緑の電車

Chapter 1 - 走る

天雨美姫2020/07/01 13:09
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 走る。

 走る。

 走る。



 暗闇の中を俺はひたすらに、走る。



 俺を止めようとするやつなんてどこにも居ない。

 俺も止まるつもりなんてない。



 でも何故だろう。

 漠然と、今日、止まる気がするのだ。





 ■◇■





「夢か……」





 彼は目覚めた。

 眠い目を擦りながら、夢を思い出す。



 洗面所で顔を洗い、自らと向き合う。

 冴えない目、そして、疲れた顔。

 思わず苦笑した。



 今日の彼の予定を、夢は知っていたらしい。

 それもそうだろう。

 夢とは、彼の意識なのだから。





 いつもよりも少し遅く家を出た彼は、当ても無くフラフラと歩き回った。

 特に急ぐ様子もない。



 フラフラとひたすら歩く。

 何処も見慣れた場所……の筈だったが、彼は何故か新鮮味を覚える。

 いつも自分が乗っている深緑色の電車が、ガタゴトと音を立てながら彼の横を疾走していった。



 いつも、汗だくで乗り込んでくる彼を冷たい目で見るOL、鞄を抱えて眠る中年男性、単語帳を眺める男子学生、ずっとスマートフォンを握って離さない女子高生。

 彼らの顔がぼやけた男の脳裏にゆらゆらと現れた。



 しかし今日は、走る必要が無いのだ。

 電車に乗り込むために走る必要も、時間を気にして駅から走る必要も。



 時に空を仰ぎ見ながら、彼はひたすら歩く。





「疲れたな」





 歩いているだけだが、不意に疲労感が彼を襲った。

 仕方が無い。

 もう少し先に公園があったことを彼は思い出し、気持ち早めに歩き始める。



 公園は、スグそこだった。



 ベンチを見つけて座る。

 空は曇っていた。

 雨は降らない筈だ、と昨晩のニュースを思い出す。



 ふと、彼は、ズボンのポケットから無造作に一枚の紙切れを取り出した。

 彼の字が書かれた紙。

 出来るだけ丁寧に書いたつもりだったが、やはり見返してみればきたない。





「これも俺なんだよな」





 ポツリと呟く。



 そのまま彼は上着の内ポケットにそれをしまいこんだ。

 なるたけ、丁寧に。





 そんな彼を、不意に風が襲った。

 ザワザワと木の葉が音を立てる。

 心なしか、風が強く感じる。



 雨が降るかもしれないな、と彼は直感したが、別にだからといって何かしようという気にもなれなかった。





「なにしてるの」





 突然声をかけられ、声のした方を向くが誰もいない。

 ───いや、いた。



 座っている彼の座高よりも随分低い位置に彼女の頭があった。



 見知らぬ子だ。

 いや、何となく何処かで見たような気もするが、子供の顔などそういうものだろう、と彼は思った。





「別に、何もしてないよ」





 彼は、素っ気なく答えた。

 誰かと関わりたい気分ではなかったのだ。



 しかし、少女はお構いなく続ける。





「ねぇねぇ、走るの、好き?」





 彼は、動揺を隠せなかった。

 しかし、相手は子供。自分よりずっと子供なのだ。

 だから、彼は出来るだけ優しく答えた。





「いいや、そんなに好きじゃないかな」



「そうなの? 走るの嫌?」





 少女はまだ質問したりないらしい。

 クリクリとした目が、男の顔を覗き込む。





「嫌、では無いよ。前は好きだった」





 事実、彼は走るのが好きだった。

 いつまでもどこまでも走っていたかった。でも何時いつからだろうか。どれだけ走っても、走っても、必ず誰かが彼を追い抜かしていく。





「じゃあ、かけっこしようよ」





 彼女の提案に、男は顔をしかめる。が、もう既に少女は走り出していた。向こうの方で手を振っている。





「仕方ない、か」





 彼の性分的に、放ってはおけなかった。



 昔の自分を思い出しながら、身を低く構える。ふと、懐かしい思いに駆られた。





「よーい、ドン!」





 鈴の音のような掛け声を合図に飛び出した。

 地面を蹴る。

 公園の白っぽい土を小さく抉りながら、あっという間に向こう側まで駆け抜けた。彼が走った後には黒っぽい小さな点が等間隔に並んでいる。



 彼の走りを見た少女は丸い目をさらに丸くした。

 そして、手を叩いてはしゃぐ。

 そんな姿を見て、男は小さく笑った。





「昔は、みんな、俺が走れば笑ってくれていたのにな」





 男の独り言は、少女にも聞こえていた。

 少女には、彼の言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。

 小さく首を傾げていた。



 だが、その言葉の裏の悲しみに似た何かを受信したのか、彼の服の裾を小さく掴んだ。





「私、お兄さんが走ってるの好きだよ。いっつも、走ってるの見てるよ」





 男を見上げ、ニッコリと笑って彼女はそう言った。

 彼は、驚いた。

 彼が何か言う前に、少女が続ける。





「今日は、お兄さんが走ってるの見れなかったから寂しかったの。でも、今日は、こんなに近くで見れたの」





 彼は、言いかけた言葉をグッと堪えた。

「もう明日から見れないかもね」

 という言葉を。

 胸元をさする。

 硬い紙の感触が……





「あれ、ない」





 先程の紙切れがない。

 振り返ると、彼の走った足跡の上に落ちていた。



 ハッと気づいた時には遅かった。

 彼が走り出す前に、強い風が吹いて何処か、彼方へと飛んで行った。

 もう、追いつけない。





「あれ、なあに」





 少女の問いに、何も答えられなかった。

 だって、あれは……





 ■◇■





「夢……?」





 ムクりと身体を起こす。

 カーテンの隙間から小さく光が差し込んでいた。

 時計の針が、今は朝だと知らせてくれていた。





 ベッドの横のテーブルに目をやると、白い紙切れが見える。

 手に取った。

 穢い字だ。





『私、お兄さんが走ってるの好きだよ』





 ふと、夢の中の少女の言葉が脳内に響いた。



 もう一度、彼は時計に目をやった。

 今からなら、まだ、間に合う。





 身支度をそこそこに部屋を飛び出す。

 走ったおかげで、電車には間に合う。



 あの公園に差し掛かった。



 内ポケットから、あの紙切れを取り出す。



 公園に踏み込んだ彼は、ふと思い出した。

 そうだ、あの少女は……





 紙切れをビリビリに破く。

 公園のゴミ箱へ投げ捨てた。





 駅に向かって歩きながら、彼は電話をかけた。

 三コール目で繋がる。



 久しぶりに聞く、懐かしい、母親の声だった。





「あぁ、もしもし。母さん?」



『どうしたの? あんたが電話寄越すなんて珍しいわね』



「ほら、幼稚園の頃に陸上で一緒だった知恵の命日、あれ、いつだっけ」



『え? あぁ、再来週の土曜日だわ』



「そっか。ありがとう。じゃあ切るね」





 素っ気なく電話を切ろうとした。

 だが、電話口で彼の母親が続けた。





『最近、どう? 上手くいってるかしら』





 上手くいってる……か。

 彼はなんと言おうか迷った。

 破り捨てたあの紙が脳裏をちらつく。





「毎日、走ってるよ。ひたすら」





 暫く、母親が黙り込んだ。





『そうかい。昔からあんたはそうだったもんね。頑張るんだよ。いつでも帰ってきて良いからね』





 母親の言葉に、男は小さく微笑んだ。

 いい言葉が見つからず、「うん」とだけ言って終話ボタンを押した。



 駅のホームから見える空は青く澄み渡っていた。

 白い雲が上空を駆け抜けてゆく。



 深緑色の列車が滑り込んできた。

 いつもの顔がもうそこに居た。





■◇■





 電車が静かに動き出す。



 俺は、まだまだ走らなくてはならない。

 俺のためにも、あの少女のためにも。



 暗闇の中をひたすら走っていた俺は、もう居ない。

 走ることをやめたから。立ち止まったから。

 ずっと昔に落としたままだった物を、見付けたから。



 やはりあの夢は、正しかった。



 俺は、俺なりに、光の中をこれからもずっと走る。

 転々と俺を追いかける足跡は、俺なんだ。

 そして、目の前にあるこの道も。



ㅤ電車の窓に映った自分の顔に笑いかける。





 俺はこれからも、ずっと─────