身近之物語

Chapter 3 - 【光回り草】ヒマワリソウ

夕月 凪2020/09/05 12:24
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 私はあなただけを見ている。けれど、あなたはあなただけを見ないで。




「先生、またね!」

「さようなら。気を付けてね」


 少年はスーツ姿の男に手を振ると塾の扉を閉めた。日の長い夏とはいえ八時を過ぎれば太陽は既に街並みの下に消えている。少年は車の往来が絶えない道路に沿って歩き出した。


 普段ならば彼の父親が塾の前まで迎えに来てくれるのだが、今日は仕事が長引いたらしく迎えに間に合わないらしい。母親は生憎運転免許を持っていない。私が歩いて迎えに行こうか、というスマホ越しの母親の言葉に、少年は首を横に振った。


「大丈夫だって。一人で帰れるから」


 一人で成し遂げようと背伸びする年頃、そして夜道を歩くという背徳的は行為への羨望、決して表には出さないが少年の胸中にはそんな思惑が渦巻いていた。

 何より少年の背中を後押ししていたのは、少年の足でも家まで十五分程度、その道中は車の行き交う道路沿いや街灯の並ぶ路地といった、比較的人目に付きやすい順路であったことだ。


「とにかく、大丈夫だからね。授業始まるからもう切るよ」


 少年は半ば強引に電話を切った。その後、母親から気を付けて帰るようにとラインが届き、晴れて大人の道を歩くチャンスを得たのだった。



 道路沿いから住宅の建ち並ぶ路地へと曲がる。


「ッ!」


 十メートル間隔で両脇を固める街灯は煌々と光を放ち、暗い所の方が少ないのではないかと思わせる。だが人影が一つも無い。別の街に迷い込んだような不気味さが蔓延っていた。少年の足も思わず竦む。


 これくらい、平気だし。


 己を奮い立たせて足を前に出す。とある民家の塀にどこぞの政治家のポスターが掲げられている。少年の通学路にもあるポスターだ。見慣れたものを発見して少年の不安は幾分か和らいだ。ここは知らない街なんかじゃない。そう思いながら何個目かの街灯の光の下に差し掛かった瞬間――


「――⁉」


 少年の首が鉄塊のように強張った。


 な、なんだ……まだ緊張してるのかな……はは。


 強がる少年の心はすぐに打ち砕かれる。


「ひっ」


 強張る首筋に無数の細長い「何か」が這いずり、自分の意志に関係なくその「何か」がゆっくりと左を向けさせる。


 何? なんで? なんで⁉


 真横まで回転したところで動きを止める。視界の端には直前に歩いて来た道が見える。ただ今度は止まったまま動こうとしない。尋常ではない出来事が身に降り掛かっているのは明白だった。


「はあ、はあ、はあ」


 思考の一切を停止させた脳。口から出るのは陳腐な叫び声ではなく、荒い息遣いだけだった。


「あ……」


 首以外の、眼球や手足は自由に動かせる。それに気付くや否や、少年は脱兎の勢いで駆け出した。

 街灯の光から抜け、次の街灯までの暗がりで、心なしか首筋を這っていた違和感が消えた気がした。それでも少年の足は止まらない。そしてまた光の下へ――


「――!」


 再び硬直する。頬まで伸びる「何か」によって今度は右へと回転し始める。

 走る少年。

 光を抜けるとまた弱まる。

 ここまで繰り返せばさすがの少年も法則性に勘付いた。即ち、街灯の光の下に入るとこの「何か」が出現するのである。


「はあ、はあ」


 暗がりに一旦身を潜める。そして皮肉にも先程「何か」に動かされたように首を左右に振って辺りを確認する。


 光がないところ……ってないじゃん!


 通行人の安全を守るための街灯が少年の行く手を阻む。前後左右、八方塞がりだった。


 お母さん……、お父さん……。


 今になって一人で帰ると宣言したことを激しく後悔する。あと五分も歩けば自分を待つ母親に会えるのに。


 ……! そうだよ。あともう少しで家に着くじゃん!


 この路地の突き当りを曲がれば家はもうすぐそこにある。


「っ!」


 少年は意を決して光に身を晒す。「何か」が目の下を|蠢《うごめ》こうが、視界の端に緑を捉えようが、少年は走った。

 ただ、ひたすらに、少年は走った。



 走り去る少年の背中を見つめる一人の男。


「チッ」


 闇に紛れる程小さな舌打ちをすると、スーツ姿の男は踵を返して去って行った。






【光回り草】

 ・植物の姿をした妖怪で、人の後頭部に張り付いて頭を意のままに操る。

 ・闇から出現する妖怪が多いが、この妖怪は灯りの中を棲み処とする。誕生した背景として、都市部では常に光で溢れ、安心し無防備な人間が増えたからである。

 ・一説には非業の死を遂げた人々の無念によって形成されているとも謂われている。その人々とは、決して妙齢とは限らない。