Chapter 1 - 走る
走る。
走る。
走る。
暗闇の中を俺はひたすらに、走る。
俺を止めようとするやつなんてどこにも居ない。
俺も止まるつもりなんてない。
でも何故だろう。
漠然と、今日、止まる気がするのだ。
■◇■
「夢か……」
彼は目覚めた。
眠い目を擦りながら、夢を思い出す。
洗面所で顔を洗い、自らと向き合う。
冴えない目、そして、疲れた顔。
思わず苦笑した。
今日の彼の予定を、夢は知っていたらしい。
それもそうだろう。
夢とは、彼の意識なのだから。
いつもよりも少し遅く家を出た彼は、当ても無くフラフラと歩き回った。
特に急ぐ様子もない。
フラフラとひたすら歩く。
何処も見慣れた場所……の筈だったが、彼は何故か新鮮味を覚える。
いつも自分が乗っている深緑色の電車が、ガタゴトと音を立てながら彼の横を疾走していった。
いつも、汗だくで乗り込んでくる彼を冷たい目で見るOL、鞄を抱えて眠る中年男性、単語帳を眺める男子学生、ずっとスマートフォンを握って離さない女子高生。
彼らの顔がぼやけた男の脳裏にゆらゆらと現れた。
しかし今日は、走る必要が無いのだ。
電車に乗り込むために走る必要も、時間を気にして駅から走る必要も。
時に空を仰ぎ見ながら、彼はひたすら歩く。
「疲れたな」
歩いているだけだが、不意に疲労感が彼を襲った。
仕方が無い。
もう少し先に公園があったことを彼は思い出し、気持ち早めに歩き始める。
公園は、スグそこだった。
ベンチを見つけて座る。
空は曇っていた。
雨は降らない筈だ、と昨晩のニュースを思い出す。
ふと、彼は、ズボンのポケットから無造作に一枚の紙切れを取り出した。
彼の字が書かれた紙。
出来るだけ丁寧に書いたつもりだったが、やはり見返してみれば穢い。
「これも俺なんだよな」
ポツリと呟く。
そのまま彼は上着の内ポケットにそれをしまいこんだ。
なるたけ、丁寧に。
そんな彼を、不意に風が襲った。
ザワザワと木の葉が音を立てる。
心なしか、風が強く感じる。
雨が降るかもしれないな、と彼は直感したが、別にだからといって何かしようという気にもなれなかった。
「なにしてるの」
突然声をかけられ、声のした方を向くが誰もいない。
───いや、いた。
座っている彼の座高よりも随分低い位置に彼女の頭があった。
見知らぬ子だ。
いや、何となく何処かで見たような気もするが、子供の顔などそういうものだろう、と彼は思った。
「別に、何もしてないよ」
彼は、素っ気なく答えた。
誰かと関わりたい気分ではなかったのだ。
しかし、少女はお構いなく続ける。
「ねぇねぇ、走るの、好き?」
彼は、動揺を隠せなかった。
しかし、相手は子供。自分よりずっと子供なのだ。
だから、彼は出来るだけ優しく答えた。
「いいや、そんなに好きじゃないかな」
「そうなの? 走るの嫌?」
少女はまだ質問したりないらしい。
クリクリとした目が、男の顔を覗き込む。
「嫌、では無いよ。前は好きだった」
事実、彼は走るのが好きだった。
いつまでもどこまでも走っていたかった。でも何時からだろうか。どれだけ走っても、走っても、必ず誰かが彼を追い抜かしていく。
「じゃあ、かけっこしようよ」
彼女の提案に、男は顔をしかめる。が、もう既に少女は走り出していた。向こうの方で手を振っている。
「仕方ない、か」
彼の性分的に、放ってはおけなかった。
昔の自分を思い出しながら、身を低く構える。ふと、懐かしい思いに駆られた。
「よーい、ドン!」
鈴の音のような掛け声を合図に飛び出した。
地面を蹴る。
公園の白っぽい土を小さく抉りながら、あっという間に向こう側まで駆け抜けた。彼が走った後には黒っぽい小さな点が等間隔に並んでいる。
彼の走りを見た少女は丸い目をさらに丸くした。
そして、手を叩いてはしゃぐ。
そんな姿を見て、男は小さく笑った。
「昔は、みんな、俺が走れば笑ってくれていたのにな」
男の独り言は、少女にも聞こえていた。
少女には、彼の言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。
小さく首を傾げていた。
だが、その言葉の裏の悲しみに似た何かを受信したのか、彼の服の裾を小さく掴んだ。
「私、お兄さんが走ってるの好きだよ。いっつも、走ってるの見てるよ」
男を見上げ、ニッコリと笑って彼女はそう言った。
彼は、驚いた。
彼が何か言う前に、少女が続ける。
「今日は、お兄さんが走ってるの見れなかったから寂しかったの。でも、今日は、こんなに近くで見れたの」
彼は、言いかけた言葉をグッと堪えた。
「もう明日から見れないかもね」
という言葉を。
胸元をさする。
硬い紙の感触が……
「あれ、ない」
先程の紙切れがない。
振り返ると、彼の走った足跡の上に落ちていた。
ハッと気づいた時には遅かった。
彼が走り出す前に、強い風が吹いて何処か、彼方へと飛んで行った。
もう、追いつけない。
「あれ、なあに」
少女の問いに、何も答えられなかった。
だって、あれは……
■◇■
「夢……?」
ムクりと身体を起こす。
カーテンの隙間から小さく光が差し込んでいた。
時計の針が、今は朝だと知らせてくれていた。
ベッドの横のテーブルに目をやると、白い紙切れが見える。
手に取った。
穢い字だ。
『私、お兄さんが走ってるの好きだよ』
ふと、夢の中の少女の言葉が脳内に響いた。
もう一度、彼は時計に目をやった。
今からなら、まだ、間に合う。
身支度をそこそこに部屋を飛び出す。
走ったおかげで、電車には間に合う。
あの公園に差し掛かった。
内ポケットから、あの紙切れを取り出す。
公園に踏み込んだ彼は、ふと思い出した。
そうだ、あの少女は……
紙切れをビリビリに破く。
公園のゴミ箱へ投げ捨てた。
駅に向かって歩きながら、彼は電話をかけた。
三コール目で繋がる。
久しぶりに聞く、懐かしい、母親の声だった。
「あぁ、もしもし。母さん?」
『どうしたの? あんたが電話寄越すなんて珍しいわね』
「ほら、幼稚園の頃に陸上で一緒だった知恵の命日、あれ、いつだっけ」
『え? あぁ、再来週の土曜日だわ』
「そっか。ありがとう。じゃあ切るね」
素っ気なく電話を切ろうとした。
だが、電話口で彼の母親が続けた。
『最近、どう? 上手くいってるかしら』
上手くいってる……か。
彼はなんと言おうか迷った。
破り捨てたあの紙が脳裏をちらつく。
「毎日、走ってるよ。ひたすら」
暫く、母親が黙り込んだ。
『そうかい。昔からあんたはそうだったもんね。頑張るんだよ。いつでも帰ってきて良いからね』
母親の言葉に、男は小さく微笑んだ。
いい言葉が見つからず、「うん」とだけ言って終話ボタンを押した。
駅のホームから見える空は青く澄み渡っていた。
白い雲が上空を駆け抜けてゆく。
深緑色の列車が滑り込んできた。
いつもの顔がもうそこに居た。
■◇■
電車が静かに動き出す。
俺は、まだまだ走らなくてはならない。
俺のためにも、あの少女のためにも。
暗闇の中をひたすら走っていた俺は、もう居ない。
走ることをやめたから。立ち止まったから。
ずっと昔に落としたままだった物を、見付けたから。
やはりあの夢は、正しかった。
俺は、俺なりに、光の中をこれからもずっと走る。
転々と俺を追いかける足跡は、俺なんだ。
そして、目の前にあるこの道も。
ㅤ電車の窓に映った自分の顔に笑いかける。
俺はこれからも、ずっと─────