ショートショート「台所の灯」


有原悠二2023/06/04 10:02
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※2023年3月の作品です。 読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、サポート、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。 あなたの人生の 貴重な時間をどうもありがとう。

ショートショート「台所の灯」

 人は老いる。特に親は、思ったよりも早く。茜色のまん丸い太陽が空を真っ赤に染めながら水平線に混ざり合い溶けるように落ちていく。波の音と鳥の鳴き声が聞こえる。子供の頃を思い出す。時代が変わっても変わらないものがあるということを、僕は海を前に知る。

 久しぶりの帰省は現実と過去の狭間だ。向き合わねばならぬ問題はいつも目の前にぶら下がっているのに、僕はつい目を逸らしてしまう。それでも人はいつか死ぬ。いや、親は多分もう少ししたら、だ。思えば親孝行などしたことがなかったかもしれない。いつか、いつかと思いながら気がつけば自分の家庭のことで精一杯になっていた。両親と最後に旅行に行ったのはいつだっただろうか。そんな疑問すら虚しく、僕はきっと親が死んだ後に激しく後悔するのだろうか。夕日が海の中に沈んでいった。とぷん、と聞こえた気がした。

 

「急に電話なんか――」

 その親の声を久しぶりに聞いて瞬間的に帰ろうと思ったのは、なにもコロナ禍で長らく帰っていなかっただけではなく、電話に出た母の声が思った以上に枯れていたからだった。僕は休暇を取り、妻と子供に帰省することを伝えてすぐバスに飛び乗った。

 都会から田舎へ向かうバスの車内はどこかしら影がある。みんな疲れているのかもしれない。田舎に向かう。その言葉だけで人は希望を失う気がして、僕は実家を捨てたはずだったのに、今はその絶望の影が不思議と昔よく父と一緒に入ったぬるい温泉のように心地よく、なぜ両親が頑なに田舎から出ないのかもなんとなく分かる気がした。田舎は暗い。そして冷たい。だからこそ際立つ人情の味わいが分かるのに、十代ではもとより無理な話なのだ。畑の真ん中を突っ切るようにあぜ道を歩く。乾いた土地に雑草が揺れる。昔の面影を残しながら、子供の頃によく遊んだ空き地に寄ってみる。町だって老いる。それは田舎だからかもしれない。都会のように新陳代謝は高くない分、寿命が尽きたらあっという間に面影すらも失ってしまう。空き地は潰されてガラガラの駐車場になっていた。飼っていた犬の遊び場はもう思い出の中でしかない。

 親はどうして老いるのだろうか。ふと子供のような疑問が浮かんだ。町も、犬も、友達も、思い出も、この世界は死に向かって突き進んでいる。僕自身も例外ではない。いや、もしかしたら親が老いているのではなく、自分が老いているから世界もそう見えるだけなのかもしれない。真っ先に老いているのは、きっと僕なのだ。

 

 ――ただいま。

 と言ってすぐに洗面台に向かい、手を洗う。奥の台所から母の声が聞こえる。帰ったよ、と再び声を出して、うがいをし、のぞき込んだ昭和の鏡には子供の頃の面影を引きずったままの確かな中年が映っていた。だから僕は満面の笑みで台所の引き戸を開けて、母と顔を合わせた。

 仏壇に手を合わせる。線香の香りが天井から部屋全体に染みわたっていく。昔飼っていた犬の匂いがふとした気がして、僕は当時よく食べていたお菓子を思い出す。

 突然の夕立に気がついたのは、帰省するたびに何回も何十回も読み返してきた父がほぼ全巻揃えていた「美味しんぼ」を読んでいるときだった。僕はぼんやりと庭に降る雨を見つめながら、土が湿っていくイメージと、小学校の頃に通っていたスイミングスクールの帰りに父がよくセブンティーンのアイスを買ってくれていたことを思い出した。それは思ったよりもあたたかい思い出だったみたいで、僕はその空想の中で不思議と瞳が滲んでいくのを感じていた。

 父が帰宅する。僕たちは昔と変わらない挨拶をして、昔と変わらない関係に一瞬で戻る。それはある意味、親孝行なのかもしれない。僕はきっと、この二人の前ではずっと子供なのだ。夕食のとき、思い切って言ってみる。

「今度さ、みんなと一緒に、温泉旅行でもどう?」

 普段寡黙な父の表情にふっと緩い笑みがこぼれた。母は困惑の中に確かな喜びを灯していた。僕は恥ずかしくなり、急いで口の中に白米を押し込んでいった。

 温泉が好きだった。家族全員が。ありがたいことに温泉がたくさんある田舎だったから、お風呂代わりによく近くの温泉に行っていたが、そのせいか温泉旅行などは行ったことがなかった。わざわざその辺にあるのに泊まるだなんてもったいない、という母の口癖を思い出す。それでも、僕は温泉旅行に行ってみたかった。いつか、ではない、それはもしかしたら、今しかないのかもしれない。父の口がようやく開いた。

「行ってみるか、母さん」

 母は驚いていたが、次第に破顔していくその顔は昔となに一つ変わらないと思った。ビールを口に運ぶ父も、忙しそうに僕のご飯をよそってくれる母も、そしてこの家に当たり前のように帰省できる僕も、変わるはずがなかった。台所の灯は子供の頃怖かった夜の暗闇から僕を守るかのようにいつまでも明るい。そして僕はすぐさま妻にラインを送った。

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