Chapter 3 - 二噺 幸か不幸か
目の前に、赤ん坊。彼女の名前はラプンツェル。
木の柵で囲われたベッドの中の、白い毛布の上に置かれた、生まれて間もない碧眼の少女。
むちむちの短い腕を、何かを訴えるかのように上下に振っている。
ヤギの乳が入った壺を取り出しながら、連れてきたばかりの頃の苦労を思い返す。
彼女は大きな魔力を持っているので、特殊な魔法の結界で囲まれたこの城から出ると、他の魔法使いや悪魔達に見つかってしまう。
なのでラプンツェルはこの城から出られず、彼女の育児を人に任せることも出来ない。そもそも任せられる知り合いなど、とっくの昔にいなくなってしまっていたが。
かくてラプンツェルの子守りをすることになったのだが――赤ん坊の面倒、特に、夜泣きには苦労した。何故泣くのかさっぱり分からないのだ。
子育てどころか、近頃は人と表立った関わりすら持っていなかった私は、笑顔の作り方も忘れていた。
庭で育てた魔法の藁で壺を覆い、魔法を唱える。ゆらゆらと赤い光が藁に集まり、周りの空気を温かくしていく。ミルクを人肌の温度にし、ラプンツェルに与える。
魔女となった私が、まさか、子育てとは。
こんなこと、夢にも思わなかった。不思議な巡り合わせもあるもんだ。
「フフッ」
思わず笑みが溢れてしまった。何故だろうか……。
ああ、そうか。笑顔とは、こういうものだったな。
私を見たラプンツェルがキャッキャと喜んでいる。
普段は見せない表情の私が珍しかったのだろうか。
「……そうだな」
これからこの子には、様々なことを学ばせなければならない。
この世界のこと、自らの力のこと――そして、人という生物のこと。過酷な未来を乗り越えるために、物事の表と裏を見分ける力も必要になるだろう。
だが同時に、生きていくには幸せも必要である。笑顔を忘れるような、私のような存在にはなってはならない。
そのために。
「少し、遊ぶとしようか!」
私は自分でも不自然と分かる、ぎこちない笑顔を作った。
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「深緑の魔女が動きを見せたそうじゃない……悪魔の天敵と恐れられた、あの魔女が」
無音の空間に、甲高い女の声が響き渡る。
「はい、人間の赤子を城に入れたらしく、生まれたばかりの人間の反応が城に消えました」
その言葉に、落ち着いた声色の女が返事をした。
そこは、海の底。魚群が雲のように流れる、暗く静かな蒼き世界。
そんな海藻の原の中に、かつての文明を思わせる、水に沈んだ城塞がぽつり。
「やはり面倒ね、あの城は。結界としても、魔法防壁としても完璧に近い」
「魔女の名は伊達ではないということでしょうか」
本来、人など死体しか存在出来ないような空間で、二人は言葉を交わしている。
水の悪魔が住まう水魔の国。城には魔法の結界が張られており、城の中は海水ではなく空気で満たされていた。
「ワタシ達の邪魔ばかりするから、引っ込まざるを得ない状況にしたのだけれど……出来ればずっと引きこもっておいて欲しかったわね」
宝石が散りばめられた豪勢なドレスを纏う、青い肌の悪魔が溜息交じりに首を振った。
「それにしても……子供? 魔女が子育てでもするのかしら?」
肩まで覆う長い黒髪を弄りながら、青き悪魔はクスクスと笑い始めた。頭には銀色のティアラが乗っており、左右から渦を巻いた角が突き出ている。
「その後観察を続けたところ、城の周辺で細々と行動をしているようです」
笑う彼女に返答する女は、人間が見れば病的と言うであろう、白い身体を携えていた。青い髪から覗く短い巻角が、彼女を悪魔だと証拠付けている。
白き悪魔の女は、無感情な声で報告を続ける。
「野菜を収穫していたり、ヤギの乳を絞っていたり……」
「ヤギの乳!」
青き悪魔はその内容に、笑いを堪えきれず噴き出した。
「ホントに子育てしてるみたいねえ、アハハハハ!」
黒い髪からティアラがずれるのも厭わず、青き悪魔は腹を抱えて笑い始める。白き悪魔はその光景を、感情の無い眼差しで見つめていた。
「……何か可笑しいのですか?」
「いいえ、何でもないわ……でも、急に動いたということは、その人間の赤子には何かあるわね」
理解出来ずに首をかしげる白き悪魔をよそに、青き悪魔は別の話題を振る。
「例えば、ものすごい力を持っているとか。もしその力が手に入れば、人間ドモにもっと恐怖を味合わせられるでしょうねえ……ああ、久々に、絶望に満ちた魔力を腹一杯食べたいわ!」
「人間は感情の起伏さえ引き起こせば、絶望や悲しみでなくとも魔力を放出するのでは?」
自らの羊のような角を撫で、ニヤニヤと笑う青き悪魔に、白き悪魔が見解を述べた。
「バカね、不幸に満ちたあの魔力こそ、一番美味しいんじゃない! 特に、阿鼻叫喚する人間ドモを見ながら食べるのは絶品よ!」
その意見を否定し、感情の高ぶるまま言葉を紡ぐ青き悪魔。両手を頬に当て、うっとりとした表情で虚空を見つめる。
「とにかく、まずは観察ね。その匿っている子供について、詳しく調べなさい」
「はっ」
青き悪魔が夢見るは、恐怖と絶望からなる悪魔の祭典。その空想に向け、彼女達は行動を開始した。