泥中都市パピプリオ

Chapter 2 - ニューヨーク集住地

斧間徒平2020/08/13 07:31
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歴史は分断された。


 AD2020年と呼ばれた年は、After Earthquake地震の後から取られた年号により、AE1年と改められた。


 長年にわたって人類を苦しめ続けた超巨大地震の余震もようやく落ち着いたAE28年、人類は半径10メートルほどの球形のポットに生活の全てを詰め込み、泥中に住を営むようになっていた。


 ポットは、日中は泥流に従って太陽の下を転がり、夜間には泥中の奥深くに没する。そして、日の出とともに上昇する泥流に乗り、再びその姿を泥上に現す。決して自由な生活とは言えなかったが、人は一応の安らぎの場所を得ることができた。


 生活基盤が安定したことにより、人口は僅かではあるが上昇に転じ、世界各地にポツリポツリと、ポットの集住が見られるようになった。


 かつてアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークと呼ばれたこの土地も、そのような集住地の一つである。


「どうして私なのですか。他に適任者がいるでしょうに」


「君にしか頼めないことなのだよ、ジョン。君もここの生活を大切に思っているだろう」


「確かにそれはそうですが、これは能力の問題です。私には荷が重すぎます」


「その能力を考慮してこその人選だ。これは、ここの総意なのだよ」


 朝日とともにポツリポツリと泥上に浮かび上がった無数のポット群が、壁面に泥をしたたらせながら陽光を浴びてキラキラと輝く。そのポットの一つで、とある男が受け入れがたい要請を必死に拒否していた。男の名を、ジョン・ボタニカルシャンプーという。


 ジョン・ボタニカルシャンプーは、巨大地震を運良く生き延びた両親との間に生まれた、まだ23歳の青年である。金髪碧眼の絵に描いたような美男子だが、常に小脇に本を抱える痩せた文学青年であり、およそ人の上に立つような度胸のある男ではないと見られている。


 ジョンは、「ボタニカルシャンプー」という非常に珍妙な姓を持つが、これはニューヨーク集住地の風習に由来している。


 地震によって発生した巨大津波に襲われた際、生存者は近くを流れる漂流物に必死にしがみつき、九死に一生を得た。


 津波が引いた後、ここニューヨークに集住した生存者らは、神から与えられた生存に感謝し、一つの取り決めを行った。それは、自身を津波から助けてくれた物を姓とし、神の恩寵《おんちょう》を永く語り継ぐというものだった。


 多くの生存者は、なるべく見栄えの良い姓を選ぼうと、実際とは異なる漂流物の名を口にしたが、正直者として評判であったジョンの父は、大声で、


「神からボタニカルシャンプーを賜りました!」


と叫び、それ以降、頭皮を洗浄する自然派洗剤が夫婦の姓となった。


 不運にもボタニカルシャンプー家に生まれたジョンも、彼の意思とは無関係にその姓を名乗る羽目になり、もう23年になる。


 ちなみに、ジョンを説得しようと試みている壮年の男性は、姓をフェラーリ・テスタロッサと言う。便器にしがみ付いて難を逃れたと言う目撃談もあったが、周囲の者はそれを敢えて指摘しない優しさを持っていた。