ショートショート「騒々しいほどの静けさの中で」


有原野分2023/02/05 12:51
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※2023年2月の作品です。 読んでいただけると幸いです。 いいね、スキ、フォロー、シェア、コメント、支援などしていただけるととても嬉しいです。 これからも応援よろしくお願いします。 あなたの人生の 貴重な時間をどうもありがとう。

ショートショート「騒々しいほどの静けさの中で」

 電車の中で赤ん坊が泣いている。斜め前の子だ。人間の濁った空気が嫌になったのか、母親に抱かれて大声を張り上げている。私はそれを見て動悸が激しくなるのを感じた。誰かに文句を言われたらと勝手な心配をする。しかしその母親は堂々とスマホを見ていた。周囲の目が気になっていたのは私だけだったのかもしれない。終点の駅についてドアが開いた。冬の風がマフラーを縫うように背筋を冷たくする。気がつけば動悸はすでに収まっていた。

 

 1896gの未熟児だった。自分を責めた。この子だけは大事にしようと思っていたのに、破水したとき私は出勤途中の電車内にいた。救急で病院に運ばれて、帝王切開をしますと半ば強制的にお腹を切られて、そして娘は生まれたのだった。

 初めて娘を見たとき、あまりにも弱々しいその体つきを見て、私は産んだことを一瞬後悔した。娘はそのままNICUに入れられた。それでも母親という本能はきちんとこの身体に付随していたようで、しばらくしてようやく娘の小さな命に触れたとき、一瞬でも後悔した自分を恥じ、感じたことのない感情があふれてきて涙が止まらなくなった。私はそのとき、自分が今までに本当の愛情を知らなかったことを知った。

 お腹の傷は寝返りが打てないほどひどく痛んだ。それが三ヵ月ぐらい続いたように思う。出産とは事故だ、と誰かが言っていた意味がようやく分かった。二度と出産はしたくないと思った。

 

 

 旦那はいた。いたけど、あまり良好な関係ではなかった。無事に退院しても、娘が夜泣きする度に隣の部屋からは舌打ちが聞こえてきた。だから別れた。いや、理由はそれだけではない。娘のことを考えれば考えるほど、私はこれ以上自分を殺すことができなかった。それが五年前のことだった。

 

 

 駅を出て県民文化会館に向かう。今日は娘の発表会があった。娘は小学校に入ってから吹奏楽部に入部した。私はできる限り応援しようと思い、入ろうかどうか悩んでいる娘の背中を押した。後は一人で歩き出したのだ。娘は強い。私以上に。

 冷たい手にアルコールを吹きかけてこすり合わせる。自由席だったためどこに座ればいいのか悩んで、とりあえず前のほうに座る。開演までまだ十分に時間があった。三つ隣りの席からは五歳ぐらいの子供のぐずり声が聞こえてくる。その両親と目が合って、お互いに微笑んで会釈する。

 

 娘は未熟児だったためかとにかく体が弱かった。頻繁に高熱を出し、ひどいときは痙攣を起こし、よく入院もした。

 ある日、娘が熱を出し保育園から早退した日のこと、いつも以上にぐったりしていた娘が突然なにか憑りつかれたかのように唸りだした。急いで救急車を呼んだのだけど、待っている間に娘の心臓が止まった。唇が一瞬で紫になり、首が人形のようにだらりと垂れて、いつまで経っても救急車が来ない気がして、まるで時間が止まっているようだった。思い出しても背筋が寒くなる。

 

 ブザーが鳴った。娘と同じ小学生たちが出て来て、自己紹介をした後に演奏をする。三校目が娘の出番だった。それはすぐにやってきた。娘は三十人ほどの中に埋まっているが、私には一目で分かる。前から二番目の、左から三番目。コルネットを手に娘が正面を向く。目が合いそうで合わない。指揮の先生が大きく手を振り上げた。

 涙は、誰かの人生に期待した量に比例するときがある。この年になると流れ落ちることは滅多になくなったけど、浮かんではすぐに消えていく回数は圧倒的に増えてきた。いつも生と死の狭間を漂っていた娘が堂々とした姿で、こんなにも大きなホールの、大勢の観客の前で演奏をしている。その姿は何回見ても私の琴線に触れた。

 正直細かい音はあまり分からないけど、その音は鼓膜に沿って確かに私たちが歩んできた足音がした。迷いながらも、着実に歩いてきた道。ここ最近、風邪すらも引かなくなった娘の昔を思い出す度に、自分の人生を肯定しようと思っているわけではないけど、たまに一人で深く頷くときがあった。だからコンサートを見る度に、胸の奥が共鳴するのだろう。その音は私にとって肯定の音だから。

 

 外に出ると、寂しいほどの風と冷たいほどの静けさが広がっていた。私はその中を歩いていく。今夜はなにを食べようか、たまには外食でもしようか、などと考えながら、耳の奥に残る余韻を口ずさむ。ふと向こう側から電車の中で泣いていた赤ん坊の親子が来るのが見えた。すれ違うとき、時間が止まったかのように周囲の音が止んだ。私はなぜだか涙があふれて止まらなくなった。早く娘に会いたくてしかたなかった。

 

 駅は相変わらず観光客で騒々しかった。私はその中を縫うように階段を一段ずつ下っていく。ホームからのぞく空に雪がちらついた。私はマフラーを外して、首筋をなでる冷たい風に集中する。ブザーが鳴って電車が入ってくる。そのとき、一瞬だけ静けさが広がった。私はその中に娘が生まれたときの泣き声をふと思い出す。

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