Chapter 3 - 第二十四章 愛している
二人の時間を止めていたものが弾けるように今、長針が一つ揺れた。
男が目を覚ますと、透き通った肌をした肩をシーツから出して天使が眠っていた。
長いまつ毛がカールしたように跳ね上がり、ルージュをおとした唇はほんのり薄く色づいたまま微笑んでいる。
男はこの時間を一秒でも惜しむように、静かに見つめていた。
窓の閉ざされたカーテンの隙間から朝の光がこぼれている。
二日目の朝が来た。
長いまつ毛がピクリと動き、やがてゆっくりと瞳が姿を現わした。
女の目が男を見つけると微笑みに唇が伸び、白い歯がこぼれた。
「おはよう・・・。」
男は起き上がらず、横になって見つめたままの姿勢で囁くように言った。
「おはよう・・・。」
むずがるように顔を枕に埋めると、女はいたずらっぽい視線を送りながら話しだした。
「今日は・・・ねっ。アウトレットに行きたいの・・・いや~ん、そんな呆れないでぇ。だって、私こっちに来て一度も自分のお金でお買い物してないんですものぉ・・・・。そこはニューモードばかりじゃないし、工場直営でブティックよりも断然安いの。だから、私のお小遣いでも結構買えるのよ、ねっ・・・。今日、そこに行けばもうお買い物はしないわ、ねえ・・・いいでしょう・・・?」
いいも悪いもなかった。
惚れた女に、こんな可愛い表情で甘えた声を出されて断れる男がこの世にいますかね?
男は女を見つめたまま、幸せをかみしめていた。
もちろん行くつもりであった。
ただ、もう少しこのまま天使の顔を眺めていたかった。
じらされていると勘違いした女は身体を擦り寄せ、男の顔に甘い息をかけながら囁いた。
「ねえー・・・おこったの?嫌いになった?ねえ・・・・・。」
男は細い肩を大きな腕ですっぽり包み込むと、答えの代わりに唇を重ねた。
モーニングコールが二人を意地悪く邪魔をしようとしたが、女の白い指が伸びると受話器を取り、すぐにおろした。
ローマ、二日目の朝はまだ始まらない。
二人の口づけが終わるまでは・・・。
「あっ・・・そういえば・・・。」
おでこをくっつけ合いながら女が言った。
「何・・・・・・?」
「昨日のシーツ・・・洗っておいたけど、大丈夫だったかしら・・。」
女は顔を赤らめ、不安そうに言った。
ただそれも一瞬で、男の唇でふさがれると再び目を閉じ夢の世界に入っていく。
ローマ二日目の朝はもうすぐ始まる、と思うのだが・・・。
今日、二人はアウトレットへ行く。
※※※※※※※※※※※※
踊りだしそうな足取りで、店内を歩いて行く。
気に入った物があると入念にチェックして、又、棚に返す。
二、三歩歩いたかと思うと、又引き返し手にとって考え込んだ後決心するように男に渡す。
卓也の腕の中には、そのようにして積まれた品物が山のように持たされている。
女はもう戦場で戦う兵士のように、油断のならない目をして一分の隙も見せず店内の全商品に気を配っている。
「ゴルゴ何とか」でも買い物中の女性の集中力には負けるでしょうな。
さゆりはこのゾーンの棚は全て見たのか、一つため息をつくと振り返った。
「さて・・・と・・・。」
やっと、荷物持ちから解放されると喜んだ卓也であった。
別にお供するのがイヤになったわけではないのだが、こう目の前に品物が積まれると、さゆりの顔もゆっくり眺められない。
しかし、そんなほのかな希望など、この鬼軍曹は抱かせてくれる程、甘くはないのであった。
「これで第一次審査終了よ・・・。この中から買うのを決めて棚に返していくの。ふふっ・・ああ・・・楽しいぃ。やっぱり自分のお金で買うかと思うと気合いが入るわ。あっ、何・・・?可愛いスカーフ・・・あそこ、見てなかったわ・・・。」
男を置き去りにしたまま、鬼軍曹はスカーフが並んでいる棚にイソイソと歩いていった。
男は呆れたように天を仰ぎ、両手を上げた。
肩にぶら下げたバッグが、落ちそうになった。
十五分程して・・・女に言わせると『たった』という修飾語が付くのですが・・・さゆりがニコニコした顔で戻ってくると、男がいなかった。
さすがに調子に乗り過ぎたと『少しだけ』後悔していると、包みをまとめてもらった大きな袋を4つ程かかえて、男がやってきた。
女が目を丸くして、大きな声を出して言った。
「どっ、どうしたのよ・・・これ。ま、まさか全部、買っちゃったのー・・・?あれの5分の1も買うつもり無かったのにぃ・・・。いったい、いくらしたの・・・?まさか・・・又、払ってくれたのー・・・?だ、だめよ、そんなのぉ・・・・。」
女はスカーフを振り回している。
男は疲れたように大きく息を吐いて言った。
「ごめんよ・・・さすがにちょっと疲れてさ。もし、迷惑なら返してくるよ・・・。」
男が振り返り歩き出そうとした時、上着の裾を慌てて引っ張った。
「だ、誰もそんな事、言ってないでしょっ・・・・・。」
さゆりは又例の考え込む表情をしていたが、卓也の顔を見ると肩をすくめ、笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、引っ張り回しちゃって・・・私、買い物になると目がすわっちゃうの。でも・・・本当にいいの・・・?」
「いいさ、それよりそのスカーフを包んでもらって、コーヒーでも飲みに行こうよ。」
女は手に持っているスカーフを見つめ、うれしそうに頷くとレジに走っていった。
二人は店を出て、ショッピングモールの中にあるファーストフード店で休んだ。
疲れた身体に熱いコーヒーがしみていく。
卓也は思った。サッカー2試合分ぐらいの体力を使ったような気がする。
《まったく、女性というのは・・・。オホン・・・あまりイヤミを言うのはやめましょう。楽しいひとときなのですから。》
さゆりは大きく膨れ上がった4つの包みを見ながら、ため息をついた。
(又、買ってもらっちゃった・・・・。私、バカだったなあ・・・・。卓也さんの性格からして、そうなるのは多いに可能性はあったのに・・・。結局、自分で買ったのは、このスカーフだけ・・・・・。)
テーブルの上に3枚のセリーヌのスカーフが包まれている。
これでも日本で買えば一枚2、3万円はする。
今、買ってもらったのもざっと見積もっても、300万円ぐらいはするだろう。
この間のアクセサリーと合わせると、500万円以上にもなる。
改めてさゆりは卓也を見た。
いくら金持ちの御曹司といっても二人は知り合ったばかりなのだ。
まして男の家になど、行った事もない。
こんなに甘えていいのだろうか。
女は少し考え込んでいたが、自分なりの結論を出したのか元気のいい声を出して言った。
「ねえ・・・卓也さん。色々買ってもらってありがとう。素直に受け取らせていただきます。返すといってもこんなにお金持ってないし、受け取ってもらえないだろうから。その代わり・・・今度は私に卓也さんのものを買わせて・・・。もちろん、そんなに持ち合わせてはいないけど・・・。」
卓也はさゆりを見つめながらコーヒーを又一口すすった。
カップをテーブルに置くと、にっこり微笑んで答えた。
「ありがとう、うれしいよ・・・。女性にプレゼントされるのって初めてだから。ごめんよ・・・勝手な事して。でも気にしないでよ、僕がそうしたかったんだから。」
さゆりは男の大きな手に白い指をからませながら、もてあそんでいる。
そしてのぞき込むように男の顔を見つめると、囁くように言った。
「じゃあ、行きましょうか・・・お買い物。」
女の瞳は再び、戦場に向かう鬼軍曹のように厳しい光を宿していた。
どちらの物であろうとも・・・買い物は楽しいのである。
それが・・・女である。
それで・・・いいのである。
※※※※※※※※※※※※
ホテルの部屋に戻ってきて、大きな包みを置いた二人はベッドに倒れこんだ。
「あー、さすがに疲れたわね・・・。でも気持ち良かったー。最高ぉ、お買い物って・・。今日は一日中だったものねぇ・・・・。」
さゆりが横を見て微笑みながら言った。
しかし卓也の疲れた表情を発見すると、済まなそうな顔をした。
「ごめんなさい、もう今日で終わり。明日から卓也さんの好きな所へ行きましょう。」
天使にそう言われると、男も疲れが少し消えるような気がした。
女は男が微笑んでくれたのにホッとしたのか、元気良く起き上がって包みを開け始めた。
至福の時間である。
しかしフッと気がついたように立ち上がると、冷蔵庫から冷えた缶ビールを一つ取ってくると、微笑みながら男に渡した。
「今日は本当にありがとう・・・・・。今からファッションショーをするから、それでも飲みながら見ててね。」
女は男の唇に軽くキスをすると、うれしそうに包みを開けている。
男はやれやれといった表情でプルトップの音をさせると、一気に飲みだした。
喉に流し込む音がゴクゴクと静かな部屋に響き渡る。
女の包みを開ける音がそれとデュエットする。
午後の日差しが窓からもれて少し暗くなっている部屋に、サッシュの影を色濃くおとし始めていた。
色とりどりの衣装を着替えたり、小粋なバッグを下げては天使の笑い声がこだまする。
その瞳は生き生きと光を宿し、澄んだ声は心地よく男の耳に届いてくる。
世界で一番熱心な観客を前に、女はうれしそうにファッションショーを繰り広げていく。
時には大人っぽくすましてポーズをとり、時にはおどけてみたり。
まるで映画の主人公になったように美しく変身していった。
ゆるやかに時間が流れていく中、終了のブザーのように遠くの時計台の鐘が鳴り響いた。
女は夢から覚め、更に暗くなった部屋の真ん中にたたずみ男を見つめている。
微笑む男はベッドに座りながら、大きな手をゆっくりと差し伸べた。
女はフラフラとした足取りで近づくと、男の手をとりベッドに腰掛けた。
ベッドのクッションが揺れて、二人の肩も同時に動いた。
さゆりは男の身体にもたれるように身体を預けた。
しばらく二人は静寂に身を任せていたが、女の方が最初に口を開いた。
「私・・・恐い。あんまり幸せ過ぎて。もしかすると全部夢じゃないかって思うぐらい。でもうれしいっ・・・・卓也さんと出会ってすごく幸せ、感謝しています・・・・。」
大きな瞳が潤み始め、光が分散してキラキラと揺れている。
男は女の髪を優しくかき上げ、見つめながらささやいた。
「言葉・・・・・・だけ?」
女はフッと笑うと目を閉じた。
男の顔がゆっくり近づき、唇を重ねた。
女の柔らかい唇が窮屈そうに息づいている。
涙があふれてきて、女は唇を離し男の胸に顔を埋めた。
「どうして私を・・・・好きになったの・・・?」
鼻にかかった声で男に聞く。
「私、広子さんみたいに背も高くないし・・・。」
男は女の香りを楽しむように、やさしく髪を撫で上げている。
「僕には・・・ちょうどいい、高ささ・・・・・・。」
女は尚も、むずがるように聞く。
「私・・・美人じゃないもの・・・・・。」
男はくすりと笑って、ささやく。
「世界で一番・・・美しいよ・・・。」
「私・・・広子さんみたいに上品じゃないもの・・・がさつだしぃ。」
「上品だよ・・・僕には・・・・・ね。」
「何も・・・・とりえも・・・ないし・・・。」
「愛しているよ・・・。」
「おっちょこちょいだし・・・・・。」
「愛している・・・。」
「卓也さん・・・・・・・。」
「愛している・・・。」
「わた・・・し・・・・・・。」
「愛している・・・。」
女は瞳からポロポロ涙をこぼしながら、男のささやきの渦に身を沈めていった。
「私・・・ワガママだからね・・・。や・・・やきもち焼きなんだから・・・。」
「死ぬまで・・・死んでからもずっと・・・愛しているよ・・・。」
「ああ・・・卓也さん・・・嫌いにならないで・・・私・・・私ぃ。」
女が顔を上げ、涙を流しながらも必死に男を見つめている。
「愛しているよ・・・。」
女の涙を太い指で拭いてやる。
「愛しています・・ああ・・・愛して・・・・・います。」
「愛してい・・・る・・・。」
男の何度めかの囁き、が女の唇で塞がれた。
涙が止まらない。
又、くちづけが涙の味になる。
外はもう夕暮れが深い色に変わり、夜になろうとしている。
部屋に差し込んでいた光も、かすかにぼやけ闇の中に二人のシルエットが重なる。
一日ごとに、二人は愛を深めていく。
男の喜びは、女の喜びに。
女のため息は、男のため息に変わっていく。
互いを知り始めた時から、愛のキューピットの矢は心の中まで入り込んでいたのだ。
ローマ、二日目の夜は二人の愛を包み込み、闇を濃くしていく。
星がうっすら、またたき始めていた。