軽やかな気分の小曲

Chapter 1 - 生クリームと温度計

村崎紗月2020/06/01 08:03
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「もう一回やっていいですか。」

 私は自分で淹れたコーヒーを飲みほして、足元で倉庫をあさっている女性を見下ろした。窮屈そうに身体を縮めて、床下の倉庫からコーヒー豆を出しているのは智弘さん、この喫茶店のオーナーだ。

「フリーポア?エッティング?」

「エッティングです」

「あ、ああ、ちょっと待って、あそこの……あそこの!グアテマラ・アンティグア!今からローストしないと今日の夜に来るお客のオーダーに間に合わない!」

 ああ、名前が男らしいから、こんなに男前になってしまったのだろうか、とたまに思う。

「よいしょっと……」

 智弘さんはコーヒー豆の袋を数袋出して立ち上がった。立ち上がると、私の背が低いことが際立つ。長い髪を掻きあげて、ふぅ、と溜息を吐いた。だるそうな表情。いつもより動きにキレが無いのは暑いからだろうか。

 因みに、ともひろ、と呼ばれると怒るらしいから、ちゃんと、ちひろ、と呼ばなければならない。

「そういえば、あんたも懲りないねぇ、今日何杯目?」

 可愛らしく小首を傾げて、智弘さんはローストマシンにグアテマラ・アンティグアという銘柄のコーヒー豆を入れ始めた。

「まだ十杯もやってませんよ」

 私はコーヒーカップを洗って、くすりと笑った。まったく、いつも思うが智弘さんは快濶な人だ。

「まだって……ったく、十杯やったら終わり。豆が勿体無いし。今月分の豆代、給料から差し引くからね」

 彼女はそう言ってローストマシンのスイッチを入れて、カウンター席に座った。いつの間にかその手には牛乳やコーヒーの温度を測る温度計の針が。

「はは、豆代くらいなら引いてくれて良いですよ」

「よーし、がっつり引いとくね」

「どうぞ、どうぞ」

 がっつり給料から豆代が引かれて手取りが無くなるのは困るが、実際に智弘さんはそんなことはしない。とても優しい人だ。

 私が高校時代からお世話になっているカフェ、それが交流の始まりで、私はいつか恩返しがしたいなんて思っている。

 ふと南の壁に掛けられた時計を見ると、もう彼女の休憩時間に入っていた。

 もう一回エッティングの練習をして、夜の店の準備……クロックムッシュとマフィン、それから、そう、今日の夜に来る常連さんの為に特別オーダーのパニーニを焼かなければ。

 そんなことを考えながら、エスプレッソを抽出する準備を始める。

 智弘さんは温度計の針をクルクルと回しながら溜息を吐いた。

「でもさ、コーヒー豆の焙煎も上手くて、個人の注文にあったコーヒーも作れて、エスプレッソの抽出も出来て、素人には難しいフリーポアまで出来るんだから、エッティングはゆっくりやればいいじゃない」

 彼女は少し不思議そうな顔をして私を見ている。日本人らしくない色素の薄い瞳がまっすぐこちらを見ている。

「早く智弘さんみたいに綺麗なエッティングがしたいんですよ」

 私は気まずくなって手元に意識を集中させた。

 早く、早く自分の店を出して、今までお世話になってきた人に自分のコーヒーを飲んでもらいたい。

 私はそう心の中で思いながら智弘さんの好きなアイスモカラテを淹れる準備をする。

 私が家族の事や学校で上手くいかない時、やさぐれた心をラテ・アートで解かしてくれたこの人のために。

 彼女は苦いモカが好きで、モカシロップも少し入れないと……

 エスプレッソを抽出して、ダブルショット。氷をシェイクして小さな粒にしたのが智弘さんの好きなアイスコーヒー。独特だけれど。

「アイスだけど、していいですか?」

 私は両肘をついて此方を見ている智弘さんを窺った。とても眠たそうな顔をしている。

「あたしがする」

 智弘さんは眠たそうな顔のまま、持っていた温度計針を水で冷やし始めた。それからカウンタークロスで水分を拭き取ると、私が作ったアイスコーヒーを受け取る。

「エッティングはね、そんなに急に出来るもんじゃないし、あたしだって、何年も修行してやっと出来るようになったんだから、焦らなくて良いと思うよ」

 カウンターの向こう側で智弘さんの手の中にある温度計針がゆっくりと動いた。

 私はいつも智弘さんの手の動きに魅了される。

「そんなもんですかね」

「そんなもんでしょう」

 針は小さな世界で大胆に弧を描く

 直線 弧 波線

 エスプレッソとカップを行き来する温度計の針

 まるで絵画の様に繊細に

 そして大胆に

「凄い……」

「まぁ、こんなもんでしょう。気長にやりなよ」

 智弘さんは出来上がったラテ・アートを満足げに眺めた後、直ぐに飲んでしまった。歪んでしまったそれを私は残念な気持ちで見る。

「ラテ・アート、飲んでしまうのが勿体無いですね」

「そんなことないよー、飲むためのコーヒーだよ」

「そうなんですけどね……」

 私は智弘さんがそこに置いたカップを手に取った。

 生クリームが底に溜まっている。私は小さくため息を吐いた。

 なんであんなに巧いエッチングが出来るのだろう。

「よーし、美味いコーヒーも飲ませて貰ったし、ちょっと一眠りしてくるね。このあと四時半頃に鷹之宮の仕入屋さんが来てくれるから、在庫と伝票見ながら足りない物買い足しておいて」

「え、私がですか、ち、ちょ、ちょっと、え、待って、待って、智弘さん待ってくださ」

「おやすみ!」

「あ……えー……」

 私の制止の声を無視して、智弘さんは店の奥にある事務室兼仮眠室にそそくさと引っ込んでしまった。

 ブラックな職場ではないし、気分の波がある人では無いが、こうしてたまに私の実力を試してくる。

「行っちゃったよ、もー本当に私より自由な人だなぁ」

 無情にもパタンと閉められたドアを見つめた。ベッドのスプリングが一瞬だけ軋んだ音がしたっきり物音が一つもしないので、もう寝る体勢になってしまったのだろう。

 仕方が無いので私はレジの置いてある作業台の引き出しから、伝票を探すことにした。

「伝票……伝票」

 コーヒーに関しては厳しくてきっちりしている人なのに、その他の事になると、智弘さんは整理整頓をする能力を失うらしい。

「どこよ……」

 私は額の汗を拭った。

 クーラーが効いていたとは言え、節電のために智弘さんの休憩時間のうちは冷房を切っているから、店内は外よりも少し涼しいだけだ。

 まだまだ九月の上旬、気温は一向に下がる気配を見せない。

「あ、あった……」

 私は茫然とドリップ用の機材が並ぶ棚を眺める。嘘だ、あんなに探し回ったじゃないか、と脱力した。

「なんだ、こんなところにあったじゃないか」

 肩を落としたまま食器棚の前を通り過ぎ、機材が立ち並ぶ隅っこに貼ってある在庫表を手に取る。智弘さんの丁寧な可愛らしい文字と、私が書いた教科書体の崩したような文字が交互に並んでいた。前回仕入れ屋が来たのはちょうど二週間前で仕入れた豆の量は……とか考えていると、ふと気が付いた。

「ここ二ヶ月位は私が仕入れ担当してる、こんなところに貼った覚えないんだけどな」

 私は一回置いた場所は忘れない質なので、世間一般の人がよく言う、鍵が無いだとか、この間はこの辺にあったのに何処に行ったんだろうとか、一度も経験したことがない。あぁ、いけない。時間が無いんだった。

「クロックムッシュとマフィン、あと〈メンドクサイ〉パニーニ」

 この二週間で使った豆の量を表に書き込みながら次にやることを呟く。

 今日はやらなければならないことが多いから大変だ。

「よし、あと一時間もあるし、後でもう一回練習しよう」

 私は小麦粉やら卵やら、パンを作るのに必要な材料を食料庫から出して、いつものようにパニーニ用の生地を練り始める。早くしないと酵母が死んでしまうから手際よく迅速に、というホントかウソか分からない智弘さんの言いつけ通り、パン生地をものの数分で捏ね上げる。

「ラップして、醗酵」

 生地が出来上がると、そのまま発酵させるために少し寝かせなければならない。綺麗な丸形になったそれを満足げに眺めてからラップをした。

 私はそのままの調子でマフィンとクロックムッシュの準備を済ませると、先ほど智弘さんが使っていた温度計針とカップがまだ洗われていないことに気付いてそれらを手に取った。

 こんなに細い只の温度計針なのに、綺麗なエッティングが出来て羨ましい。焦らなくてもそのうち出来るようになると言われても、上達している実感はないし、自分の店を出す前に完璧に出来る様になっていたいし。

 洗った温度計針を拭っていると、先の方が少し曲がっているのに気が付いた。ただコーヒーに絵を描くだけだから、それで曲がったとは思えない。落とした覚えもないし、智弘さんが自分で曲げたのだろうか。

「こんにちは、鷹之宮です」

 温度計針をぼうっと眺めていた時、不意に裏口のドアが開いて見知った女性が顔を出した。

「桜。早かったね。まだ四時になったばかりなのに」

 私は温度計針をカップの中に入れると、伝票類を持って彼女に走り寄る。時間があるとはいえ、少しでも待たせるのは気が引けた。

「ええ、この後財閥の会議が入ってしまって。すぐ智弘さんにお電話差し上げたけれど出られなかったので、直接きてしまいました」

 彼女は高校からの同級生で、気心がしれた親友でもある。それでこの整った容姿で才女、極めつけは鷹之宮財閥のお嬢様。そう、まるで漫画の登場人物の様な女性。

「あぁ。今智弘さん、お昼寝タイムだから」

「なるほど」

 彼女は依然よりもにこやかな笑顔をこちらに向けた。

「なんか良いことあった?」

「ええ、彼が」

 桜はふふっと照れた笑い顔を見せてくれた。

 そうか、やっとか。と心の中でほくそ笑む。

「あ、えっと、じゃあ、こちらの都合で申し訳ないですが、さっそく」

「はいはい」

 桜に書類を手渡し、私はトラックから、先ほど伝票に書いた銘柄の豆と材料を荷台に移す。体は小さいが力には自信がある。

 量を彼女に確認しながら必要数出し切った時、奥の方からのそのそと寝起きっぽい顔をした智弘さんが出てきた。

「おはよう。桜ちゃん、電話出られなくてごめんね、寝ていたよ」

「いえいえ、お疲れ様です。もう伝票の通りに出してもらいました。代金はいつものようにさせていただきますね」

 にっこりと営業スマイルを浮かべ、桜は伝票を智弘さんに渡す。その右手の薬指にはリングがはめられていた。

「いつもありがとうね。ん、あれ、桜ちゃん、婚約したの」

 智弘さんは驚いた顔をして桜の顔を伺う。意外だ、とでも言いたげな顔だ。確かに桜は仕事の鬼のように朝から晩まで働いているが……

「そうなんです。先日プロポーズされまして、好みの男性ですし以前から結婚を前提にお付き合いさせていただいています。あ、これ、まだお父様に内緒ですので、どうかご内密に」

「おお。おめでとう!いいねぇ、結婚式にはよんでね」

 智弘さんはにこやかに笑って伝票をファイルにしまいながら言う。少しだけ羨ましそうな表情だ。自分はすでに結婚しているくせに。

「ありがとうございます。もちろんです」

 私は外にあるコンテナ庫に豆と材料を運び入れることにした。まだもう少し女同士の話は続きそうだ。

 荷台はいつもより重い。今月近いうちに桜がこの店で何か催すらしく、その材料らしい。

「よっと……」

 先ほどまで暑かったのに、いつの間にか厚い雲が空を覆っている。

「雨、降りそうだなぁ」

 微かに湿り気を帯びた空気が頬に纏わりついた。あまり気持ちの良いものではない。

 コンテナ庫の整理も全て終わりゴミを手に店の中に戻ると、智弘さんが先ほど私が準備しておいたパン生地を焼いているところだった。香ばしいにおいが店の中に充満してきている。

「生地練りありがとう。あ、桜ちゃん帰っちゃったよ」

 智弘さんは欠伸をしながら大きく伸びをした。一体いつまで眠たいのだろう。作業を始めたらいつもは眠気なんて吹き飛ぶとか言っているのに、体調不良だろうか。

「あぁ、会議とか言ってましたね。またすぐ会う予定あるんで大丈夫ですよ」

 私はゴミを捨てて汚れた手を洗った。いつの間にか流しにスイーツの皿が置かれている。保冷庫に残っていたシューケーキが無くなっていた。

「あれ、桜が食べていったんですか?」

「いや、あたしが食べた」

 あっけらかんと笑って、智弘さんはコーヒーを飲んだ。どうやら今度はウィンナコーヒーにしたらしい。縁から生クリームが零れそうだ。

「最近体調でも悪いんですか?」

 以前に甘いコーヒーは苦手だと言っていたから、智弘さんがウィンナコーヒーを飲んだり、ケーキを食べるのはとても意外だ。体調が悪かったり疲れていたりするとき、それとイライラしているときは甘いものが欲しくなると言うが。

「あ、いや、特にそんなことないんだけどね、疲れてるのかな」

 ははは、と笑う表情もいつもより覇気がない。それに顔色も悪いようだ。化粧室に行く回数もいつもより多い。

「智弘さん、今日は無理しないで寝てた方が良いんじゃないですか?」

 心配になってそう言うが、智弘さんは大丈夫と首をふる。

「ほら、今日はパニーニのお客さんがコーヒー飲みに来るし、休んでいられないよ。マフィン出すの手伝って、ほら」

 あまり大丈夫そうには見えないが、一介の従業員である私が強いことも言えないので、渋々智弘さんの言う通り準備を始める。

 少しくらい休めばいいのに。

 汚れていた窓を拭いていると、ポツリポツリと雨が降ってきた。予報では今日の天気は晴れだったのに。こう、智弘さんの大事なお客様が来るときに限って天気予報は嘘を吐く。

 ここだけの話、今日来るパニーニのお客様とグアテマラ・アンティグアのお客様は同一人物で、智弘さんの旦那さんらしい。

 今までにも何度も予約を入れていたらしいが仕事が忙しいらしく、私が居るときには、一度もここに顔を見せたことは無い。智弘さんの様な素敵な人の旦那さんなのだから、その人も素敵な人に違いない。それに智弘さんは特別に旦那好みのメニューを出すような可愛らしい人だし、きっと男性らしい頼もしい人が来るんだろうなとも思った。

「あ、雨降ってきたんだね」

 智弘さんが窓の外を憂い気に眺めてそう呟いた。

「そうみたいですね……」

「じゃあ今日は暇そうだね、お客さん来ないようだったら、早めに切り上げてお店閉めよっか」

 少し悲しげに笑う智弘さんを見て、胸が痛くなる。こんな日だからこそ、旦那さんが早く来てくれることを私は祈った。

 智弘さんの予想通り、夜は二人でぼうっとしていられる程暇だった。智弘さんはCDラックに新しいものを追加したり、あまり流さない物は仕舞ったりして過ごしていたし、私は私でエッチングの練習をちまちまとやっていた。

「あたしもエッティングしようかな」

 智弘さんが私の持っていた温度計針を横からひょいと取って、そう言った。朝よりも明らかに顔色が悪い。

「え、ちょっと、智弘さん、顔色悪すぎですよ。店は全部片付けておくんで、もう帰ったらどうですか」

「んー、でも……」

 私は何度も帰った方が良いと智弘さんを説得したが、彼女は旦那が来ないときは連絡来るけどまだ来ないから、と首を縦に振らなかった。

 なんとか説得して奥で横になるところまでは落ち着いたが、智弘さんは普段よりもそわそわしている。

 八時半を過ぎても連絡は来なくて、私はそろそろ智弘さんが気の毒になってきた。こんなに旦那さん想いの良いお嫁さんなのに旦那は連絡の一つも寄越さないのか、と一人で憤慨していると、智弘さんの寝息がカウンターから聞こえてきた。あまりにもそわそわしているので、仕方がないから、奥ではなく店前で安静にしているなら起きていてもいいですよ、と言ったら嬉々としてカウンターに座り私の練習を眺めていたのだ。

「あらら」

 私は奥から自分の上着を持ってきて智弘さんの肩にかける。

 あちこち具合が悪いからと体を温めて、こんなゆっくりとした時間が過ぎて、それにお気に入りらしい曲をかけていれば眠くもなるだろう。

 雨は夕方から止むことなく降り続けている。強い雨ではないから、もうしばらく降り続けるだろう

「ある程度片付けようかな」

 私は智弘さんを起こさないよう、音を立てないよう周り拭きを始める。しかし、お客さんも少なかったからか、汚れているところは多くない。

「どこまで掃除していようか」

 だいだい片付けも終わり、閉店時間まであと三十分というとき、突然入り口が開いて、お客さんが来たことを告げる鈴が鳴った。

「いらっしゃいませ……」

 私はつい小声で言い、その後絶句。

「あぁ、智弘寝ちゃったか、ごめんな遅くなって」

「ま、真波先生、なんで」

 その男の人は当然のように智弘さんの顔を覗き込んでから彼女の隣に座った。この人は私の高校時代の恩師で大学を出てからもちょくちょく相談に乗ってくれていた真波拓先生。私の記憶違いでなければ、今日は結婚記念日の筈だ。まさかとは思うが。

「まさか、先生の奥さんって」

 そういえば、すっかり忘れていたが智弘さんの苗字は……

「遅くなってごめんな、星川も遅くまで大変だな」

 高校の時よりも渋みが増して良い男になっている、たぶん今年で三十四歳のその男を睨みつけて、私は小声で批難する。

「先生、智弘さんがどれだけ楽しみに待っていたと思っているんですか、連絡の一つでも入れてくれればよかったのに、それに先生だと分かっていたなら何か用意したのに!」

 真波先生は申し訳なさそうな表情でまぁまぁと手を出した。

「仕方ないだろう、この時期は就職組の面倒と教育実習の教育で忙しいんだから、智弘もわかってるよ」

「だからって、体調悪い奥さんをほったらかして他の」

「智弘具合悪いのか」

「え」

 先生はいきなり真剣な顔になって智弘さんの顔をまじまじと見つめた。

 私は何か悪い事でも言ったかとたじろぐ。

「なんか気持ち悪かったり頭痛かったり吐き気とかあったみたいですよ。さっき薬飲んで落ち着きました」

「やった……」

「え?」

 奥さんの体調が悪いというのに、先生はニコニコと笑顔になった。

「最近甘いもの欲しがるからまさかとは思ったけど」

「なんですか」

「薬のんだのはいただけないけど」

「どういうことですか」

「智弘、智弘」

 真波は智弘さんの肩を軽く叩いて彼女を起こす。私の疑問は解決してくれないようだ。

「……はぁ……グアテマラ・アンティグアのミディアムとパニーニ、すぐ出ますけど、食べていかれるんですか」

「もちろん」

 私は諦めてコーヒーの準備をする。智弘さんが起きたので、真波先生は優しく智弘さんを抱き締めた。

「俺の教え子も結婚するし、智弘はおめでただし、今日は最高の記念日だ」

「今日は来てくれると思ってた」

 智弘さんは私と居る時には見せない柔らかい笑顔を見せる。こんなに女性らしい表情もするんだなと、その時思った。

「だから具合悪かったのか」

 私は納得して真波にパニーニを出す。

「練習の成果を出してあげれば」

 智弘さんに体を温めるようホットミルクを手渡し、先生のコーヒーに取り掛かろうとしたとき、智弘さんがそう言った。

「智弘が作るパニーニより美味い」

「変なこと言わないでください、後で智弘さんの鉄槌食らいますよ」

「まぁ、後で話聞こうね、じゃなくて、ほら、那瑠ちゃん」

 智弘さんはサラリとそう言い、真波先生も期待の眼差しをこちらに向ける。簡単に言うけど、智弘さんとある幼馴染の前でしか練習してこなかった私にとって、恩師の前でラテ・アートを披露するのはとても緊張することだ。

 夫婦二人の視線に負けて、私は一度深呼吸をしてから、いつも使っている温度計を手にする。

「ん、そうだ。あたしの温度計の使ってみなよ」

「え、でも」

「いいから、いいから」

 智弘さんは半ば強引に私の温度計を奪うとニカッと笑った。私は言われるがまま、智弘さんが使っている針が少し曲がっている温度計を手にとる。

「使いやすいよ」

 智弘さんのそんな言葉に半信半疑。そのまま私はエスプレッソに針をつけた。

 私は高校の校章を思い浮かべる。

 単純な線と少し複雑な螺旋が組み合わさった形

 いつも練習するときと同じ形

 大きな六角形を崩さないよう繊細に

 螺旋が重なり合って

 線と線がぶつかって

 まるで水紋みたいに

 ―

 出来上がって、そっと先生の目の前にカップを置いた。

「使いやすい」

 私はなんだか照れくさくなって口許を隠す。何故だか分からないが、にやけが止まらない。

「でしょう、出来も上々。言う事無しね」

 智弘さんに笑顔を返して私は自分の温度計を手にした。

「曲がったところにエスプレッソが少しだけ溜まってくれるんですね」

「そう、実は私もさ、それに気付いたのは一年くらい前なんだけどね」

 智弘さんがニカッと笑うと何だか安心する。

「写真とってもいいかな」

 真波先生はスマートフォンのカメラを準備した状態で私を見た。私はちょっと笑って首を縦に振る。

 私も写真が撮りたかったけれど、恩師の手前、気恥ずかしくて撮れなかった。後でこっそり智弘さんに焼き増ししてもらおう。

「コーヒーも俺の好きな味だ」

 先生はまるでコーヒーを水のように飲んでおかわり、と言った。うちの店、二杯目以降にラテ・アートはしない方針だけれど、私は嬉しくてもう一度、今度は違うラテ・アートを描いた。

「もうちょっと気長に、しばらくここで働こうかな」

「ほんと?嬉しいな」

 智弘さんは自分でまたウィンナコーヒーを淹れて、今度は温度計針で生クリームの上に何か文字を書き始めた。出来上がったそれを見て、私たち三人は顔を見合わせて笑った。