雨上がり。昔ながらのハイツを出てサビた階段を降りていく。ギシギシと軋むその音を聞いたのはもう随分と昔のような気がするけど、思い返せば彼女が家を飛び出したとき以来だからちょうど一週間ぐらいだろうか。そういえばあの日も雨が降っていた気がする。
彼女とは長かった。五年も付き合ってうだつが上がらなかった俺も大概だけど、彼女も彼女で生粋のギャンブラーだったから、だからこんな俺と一緒にいたのかもしれない。結果、俺たちはズブズブの共依存の関係になって、そして彼女は賭けに負けたのだった。
外はもう真っ暗だった。夜中だから当たり前かもしれないけど、街灯の灯りだけでは不安になるような暗さで、それなのにその暗さが妙に落ち着くもんだから、まだ俺は心のどこかで彼女を探しているのかもしれない。煙草に火をつける。その度に俺の間抜けな顔が闇の中に浮かび上がる。自分でも気持ちが悪いと思った。
彼女はいったいどこに行ったのだろうか。そういえばどうして俺はあいつと一緒に住んでいたんだろう。いったいあいつのどこに惚れたというのか。いや、今でもその気持ちに変わりはない。それでも当時の俺は努力を嫌って、つい楽な方へと流れてしまったから、そりゃまあこうなるのは目に見えていたはずなのに。どうやら人生に一発逆転なんてないようだ。分かっていたはずの結果を目の前に、煙草の煙をつい目で追ってしまう悪い癖のまま、俺は俺の人生をいつの間にかあいつのせいにしていたようだ。
煙が闇の中に吸い込まれていく。その向こう側に幸せなんて絶対にないはずなのに、俺はまだ俺のままだから、こうして光に集まる虫のように悪い方へ悪い方へと吸い込まれていくんだ。
酒の席で出会って、なんとなくお互いに惹かれあって、なんとなく付き合いだして、なんとなく一緒に住んで。まあ、子供ができなったことはよかったことかもしれない。それでも俺は考える。逆に子供ができていたら、というあったかもしれない未来を。その可能性を。
近所の公園。ここでよくデートをした。それ以上のこともした。俺たちはとにかく金がなかったから、どこにも行けなったし、俺たちは誰よりも愛し合っていたから、どこかに行く必要もなかった。
「海に行きたい」
と彼女が言い出したのは、今年に入ってからだったから、だから俺はなんとなく別れる予感がしたんだけど、それでも惰性とは思ったよりも大きな力で、俺はどうしても変われなかった。海。生まれ故郷が海だった俺にとっての海と、あまりそういうところに行ったことのない彼女にとっての海は、あまりにもかけ離れていたのかもしれない。もう遅いけど。
俺は持ってきたスプーンでその辺の地面をほじくり、砂をスーパーでもらってきた無料のビニール袋に詰めていく。
彼女は無料が好きだった。俺は嫌いだった。彼女は猫が好きだった。俺は犬が好きだった。彼女はビールが好きだった。俺はレモンサワーが好きだった。彼女は子供が好きだった。俺は子供が嫌いだった。彼女は俺が好きだった。俺は彼女が嫌いだった。別れるその瞬間まで。
別れるその瞬間まで、彼女は俺を信じていたと思う。夢に向かう俺のことを。結局、信じられなくなって逃げ出したのは、彼女じゃなくて俺のほうだったのかもしれない。
彼女は笑うとえくぼができて、そして髪の毛がいつも痛んでいた。俺はよく髭を彼女の頬に刺すようにキスをした。その度に彼女は痛いと笑った。俺はそのときの顔が好きで、何回も何回も髭を刺した。気持ちが悪いと思う。俺という人間は。
砂を持って帰る。俺は一人の部屋に帰る。一人で帰る。歩いて帰る。煙草に火をつけて、吸って、二人でよく買った自販機のコーヒーを最後に買って、飲んで、煙草を吸って、煙を吐いて、空き缶を捨てて、煙草も捨てて、なんだか全部捨てたくなって、砂の入った袋を振りかぶるも、やはり俺はダメだ。今度、スマホを変えに行こう。
彼女は友達が少なかった。それは俺も一緒だった。彼女はフリーターだった。俺もギリギリフリーターだった。彼女は背が低かった。俺は無駄に高かった。俺たちは無敵だった。そう思っていた。思い込んでいた。そう思いたかった。いつまでも。深く。
家に帰って、ざるの中に砂をぶちまけて、風呂場でよく洗った。泥のような黒い水が排水溝に流れていく。その中に唾を吐く。俺は変わらないといけない。変わらないといけない。砂を焦げの取れない鍋に移して、水を入れて、火にかける。ぐつぐつと煮立ってきたら、砂が循環するのか鍋の中でざらざらと音を立てる。煙草を吸いながらそれを眺める。ずっと。飽きたところでまたざるに取り出して、冷水で絞めた。心なしか砂はきれいに見える。取り出して、光に当てる。俺はその一粒を口に入れて、そのまま飲み込んだ。
彼女とはよく酒を飲んだ。それこそ毎日のように。浴びるように。記憶はいつもなくなって、次の日はいつも頭が痛くて、金もなくて、仕事に行きたくても行けなくて、だから二人はよくそのまま昼過ぎまで寝転んで、また夕方ぐらいになるとシャワーを浴びて酒を買いに行った。俺はいつも思っていた。あんな小さな体の中のいったいどこにあんだけのお酒が吸い込まれていくんだろうって。でも違った。彼女はきっと溜めていたんだと思う。どこにもやり場のない苛立ちを、不安を、孤独を、それらもろもろの恐怖を。
人生は長い。思っている以上に。だから俺たちは恐怖に負けたんだ。きっと。俺は砂を空のペットボトルに移し替えて、その中に水と塩を適当に入れて、そして部屋の真ん中にある机の上に置いて、眺めた。
海に行きたい、とあいつが言っていたから。海に行っていたら、なにか変わったのだろうか。せめて一回でも一緒に行けばよかっただなんて、いまさらなにを考えているのやら。煙草を吸う。煙草を吸う。煙草を吸う。
夜が明けて、朝になると、その小さな海は朝日に照らされてキラキラと輝いて見えた。少しだけ振ってみると、波が立ったのかのように砂が舞う。俺は煙草に火をつける。もう一度海を振る。煙草を吸う。海を振る。
彼女にフラれた俺は、生きている意味なんてきっとない。それでも死なないのは、俺は案外なにも考えないふりをしているけど、実はものすごくいろんなことを考えているからで、だから死のうとは思わないけど、別に真面目に生きようとも思わなかった。思えば、あいつは真面目だった。だから俺は好きになったんだ。
煙草を吸う。煙を吐く。海の蓋を開ける。海を口に付けて、砂ごと飲み込んでいく。まずは半分ぐらいまで。それからまた煙草に火をつけて、少なくなった海を振って、波を立たせる。
彼女は競馬が好きだった。いつか競馬で家を建てると言っていた。それか俺が成功するのとどっちが早いか、そんなことまで賭けの対象にしていた。俺はまだ成功していないけど、いつかするかもしれないのに。明日かもしれない。いつか。
あれから何回も海を作って、何回も飲み干した。その度に俺の体は海になっていくような気がして、その度に彼女が帰って来る気がした。
俺は彼女のことが好きだった。彼女はなにが好きだったのか、俺は今ようやく分かった気がする。俺はまた海を飲み込む。そして煙草に火をつける。