指を折ってと指折り待つ彼女

Section 7 - 平坂隆司の葛藤⑦

中田祐三2021/05/23 17:48
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結局のところ、ここに至っても僕は彼女の願いを否定することが出来なかった。

 自らの優柔不断さと覚悟が決められない。

 その気弱さを情けないとも馬鹿だとも思える。

 そして反省はしていてもいまだに意思表示できていない当然の成り行きながら、僕はパリっとノリの効いた皺一つ無いベッドに座り込んでいる。

 赤い色が好きだという之葉とは対照的なシミ一つ無い白いシーツがなんとなく皮肉に感じてしまう。

   

 薄暗い室内。 耳には雨のようなザーザーという音が響いていて、視線をそっと上げると擦りガラスの向こうではほっそりとしたシルエットが動いていた。

 之葉はシャワーを浴びている。

 いや、まだだ。 まだ手遅れじゃない。 彼女が出てきたらやはり指切りした指折りは出来ないと言おう。 いや言うべきじゃないだろうか?

 大丈夫。 代わりのプレゼントだって用意した。

 ピンキーリング。 之葉が好きなメーカーと種類を霧子に確認してあらかじめ購入しておいたのだ。

 決して安くはない、けれど引かれるような高額でもない。

 学生が少し背伸びした程度の値段だ。

 大丈夫。 外してはいないはず。  

「お風呂、開いたよ~!」

 出てきた之葉に言おうと立ち上がった瞬間に何もいえなくなった。

 上気した頬に濡れた栗色の髪がとてもセクシーで、真っ直ぐに見つめることができない。 

 照れくさくて思わず視線を逸らしてしまった。 

 そんな僕の考えを察知した彼女はニコリと笑いながら手を取って風呂場へと誘導するので気が付けば僕は風呂場で湯船に入っていた。

 時間を稼ぐようにしっかりと身体を洗う。

 髪もシャンプー、リンスをつけて十分に洗い流す。

 そして諦め悪くまた湯船につかる。

 それでも彼女は僕を急かそうとはしなかったし、声をかけてくることも無い。

 もしかしてさっきの赤ワインで酔っ払って寝てしまっていないかというなんとも格好悪い期待はあっさりと外れてしまい。

 風呂場から出ると彼女は僕が座っていたベッドの同じ場所にちょこんと座っていた。

「おかえり~!準備するね~」

 跳ねるように立ち上がり、自身のハンドバッグに手を入れて一つ一つベッド横のテーブル上に中身を取り出していく。

 分厚いコットンの目隠し。 

 傷用の小さい消毒液。 これは以前に彼女の頬を張った際に爪で皮膚を切ってしまってから用意するようになった。

 

 次に洗濯バサミ 使用方法は……言うまでも無いだろう。 ただ大小いくつか揃えているところを見るとまさに様々な箇所に使いたいみたいだ。 

 そして何重にも巻かれてまるでモコモコとした生き物のような形になっている包帯とおそらくはそれをしっかりと止める為のテープがコロンと床の上を転がる。

 ああ…やっぱりそうなの…か。

 理解してはいたけれど、今までは用意していなかった包帯とテープ。 

「あっ…、落しちゃった!」

 そして照れ隠しのように舌を出して笑う。 

 足元に転がったそれを拾うときに一瞬だけ見せた之葉のあの陽炎のようにユラユラと揺れる瞳。

 それを見てしまったあとでは何か言うことなんて出来ない。

「ふう…、とりあえずこんなもんかな~?」

 振り返る彼女のまぶしい笑顔には何一つとしてこれから始める異常な行為への背徳感や気負いなども見えなくて…。

 ただ楽しい遊びが始まることへの期待感だけしかうつっていなかった。

 ああ、もうどうしようもないじゃないか。 

 結局のところはあの葛藤も僕の悩みも意味などなかった。

 最初から選択肢なんてない。 

 之葉を諦めることなんて出来ない。 ただ僕に出来ることなんて彼女が喜ぶことを必死に考えてその望みを叶えることしかないのだ。 

 身体が熱くなる。 そして心臓の鼓動はより激しくなっていく…けれどそれは決して不快なモノではなくて……。

 朦朧としてくる頭と意識が心地よくて。 

「うん?…どうしたの…」 

 目の前にいる彼女。 恋人はこれからの期待を隠さないでこちらを見つめている。

  

 いったいどちらが主導権を握っているのだろう? 

 僕は彼女に逆らうことはできない。

 まるで命令されているように…。

 誘われるように…。

 フラフラと之葉のところへと足を進めていった。

 

 部屋の中は濃密な何かに支配されていた。

 その中で間接照明だけで照らされた之葉の姿が網膜に移り、白い壁にはそれに魅了されている男の影がベッタリと張り付いている。 

 ベッドの下、絨毯の上で目隠しをされて生まれたままの姿で両膝立ちをしている之葉の身体はまばらに赤くなっている。

 その胸には洗濯バサミが取り付けられていた。

 彼女が荒く息をするたびにそれらが照明の下で不規則に動いて、カチッ、カチッとぶつかりあう音が耳に入る。

 ベッドのサイドに座り込んだ僕が無造作に一つ引っ張ると「ひうっ!」という声を出してビクリと跳ねる。

 痛いはずなのにだらしなく口が開いた之葉の上下の前歯の間からはピンク色の舌がネトネトした透明な唾液にまみれて蠢いていて、それが不思議に心をざわつかせる。

 ここまではいつも通り。

 …なんてなにがいつもどおりなんだか。

 つい最近まではこんなことをすることになってるなんて考えたこともないのにな〜。

「ふふっ…」

 自嘲的に笑う声がフワリと出て、すぐに消えた。

「ねえ…取ってくれる?見たいの…」

 言葉の意味を正確に捉えて之葉がつけていた目隠しを取れば、億劫そうに彼女は顔を振って僕の顔をその妖しく潤んだ瞳で見つめてくる。 

 フワリと同じシャンプーの香りは彼女と自分が溶け合っているみたいだ。

 そしてタイマーをまた900秒に戻してから無言でそっと彼女の左薬指をさする。

「そこにするの?嬉しいな」

 左の薬指。 本来なら今日ここには僕からのプレゼントがはめられるはずだった。

 きっと世界中の普通の恋人達が淡い期待と未来を夢見てそこに指輪をはめる場所。

 なのに僕は指輪どころか、その白く華奢なそれを折ろうとしている。

 間違っている。 けれど僕と彼女の間ではそれが正しいのだ。

  

 だから間違ってはいないのだ。

 これは彼女が望んだこと。

 それは僕が彼女を愛しているという証。

 そして僕と彼女の未来を繋ぎとめるために必要な儀式。  

 蕩けるような脳髄の中でもそれだけはハッキリと強く焼き付けられていた。

 

 頭では理解しているし、こと僕らの間ではそれが正しい。

 そう確信してはいても僕の指は震えていた。

 もはや戻れない、降りることのできないこの先を理解して、どうやらわずかに残った理性というものがまだ逡巡している。

「…………」

 之葉は急かさない。 優しく微笑みながら、それでも断固として期待している。

 

 大きな瞳の中にはまっすぐに僕が映し出されていて、それ越しに自身と目があった。

 瞳の中の男は怯えているようにも楽しんでいるように歪んだ表情をしていて。

 だがそれはまるで他人のように僕に決断を迫っている。

 『やれ』『やるんだ』 『早く!失望されるぞ』

 自分の心内のことなのに、叱責するように『瞳の中』の瞳はそう目で語っていた。

 鼓動が早くなる。

 背中にベタベタとした冷や汗が浮かぶ。

 かつて感じたことのない緊張で視界も歪んで倒れそうだ。

 それでも僕は『二人』の瞳を逸らさない。 

 そうしてしまえば、もう僕は彼女の期待に応えられなくなってしまうことに気づいているのだから。

 僕は捕らえられている。 

 彼女に。 僕の恋人。 愛している人に。 

 つまり之葉に。

 心を。 身体を。 意思を。 そして何よりも平坂隆司という存在すべてが…。 

 だからこそ逆らえようはずがない。

 彼女無しではもう…。

 

 こうするしか一緒に生きていけないのだから。

 『ああ、もしかしたら支配されているのは僕自身なのかもしれない。』

 そのまま理性という名のチケットを半分にちぎり落とし、同時に渾身の力で薬指を曲げる。

 本来なら動かない方向へ。 向かってはいけない方向へ。

 抵抗は始まりだけ、すぐにボキリという硬い音と感触がした。

「っ…!はっあ、あっあああ!」

 同時に之葉が崩れ落ちる。 

 まるでかくれんぼをする時のようにしゃがみこんで先ほど僕が掴んでいた指を押さえて…。

 そう、僕が全力でたった今、へし折った指を。

『だ、大丈夫?』

 

 という言葉は飲み込んだ。 まだ時間は来ていない。 900秒の時間が。

 まだアラームはなっていないのだ。

 

 それでもさすがに折れた指の激しい痛みに打ちのめされて何もすることができないのだろう。 

 

 けれど僕は無言で之葉を見下ろす。 

 そして数十秒の悶絶の後、彼女が顔を上げた。

 激しい痛みによって顔を高潮させ、脂汗と涙をにじませ…そして震えながらも…、

「…あ、ありがとう…う、嬉しい」

 本当に。 ああ本当に嬉しそうに彼女はニコリと笑っていた。

 瞬間、かっと身体が熱くなる。 心臓はまるで打ちのめされているかのように強く跳ね上げ、胸の中で暴れまくる。 

 全身の筋肉は縛り上げられたかのように硬直をしているのに、身体はまるで崩れてしまいそうに弛緩している。 

 

 そんな感覚に僕はまるで溺れた人が救助者にしがみつくように之葉を抱きしめていた。

 気分は……。 

 気分は…。

 ああ、この気分をなんと言えばいいんだろう?

 こんなこと言語化できない。 

 表す言葉を知らないんじゃない。 言葉を忘れたわけじゃないんだ。

 でも…だって…、今までに味わった事のないグチャグチャの感情の奔流が僕の中を走り回っている。

 でもこれだけはなんとなく理解することができた。 

 『ここまできてやっと僕と彼女は本当の恋人同士になれたのだと』

 900秒はとっくに0になってアラームすら止まっている。 

 そんなこと、もうどうでもよかった。

 

 なぜなら時間を区切る必要なんてもう無い。

 演技をすることもない。 

 体裁を取り付くこともしない。

 

 だって縛り付けられたような確実な未来。

 それがに僕達のこれからにはあるのだから