ローマでお買い物!(第四部)

Chapter 2 - 第十九章 決心

進藤 進2022/02/10 18:08
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窓の外からローマの夜景が一望できた。


車のライトだろうか、小さな光が無数に集まっては動いていく。


さゆりの顔のうしろに、卓也の大きな背中が写っている。


上着を脱いでネクタイをほどきながら、男が近づいてくる。


例によって胃薬とウイスキーを持ってきて、窓辺のソファーに座り苦そうに薬を飲んだ後、ウイスキーをコップに注いだ。


「私も少し、飲もうかな・・・。」


卓也は意外そうに顔を上げたが、立ち上がりコップをもう一つ持って戻ってきた。


「ストレートだけど・・・。」


「うん、少しだけだから。なめるだけ・・・。」


さゆりは小さな舌を出し、おどけるように言った。


二人はコップをかるく合わせて乾杯をした。 


女はほんの少し飲んで、むせかえるようにコップを離した。


「うー、やっぱり・・・きつい・・。」


男は笑いながらコップの中のウイスキーを飲み干し、又つぎなおした。


「高田さんったらイヤんなっちゃうわ。たっぷり見せつけるんですもん・・・。なーにが、広子たんよ。いい年して・・・。まったく・・・・。」


卓也は微笑みながら、愛おしそうにさゆりを見つめている。


澄んだ瞳が女をとらえ、引き込まれそうになる。


さゆりはかろうじて目をそらせ、わざとそっけなく話した。


「あっ、それから明日からのホテル・・・ツイン・ルームにしましたから・・・。そ、それの方が安上がりだし。どうせもう、今さら何泊しても同じだもの・・・ネ。」


首筋がポッと赤く染まり、少し汗が出てきた。


「いいのかい・・・?ありがとう、うれしいよ・・・・。」


男に見つめられてさらに、さゆりは赤くなっていく。


(やだ、そんなに見つめないで。わ、私どうにかなっちゃう・・・。)


『あーら、さゆりさん、どうしたの・・・・お顔がこんなに赤くなって・・・・?まるで、タコみたい。オホホホホ・・・。』


高田のオカマ声が聞こえるような気がする。


(もう、いいとこなのに・・・なんで、あのクソオヤジが出てくるの・・・・。)


「じゃあ・・・シャワー浴びてくるから。もらえるかな、睡眠薬・・・。」


男の声に我にかえると、さゆりは切ない表情で黙っていた。


やがて決心するように立ち上がると、スーツケースから薬のバッグを取りだしビンからまた薬を2錠、男の大きな手の平に乗せた。


男はコップのウイスキーで薬を流し込むと、ニッコリ笑って浴室の方へ歩いていった。


男の背中がドアの向こうに消えると、さゆりは窓辺により自分の顔を写した。


ウイスキーの余韻と興奮で目が潤んでいる。


さゆりはもう覚悟をきめていた。


今夜、女になろうと思った。


さっき男に飲ませたのはビタミン剤であった。


今日は早めにシャワーを浴び、男が眠る前にその胸に飛び込もうと思った。


ヴェネツィアのゴンドラで唇を重ねた時、自分ははっきりこの男を愛していると悟った。


広子とした時とは比べものにならない興奮が、全身をつらぬいた。


人を愛するとはこういうものかと、初めて気がついたのだ。


さゆりは気もそぞろに業務日誌をつけ終わると、コップに残ったウイスキーをまた一口飲んでみた。


熱い感覚が喉から下の方に通り過ぎていく。


今日、女になる。


窓に写る自分に言い聞かせるように、何度も心の中でつぶやくのであった。


入れ違いに浴室から出た卓也は日記を取りだし、今日の感動を書き出していった。


ゴンドラでのキスシーンを書いていたが、ふいに顔を上げ窓に写る自分の顔を見た。


さゆりの可愛い唇が重なっていた。


初めてのキスであった。


三十にもなるのに・・・である。


ロマンの全てを否定してきた人生。

 

それが死を迎えるにあたって、これほど狂おしく愛を知ることになるとは。


愛している、と男は思った。


できれば自分の命がもう一年でももてばと願ったが、それはできないことである。 


さゆりのぬくもりが腕の中にまだ残っていた。

 

それだけでいい。

それ以上は望むまい。


自分が死んだあと、苦しむのはさゆりである。


思い出はこれだけで充分だ。

 

ただできるなら、もう少しこのまま夢を見ていたい。


あと一週間、天使と共にいられる。


世界中で一番、近くにいられる男なのだ。


窓に映る自分に何度も、そう言い聞かせていた。


     ※※※※※※※※※※※※


さゆりは浴室を出るのを一瞬、躊躇した。


思ったより長くかかった身仕度と、今日は素肌の上にバスローブを着たせいだった。


心臓の鼓動が激しく波打っている。


扉の向こうに男がいる。


喉を小さく鳴らして扉を開けた。


頬が興奮で紅潮している。


部屋の照明はつけたままになっていた。


男は窓の方に顔を向け、ベッドに横になっている。


一歩一歩、男のベッドに近づいていく。


一歩一歩、女になろうとしている。


そばに来ると急に恐くなり、下を向いてしまった。


男は何も言わない。


じらされている。

女はそう思った。


勇気をだして顔を上げる。


目が合えば、男の胸に飛び込もうと思った。

 

今日のゴンドラであれほど大胆に男の唇を奪ったのだ。


さゆりは瞳を潤ませて男を見た。


男は・・・眠っていた。


「えっ・・・・・・・?」


さゆりは目を大きく開いたまま、立ちつくしていた。


あんなに盛り上がって、緊張してきたのに。


男は安らかな寝息をたてている。


睡眠薬の代わりにビタミン剤を渡したのに。


きっと、暗示にかかりやすいタイプなのだろう。


「素直な・・・・・人。」


くすっと笑って、さゆりは自分のベッドに座り男の寝顔を見つめている。


幸福感を満たした寝顔は、安らかに呼吸している。


(これで、いいんだわ・・・。)


女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「そうね・・・ゆっくり、そう・・・ゆっくり愛して、卓也さん。」


女は部屋の明かりを消し、窓の外を見た。


ローマの夜景が美しく広がっている。


明日から二人きりのローマが始まるのだ。


そう思うと胸が高鳴った。


明日は・・・愛していると言おう。

 

別に待つだけが女の役目ではない。


男はずっと見つめていてくれたのだ。


さゆりは男を愛してゆこうと思った。


男の胸に飛び込んでいくのだ。


女は男のベッドのそばに膝をつき、自分の唇をそっと男の唇に重ねた。


「愛しています・・・卓也さん。」


おやすみなさいの代わりにそう言うと女はベッドにもぐりこみ、やがて安らかな眠りについていった。


愛に満ちた眠りであった。


明日から二人だけのローマが始まる。


どこに行こうかと、女は思った。

何をしようかと、女は思った。


夢の中で女は幸せをかみしめながら、あれこれ迷うのであった。


穏やかな時間が流れていく。


ここはローマなのだ、何千年も昔からそうだったように・・・。


      ※※※※※※※※※※※※


広子と高田。


二人は余韻を楽しむように抱き合い、天井を見つめている。


女は男の肩に顔を埋め、男の匂いを確かめるように胸に吸い込んだ。


自分だけの匂いである。


もう、離しはしない。


どんなに大人になろうとも、どんなに分別がつこうとも。

この愛を離したくない。


素直にそう思った。


男は女の柔らかい髪を撫でている。


愛おしそうにその感触を楽しんでいる。


愛していると囁いてみようか。


そう思ったがやめて、指先で女に伝えていく。


重なり合った二人の時間はスムーズに流れていた。


「うそみたい・・・こうしてあなたが私のそばにいるなんて・・・。」


ようやく広子が言葉を口にした。


心の中では二人ともずっと会話を交わしていたのだが。


「昨日のあなたは遠かった・・・・。どうしても届かない気がしてた・・・・。」


「今は・・・・・・?」


男の指は髪からうなじを通って、少しとがった顎にきている。


「ふふ・・・。」


女は答えの代わりに瞳を閉じた。


長いまつ毛が美しいカーブを描いた。


女は幸せを心ゆくまで味わっていく。


昨日までは口づけをしている間でも、男が消えてしまいそうで不安だった。


今は海の中に漂うように、愛に浸っている。


「もう・・・私のものなの・・・ね。うそじゃないのね?うれしい。」


男を見つめながら、何度も繰り返し言葉をはなっている。


くすぐったそうに女の吐息を受けとめながら、男は言った。


「じゃあ、明日・・・・試してみる?」


「何を・・・?」


「真実の口・・・行ってみる?」


女はくすっと笑いながら男に唇を重ねた後、満足そうに囁いた。


「やめておくわ・・・ふふっ、変な物でも入っていたら恐いもの・・・。」


二人は吹き出し、しばらく抱き合いながら笑っていた。


やがて再び愛のロウソクに火が点り、お互いを燃やしていく。


二人にとって、ローマ最後の夜が更けていく。

 

明日、日本に帰る。

二人の新しい人生が、待っている。