モモ2020/09/13 01:19
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アリシア視点

 ナーロッパ歴1056年6月17日。

 ロアーヌ帝国皇帝ハインリヒ3世の67歳を祝う夜会で事件が起きた。

 私の婚約者であるケハルディン侯嫡男ロベルト・ケハルディンは隣に見目麗しいご令嬢を侍らせている。確かにロベルトは無能だとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。公の場で婚約者、それもピルイン選帝公の令嬢(私のことだ)をないがしろにするなど、正気の沙汰ではない。

 リリーナ嬢と関係を持っていたのは知っていたが、それは婚約とは別の話だ。いや、別の話のはずだった。

 私に気づいたのか、婚約者はご令嬢を腕に絡めたまま私の所に向かって歩き始める。

「アリシア、リリーナ嬢だ」

 リリーナ嬢は私の近くにくると、さらにロベルトに身を寄せるようにした。もっと言うと、体の一部を腕に押しつけるようにしている。その媚態はあざといとでも形容すべきだったかもしれないが、私はむしろなるほどああやってロベルトの心を掴んだのかと他人事のように観察していた。

「君の相手はできない。今日をもってアリシア嬢との婚約は破棄させてもらうからだ」

 それまであった夜会特有のざわめきが、急に静まりかえる。この場にいる人間の大半が、私とロベルトの様子を窺っているようだった。

「それは、その方がお相手ということですか?」

「そうだ。美人なだけの君と違って彼女は美しく知性もあり、何より私を支えようとしてくれる」

 なるほど、知性は分からないが、確かに私は婚姻するまでは婚約者を支える気もなかったし、媚びを売る気などさらさらなかった。

(リリーナ嬢はワイマー伯爵家だったわね。なら恐らく背後にいるのはシュタデーン選帝公……かまをかけてみようかしら)

 私は心の中でそう呟くと、狙い通りの反応を引き出せそうな言葉を素早く組み立てる。

「ですが、婚姻とは家と家との契約です。ケハルディン侯、それにそちらのご令嬢のご実家も反対されるのではないでしょうか?」

 とかまをかけて見る。ロベルトの表情が勝ち誇ったように歪む。

「思い違いも甚だしいな。すでに父上からは婚約破棄の許可を得ている。そしてこの夜会前にワイマー伯にご挨拶にうかがったが、私とリリーナ嬢の関係を祝福してくださったぞ」

 どうやら予想通りのようだ。ロベルト本人はともかく、ケハルディン侯は何の後ろ楯もなく選帝公に喧嘩を売る程阿呆ではない。

 そして、私の実家ピルイン選帝公に対抗しうる力を持つ家となると、残り二つの選帝公か、リトルフィング辺境伯、あるいはプシェミスル辺境伯ぐらいである。ケハルディン侯にもワイマー伯にも、そんな大それた力はない。

 だが、ワイマー伯は事実上シュタデーン公の傘下にある。単独でこんな大事を決するはずはない。なのにロベルトとの顔合わせまで済ませているということは、既に背後では話はついているのだろう。

(シュタデーン公が中央に進出しようとしているという事は、東部の情勢は当面落ち着いたとみるべきね)

「そうですか。では、正式にケハルディン侯から婚約破棄するという通告をピルイン選帝公に送ってください」

 と言って、彼から離れる。向こうから破棄すると宣言した以上、こちらも婚約者としての最低限の義務を果たす必要もなくなったのだから。

 そして、会場内にはざわめきが戻ってくる。こんな派手な婚約破棄が目の前で行われたのだ。話の種にしたくなるのは当然だろう。それとなく会場を一瞥すれば、当事者である私達にちらちらと視線が飛んでくるものの、誰もがこの最新の話題に夢中のようである。

 いや、「誰もが」ではなかった。急いで部屋から出ようとしている姿もある。おそらく、この場にいない「誰か」にこの話を伝えに行くのだろう。これは単なる色恋沙汰の醜聞ではない。帝国内の勢力図を書き換える、あるいはすでに書き換えられたことを示す一大事件なのだ。

 私自身、頭の中では今後の勢力バランスがどうなるかを考えるのに忙しい。選帝公令嬢としての体面を保つ必要がなければ、退出などせずにここに留まって、誰と誰がどんな様子で話し合っているか、余さず観察したいところだった。

 ケハルディン侯がシュタデーン選帝公の勢力下におかれるのは帝国北部の覇権をシュタデーン選帝公と争うピルイン選帝公にとって不利益でしかないように見えるが、メリットもある。それは三選帝公の残る一人であるハーベンブルク選帝公が、シュタデーン選帝公の勢力拡大も中央進出も望んでいないことである。帝国中央に進出するための橋頭堡を確保したシュタデーン公に対して本腰を入れて牽制するはずだ。ピルイン公にとって有力な味方ができるのだから、ピルイン家にとって悪くない。

 




ナーロッパ歴1056年6月18日。

 婚約破棄の翌日、自室で読書していると、父上から呼び出しがあった。時計を見ると10時を回った頃だった。おそらく、昨日の一件だろう。さっそく、執務室に赴く。

 待ち構えていた父上は、分かりやすく怒っていた。

「どう責任を取るのだ? ピルイン家に大きなダメージを受けたではないか!」

 流石に父も手を出そうとする様子はない。まあ、ハーベンブルク選帝公も本格的に動くなら、この婚約の大きな目標だったシュタデーン公の牽制は十分に可能だからだ。しかし、ピルイン家の面目は潰されているし、勢力も縮小している。恐らく、父上はその事で怒っているのだろう。

「お言葉ですが父上、この件はシュタデーン公が背後にいるのは確実です。中央への橋頭堡を確保された以上、ハーベンブルク公も本格的に動きます。ハーベンブルク公と共同であたれば――」

「そんな事は分かっておる!」

 と父は私の言葉を遮る。

「私が言っているのはピルイン家の面子が潰されたのとピルイン家の力が低下した事だ。そして、その責任はそなたにもあるのだぞ」

 確かに婚約者の心を繋ぎとめられていなかった事に関しては、私にも責任はある。

 しかし、政略結婚の婚約であった以上、シュタデーン公に付け入る隙を与え、彼の蠢動を見逃していた父にも責任はあるだろう。

「しかし、シュタデーン公の影響力拡大を抑えるのが現状ピルイン家の最大の目標ではありませんか。婚約破棄がなされず、予定通り私がケハルディン家に嫁いだとして、それでどうにかなったのでしょうか?」

 私が身も蓋もないことを言うと、さすがに父の勢いは弱まる。

「それはそうだが……」

 私は一息ついて続ける。

「ならば、ハーベンブルク公と手を組む機会を得られた現状は、そう悪い物ではないでしょう。シュタデーン家はベルガ王国も事実上手に入れ、さらにモスク王国とナビア王国とは非公式に共同してポトランド王国分割を行って領地を急速に拡大しています。誰の目で見ても、今、もっとも勢いを持っている帝国貴族でしょう」

 要するに、私とロベルトの婚約が成立したときとは、政治情勢が大きく違ってきている。家と家との政治的な結びつきが政略結婚である。実際に結婚した後ならばいざしらず、婚約だったら、政治の都合で破棄されるのはむしろ当たり前の話だ。

「しかし、シュタデーン家は東部で火種を抱えている。こちらに全力は割けないはずだ」

 父は顔をしかめながら、そんな事を言う。

(まだそんなことを言うとは、よほど頭に血が上っていて頭が回っていないのかしら?)

 そんな疑問が浮かぶ。確かにシュタデーン公は10年前ぐらいから東部で忙しかった。そのため、帝国中央での勢力拡大には力を注いでこなかった。しかし、そんなシュタデーン公が中央にちょっかいをかけてきた時点で、東部の情勢は落ち着いて来たのは予想出来るはずだろうに。

「父上。恐らくシュタデーン公は東部を当面安定させたのだと思われます。ここは諜者を放ち、探りを入れるべきかと。恐らく、シュタデーン公も偽情報を流しているでしょうから、集中してやるべきです」

「そんなバカな事が……いや、あり得ない話ではないか。もし、東部情勢が落ち着いているのであれば、確かにハーベンブルク公と共同歩調を取らねば対抗するのは難しいな……」

 父の機嫌が治った……と言うより別の事に関心が行った……と言うより本当の問題の所在に気づいたことに一安心する。

(しかし、アストゥリウ王国で勃発した内戦次第では帝国もこんな権力闘争をしている余裕もなくなるでしょうが――)

 私が心の中でそう呟いていると、

「しかし、そなたの婚姻はどうするのだ? このままではそなたの嫁ぎ先がないぞ」

 と心配そうに言ってくる。

「見つからなければ修道院にでも入ってテンプレ神にお仕えします」