心臓にもない、脳にもない

Chapter 2 - 小料理屋の少女とガラスの向こうのクラリネット

高松綾香2020/06/15 15:03
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部屋に設置された一つだけの窓から差し込む日差しの直撃を受けて少女は目を覚ます。街はもう賑わい出しているようで外からは活気のある声が聞こえてくる。



 昨日はいろいろな初めてがあったと、寝る前に考えていたのと同じようなことを思い返してから体を起こす。



 部屋には時計がないため今が何時なのかはわからなかったが、そんなに長い時間眠ったことは無かったためいつもよりも長く寝ていたとしてもせいぜい日が昇ってから一時間程度だろうと考え、部屋を出る。



 二階に降りたが狭間の姿はない。まだ寝ているのだろうかと思いながら顔を洗っていると、一階から椅子を引きずるような物音がしたため降りてみることにする。







「おはよう。お寝坊さんだね」



 いつも以上の楽しそうな笑顔で狭間が言う。



「おはようございます。すみません、そんなに寝てしまいましたか」



 少女は狭間の冗談じみた言い方とは相反して真面目に謝罪をする。



「いや、よく眠れたみたいでよかったよ」



 何が嬉しいのか狭間はニコニコと笑い顔のままだ。



 一階の店の中、少女が周りを見ると昨日通った時よりも席が増えている。昨日は気づかなかったがカウンター席の後ろ側の壁が取り外せるようになっていたらしい。四人掛け程度のテーブルが三つ設置され、店内がかなり広くなった印象だ。







 ちょうどテーブルの設置を終えたようで、狭間は少女へと歩みより昨日着せた着物を見ながら言う。



「やっぱり横着しちゃだめかぁ……」



「すみません、なにかしてしまいましたか」



 何を言っているのかは分からなかったが狭間が落胆した様子だったので少女はとりあえず謝罪をする。



「いやいや、俺の問題だから。謝ることないよ」



 少女の謝罪に対して狭間は先と同じような笑顔でそう告げると、ご飯にしよう。と少女を抱えて二階へと駆けあがる。少女はキョトンとした表情でされるがままだ。



「ちょっとまってね。座ってていいよ」



 履き物を脱ぎ散らかしたまま嬉しそうにそう言うとキッチンで何かを火にかける。



 少女は言われるがままに昨晩と同じ方の席に座って待つことにする。



 テーブルの上にはすでに何品か料理が置かれている。昨日と同じように二皿に分けられて野菜の漬物と和え物、白い四角の何かが小さめの器に、焼いた魚と卵焼きが正面にやや大きな平皿に盛られている。昨晩よりも彩りが質素ではあるが今まで食べていたものを思い返すとその豪勢さはくらべものにもならない。



 少女には目の前にあるのが魚で小皿に盛られているのが野菜だということしかわからない。右手の方を見ると昨日と同じスプーンとフォーク、ナイフのほかに細長い木製の棒が二本並んでいる。それは何に使うものなのだろうと、一昨日までの少女であればそんなことを考えたりはしなかっただろう。



 ほどなくして狭間も席に着く。椀に盛られて米と汁をテーブルに置いてから。



「じゃあ食べよっか。いただきまーす」



 昨晩と同じように狭間は両手を合わせ笑顔で呪文を唱えてから食べ始める。



 少女が何も言わずに新たに用意された木製の棒を右手で器用に操りながら料理を口に運ぶ様子を眺めていると、相変わらずの笑顔で狭間が話しかける。



「俺、主じゃないから、許可が無くても食べていいんだよ」



 少女はほんの僅か困ったような表情で尋ねる。



「ご主人様では、無いのですか」



「違うよ」



 狭間は表情を変えずに返事をする。



「では私はこれから誰の指示で……」



「わかんないことがあったら俺に聞いて。何も言われてなかったら自由時間だから、適当にやりなよ」



 やや暗い顔をした少女の話を割って狭間は変わらい笑顔で言う。



「この料理も食べたいなら食べていいし、いらないならそれもいいしね」



 そう付け足して。







 少女は困惑していた。今まで誰の指示もなく何かをしたことがなかったから。今自分が何をしたいか、目の前の料理を食べたいのかどうかということさえ判断がつかないほどに。



 テーブルの上を見つめる少女には構うこともなく狭間は笑顔で料理を口へと運ぶ。



 卓上に並んだ料理。それを眺めて少女は昨晩初めて口にした味や初めて感じた暖かさのことを思い出す。次第に腹が熱くなり、魚の脂が焼けたようなにおいに涎が溢れてくる。



 誰の指示も許可もなく何かをすることは初めてのことで、それはとても恐ろしかったが、目の前の料理と阿呆面でそれを頬張る狭間を見て少女は料理を食べることにした。



 スプーンを手に取り、椀に注がれ湯気を立てているスープへと手を付ける。中にはキノコが入っているらしく、スプーンで掬いあげるように混ぜるとキノコとともに沈んでいたものが煙のように立ち上がる。



 昨日のスープとは打って変わりさらさらとした様子のそれを口に含むと、芳ばしいような香りが鼻へと抜ける。一緒に掬ったキノコはみずみずしく独特な歯ごたえで噛むたびに心地良い振動を伝えるが、甘みがない分か味付けが少々薄いような気もする。



 次にフォークへと持ち替え、大きめの皿、魚のわきに添えられた卵焼きを持ち上げる。卵料理は見たことがあったが、手にしたそれは今までの物とは違い形がきれいに整えられている。



 一口で大きいそれを三分の一ほどのところで噛み切ると、プルプルと柔らかいような触感に気を奪われる。そして口の中へは信じられないほどの甘みが広がってゆく。昨晩のスープのような優しい甘さではなく、砂糖を舐めたようなまっすぐな甘さに少女は目を丸くする。今まで食事の際に甘いものなど食べたことは無く、予想外の味に自然と驚きが表情に出ていた。



「ごめん、うちは卵焼きはバカほど甘くする規則なんだ。嫌だったら食べなくていいからね」



 そんな少女の表情を見て狭間は嬉しそうに言う。



「いえ、とても……」



「おいしい?」



「はい、とてもおいしいです」



 少女はまっすぐに狭間を見つめて言う。その表情にはついさっきまでの困惑した様子はもう無く、分かりづらくはあるがほのかに心を躍らせているようだ。



 そんな少女の顔をじーっと狭間は眺める。



「……何か、してしまいましたか」



 やや困ったような無表情で少女が言うと、狭間はあっけらかんとした様子で返す。



「案外、食いしん坊だね」



「食いしん坊……」



 意味が分からないようで、少女はその言葉を小さく繰り返す。視線を卵の方へ落とすと、それは幾層にも重なり形を形成している。



「いっぱい食べる子のことだよ」



 狭間が笑顔でそう言うと、少女は視線を狭間の方へと戻して返事時をする。 



「そうかもしれません。狭間様の料理は食いしん坊です」



「うれしいこと言ってくれんじゃん」



 いつも通りの調子でそう言った狭間の表情は、その少女にはいつもよりも暖かみがあるように見えた。











 食事を終えると少女は着物を着換えさせられてから、狭間とともに街へと繰り出した。狭間は店を出た後に扉に何か張り紙をしていたが文字の読めない少女にはそれが何を意味するものなのかは分からなかった。









「あら、女の子と一緒なんてめずらしいじゃない」



 街で最初に訪れた服屋の店員が狭間に声をかける。



「クラッチと一緒がよかったですか?」



「それ私じゃなくて、レイラちゃんよ。この子のお買い物?」



 仲がいい様子で狭間と話す店員は癖のある長い赤髪を耳にかけながら隣に立つ少女へと視線を向ける。足元から頭までをすーと見て、ぴったりの着物だと優しそうに微笑む。



「はい、下着から寝間着まで全部そろえてください」



 狭間は少女の頭に手を乗せて言う。出発する前に髪を結ったためか、その手はいつもよりも数段優しく髪に触れている。



「下着から寝間着までってどれくらいのことかしら?」



 店員は整った顔をやや引きつらせて笑いながら狭間へと聞き返した。











 服屋でかなり大量に買い込んだため、何着かは持ち帰って残りは後日届けてもらうことにした。その後は八百屋等を回って食材を買い、薬屋と電気屋で買い物をするともう日が落ち始めていた。



 その時やっと少女は自分が昼過ぎまで寝ていたことに気づき、時計がないと不便なものだとおもった。







 帰り際に大荷物を抱えた狭間が思い出したように少女へと尋ねる。



「何かほかに欲しいものある?」



 そういわれた少女は困惑した。



 ほしいものはあった。今日一日狭間について回ってほしいと思えたものが少女にはあったが、今まで物をねだったことは無く、何かを与えてもらえたこともなかった彼女にはそれを狭間に伝えるのがとても怖かった。



「……」



 勇気を振り絞りそれを口を開くが、声は出てこない。



 今二人で抱えているこの荷物、そのほとんどが少女のための物である。その事実さえ受け入れがたいものであるうえ、これ以上何かをねだっていいものなのかと頭の中が混乱する。



 ざわめく街の音は少女の耳には届かずに何処かの教会の鐘の音だけがこだまする。



 しばらく沈黙が続いた末に狭間は小さくため息をつく。



 その様子を見た少女は、今日唯一何よりもほしいと思えたそれをねだることができなかったと、胸の内がキリキリと痛むように感じた。



 痛く、不快で冷たいような感覚に包まれていく中、不意に頬がぽっと温かみを持った。



 この感覚に視線を上げると狭間がいつもの様子で少女を見ている。左の頬には狭間の右手が添えられて、そこからは心地のいい温かさが伝わってくる。



 それはやがて胸の痛みを和らげ冷たく固まった空気を溶かしてゆく。



 少女は川の流れに身を任せるように口から言葉を吐き出す。



「なまえ……名前が……ほしいです」



 そうつぶやくと狭間の手は少女の頬から離れ、自分の頭へと移動する。



 狭間の少々考えるような表情に少女は腹の底が締め付けられるような感覚を覚えたが、それはすぐに取り払われることとなった。



「アイリス」



「……」



 突如として告げられたその言葉に少女は何も反応できずにいる。



 耳から入ってきたその言葉は、鈴を鳴らしたような、細く繊細な糸を紡いで作られたようなその音は少女の心へしっとりと溶け込んでゆく。



 狭間はとくに何を言うこともなくそんな少女をいつもの阿呆面で眺める。



「……あいりす……あいりす……」



 やがて少女は今渡された、自分へと与えられたその名前を繰り返し、丁寧に口にする。



 意味は分からない。



 意味があるのかすらも分からないし、どんな由来なのかも分からない。



 それでもその名前を口にするたびに、その名前を思い浮かべるたびに少女は昨晩のような温かさが溢れてくる。



 そこに昨日のような胸の切なさはなく、ただただぼんやりと温かく心地よい気持ちに包まれた。



「ありがとう……ございます」



 そうつぶやいた少女の瞳は狭間の目を見ることはできずにいた。











 家へと帰ると少女、アイリスは荷物を渡され部屋で整理しておくようにと狭間に言われた。渡された荷物の中にはラジオと時計も入っていた。



 一通り片付けが済んだところで夕食の支度ができたと声をかけられ、キッチンへ行き食事とシャワーを済ませる。



 シャワーから出たところで狭間はアイリスを引き留める。



「背中見せて」



 無表情に後ろを向いた少女の背中には多数の傷がある。



「ちょっと薬塗るよ。これから毎日やるから」



 そう言って少女の背や腕などに残る傷や、傷跡へと薬を塗ってゆく。



 後ろを向いたままの少女には狭間がどんな表情をしているのかは分からなかった。







 部屋へ戻りベッドに腰かけて今日もらった時計を眺めながらアイリスは考える。



 もし、また何かをねだっても良いのなら、電池を貰おうと。