「あのさ……勝手にしゃべるから返事もせんでええし、眠なったら寝てくれてええから、しょうもない独り言や思て聞き流してくれる?」
「え?あ……はい……」
ねえさんは僕の腕を掴んで、自分の背中にまわした。
「あとな……もう少しだけでええから、こうしといて欲しい」
「……はい……」
僕はもう一度、ねえさんの体を抱きしめた。
強く抱きしめると壊れてしまいそうな華奢なその体を、壊さないように、優しく包むように抱きしめる。
「こないだ、オヤジが死んだ」
「ええっ?!」
ねえさんの突然の言葉に驚き思わず大きな声を上げると、ねえさんは少し不思議そうな顔をして軽く首をかしげた。
「人間いつかは死ぬんやし、そない驚かんでも……」
「いや……そこは普通に驚くでしょう……」
「オヤジ言うても、血の繋がりのない赤の他人やねん。アタシが子供の頃にオカンが再婚した相手や。そのオカンも、アタシが中学上がる前に病気で死んだけどな」
「兄弟は?」
「おらんよ。オカンが死んでから、オヤジと二人やった」
家族との縁が薄いのか……。
兄と妹と共に何不自由なく両親に育ててもらい、大学まで出させてもらった僕には、違う世界のような話に聞こえた。
ねえさんは淡々と話し続ける。
「どうしようもないオヤジやってん。飲んだくれて仕事もせんと、博打で負けて借金ばっかり増やしてな、オカンのこと、よう殴ってた。家にはしょっちゅうヤクザみたいな借金取りが来るしな、アタシは子供やったから、なんもできんといつも泣いてたわ。オカンは借金返すために寝る間も惜しんで必死で働いて、生活も切り詰めてな。それでも足りんで、いっつも身内とか知り合いにイヤな顔されても頭下げて、借金取りに払う金借りて……そのうち病気で死んでしもた」
ひどい話だ。
ドラマなんかではよくある話だけど、実際にそんな男と暮らしていくのは苦労が絶えなかったのだろう。
どうしようもないその男が、ねえさんの母親の寿命を縮めてしまったのかも知れない。
「オカンが死んでから、生意気や言うてアタシもよう殴られたわ。中学に上がったら、『体でも売って金稼げ』とかも言われたしな。そんなしょうもないオヤジやったから、早よ死んだらええのにとずっと思ってたけど、こないだやっと死んだ」
義理の親であったとしても、普通は親の死など望んだりはしない。
それだけねえさんは義父を憎んでいたんだと思う。
ねえさんは小さく息をついて話を続ける。
「アタシは中学出てすぐに事故に遇って、怪我が治ってしばらくしてからは一緒には暮らしてなかったんやけど、オヤジのこさえた借金は増えるばっかりで、借金取りがアタシのところにしょっちゅう来てたわ。これまでの借金を全額肩代わりする代わりに縁切ってくれってオヤジに言うて、借金返すために必死で働いて、18になったら水商売もして、何年もかけてなんとか返済した。そんなんで縁切ってからはずっと会ってなかったんやけど、オヤジは何年か前に酒飲みすぎて体壊してな、一人で生活でけんから、なんや知らんけど施設に入れられとったらしい。そこで息引き取ったって」
「じゃあ……ねえさんは一人ぼっちになっちゃったんですか?」
「オカンの妹が遠くにいてるけどな。いつやったか忘れたけど、そこの家の事情で、アタシのことは引き取れん言うてたの聞いたことがある。オヤジは生きてたのに、なんでそんな話になってたんかはようわからんのやけど……。それでも家が裕福なわけでもないのに、アタシが事故で入院したときの費用と、親父と離れて暮らすための資金だけは援助してくれた。あれから会ってないけど、そのことだけは今でも感謝してる。まあ……オヤジのことはええねん。戸籍上は親子やし、死んだあとはなんやかんやで忙しかったから、しばらく競馬場にも行けんかった」
誰かが亡くなった時、残された身内は何かとやらなければならないことが多い。
僕の母方の祖父が亡くなった時、両親や親戚のおじさんたちが、しばらく忙しそうにしていたことを覚えている。
それなりの歳の人生経験を積んだ大人が何人がかりかで処理していたことを、ねえさんはきっと、たった一人で済ませたのだろう。
ねえさんが2週続けて競馬場に姿を見せなかったことや、随分疲れた様子だった理由が、やっとわかった。
もしかしたら、父親が亡くなってホッとしたことで、自分でも覚えていないほど幼く幸せだった頃の夢を見て、虚無感みたいな物に悩まされているんだろうか。
「一人で大変だったでしょう。それで疲れてたんですね」
「うーん……。たしかにそれも少しあるけど、それだけちゃうねん」
「他に何かあるんですか?」
「さっき言うたやん、夢の話。オヤジが死んでから、なんぼ疲れてても、夜寝たら夢見て夜中に目ぇ覚まして泣いて……。それでよく眠れんのよ。なんでやろ……目ぇ覚めた時に一人やと、余計につらい気がするねん。なんか大事なこと、忘れてるような気がする」