る。
開け放つ窓。日が沈みかけた茜の大空。
筋を引く雲と、不規則に凹凸した雲……孤独なひぐらしが最期の時に少しばかりの賑わいをさす。
そんな静かな唄を遮ったのは目線の下を通った深緑の列車だった。便利さを優先した対価と思えば、今の彼女にとっては皮肉でしかない。ムッとした暑さもまた気を滅入らせる。
夕立でも降ればいいのにと嘆息した彼女が再びその窓を閉めてしまおうかとしたその時だった。
何かが目線の端を黒い尾を引いて翔けた。
「あ、入ったらあかんって」
思いがけぬ来訪者に雨戸を閉めるのも忘れて振り返った。
彼と目が合った。いや、彼女なのかもしれないが……この際それは気にかけるべきではない。
それは左右の眼球をバラバラに動かしながらも、その輝きを放つ双眼に彼女の驚いた顔を映し込む。
「蜻蛉……?」
呟きは狭い部屋の白い壁に吸い込まれていった。
そして、それとは対照的な黒い体と瞳を持つその侵入者はどこか嬉しそうにくるりと飛ぶ。
透き通る羽をヒラヒラと羽ばたかせると、窓から差し込んだ夕陽を受けて輝いた。
彼女は得体の知れない違和感を覚える。
黒い蜻蛉……ハグロトンボという種を彼女は知っている。知っているが、それとは違う。何故ならその羽は本来黒いものだから。それに、腹の部分に黄色い筋など入らない。瑠璃のように少しばかり光り輝いているモノのはずだから。
「見たことないな……どこから来たん?」
何故か穏やかな気持ちが彼女を支配した。返事を期待したわけでもなく、単に口について出た言葉。
勿論その蜻蛉は答えるはずがない。
「どこかでおおたことある?」
幼い頃の癖で、彼女は白い人差し指を出してみた。
せめてものオシャレで爪に塗った透明のマニキュアも今は陽の光でキラリと光った。
こんな奇妙な生き物に既視感などある筈がないのに、親しみがある。妙な感覚だが、確かな実感があった。
指先にその軽い体が舞い降りる。引っ掛けた爪がこそばゆい。
『久しぶり』
「え?」
思わず声を上げる。頭の中、いや、鼓膜の中で震えた声。心地よい響き。
そんな筈はないと分かっていても、彼女はその黒い蜻蛉から目が離せなかった。
──胎内記憶という言葉があるが、それのような、否、それよりも昔に聞いたようなそんな錯覚に陥る。本当に何処か懐古するような……。
まるで、昔本当に出会ったことがある人の声かのような。
「んなアホな」
自嘲気味に笑った。
その時、背後で甲高い金属音の混じった騒音が彼女の肩を揺さぶった。
引っ込めた指先から蜻蛉が離れる。
どういう訳か、窓が開いていた。
黒い蜻蛉が山の端にすっぽりと隠れてしまいそうな茜に吸い込まれていくようだった。
まるで、彼がそこに帰っていくかのように。
風が吹いた。
彼女の長い髪をふわりと撫でる。蜻蛉は振り返らない。前へ前へしか進まない。
「また、いつか」
口について出た言葉に驚いたのは彼女だった。頬に熱い水滴を感じる。いつの間にか溢れ出ていたその水は顔を濡らす。
どこか、寂しいような悲しいような。
見つめていた赤い光はある瞬間を境に消えた。
彼女の耳に、心地よい水音が飛び込んでくる。
ザァザァと。
目を見開いた彼女の目線の先に、漆黒の空が広がっていた。雨戸がガタガタと不気味な音を立て、開け放った窓からは生ぬるい水滴が吹き込んでいた。夕立特有の土のような匂いが鼻腔いっぱいに広がった瞬間に、顔が濡れていることに気づいた。
走った稲妻。
黒い空を駆け抜けたそれは……あの蜻蛉によく似ていた。
「あ、蜻蛉……」
暗い部屋の中を見渡してもその姿はなかった。
暫くぼうっとしていた彼女はやっと、気づいた。
「いつから夢やったんやろ」
重い体を起こして雨風吹き込む窓を閉めにかかる。
その時彼女は見た。
目下。室外機を置くことが出来る程度の小さなベランダ。
そこで冷たい雨に打たれた亡骸がひとつ。
赤とんぼがその小さな体を横たえていた。
「そうか、逢いに来てくれてんな」
ふっと漏れた笑み。
濡れた顔から滴った水が口の端に達する。
舐めると少し、しょっぱかった。