Chapter 3 - 第三章 A3サイズの図面と建築模型
びしょ濡れになったスーツの上着を脱ぐと、やっとたどり着いたオーナーのビルのエントランスホールのエレベーターの前で、やけになってバサバサとはたいた。
水しぶきが、男の心を代弁するかのように弾けている。
受付の女性に名前を告げると、応接室に案内された。
出されたお茶にも手をつけず、苛立ちながら腕時計を見ている。
十一時であった。
アポイントの時間より三十分も遅れている。
よもや2時の約束には遅れないだろうとは思うのだが、冷たい汗が背中を伝わってくる。
扉の開く音がして、オーナーとその後ろから明るい表情の夫人が現れた。
オフ・ホワイトの上下のスーツの下に、キャミソール風のシースルーのブラウスを着ている。
髪はボリュームのある栗色のロングヘアーを、ゆったりと右側にウェーブをきかせて束ねている。
耳と胸元にきらめくアクセサリーは本物であろうか、大粒のダイヤが見え隠れしている。
「どうも、お待たせして申し訳ない。道路がこんでいて・・・・。」
男はもどかしそうに、さっそく模型と図面を広げて説明をしだした。
「えー、先週ご指摘されました最上階の住居は、一層から二層に変えてリビングは吹き抜けにしました。この円形の部分がそうです。
それから、一階から二階には奥様のアクセサリーのブティックがはいります。これも同じように吹き抜けにして、お客様の商談などは二階のパントリー付きのダイニングテラスで、お茶などのサービスが出来るようになっています。」
模型を使ってする説明はわかりやすく、熱心な質問の遣り取りの後、満足そうにオーナー夫人は言った。
「とってもステキだわ・・・。デザインもいいし。ありがとう・・・。ごめんなさいね、無理を言って。一生に一度のわがままですもの。でも、大変だったでしょ・・・?」
年配とはいえ、美人の笑顔は心を軽くしてくれる。
男は安堵のため息をついて、資料を片づけ始めた。
だが、夫人の声で又冷たい汗が背中に流れた。
「でも着工日は守って下さいネ。お願い・・・。」
ああ、又、休みがなくなると半ば諦めながら男は言った。
「わかりました。あの・・・トイレをお借りしたいのですが。」
男が出ていったあと、テーブルに残っている図面を手にとって、夫人は熱心に見ていた。
それは、先週の打ち合わせ用のA3サイズの図面で、男の彼女であるCADオペレーターに指示できるように、細かく丁寧に赤インクで線や言葉が書き込まれていた。
「まー、こんなに真っ赤にギッシリと・・・。悪い事をしたわ。」
「そーだよ、彼はずっと休みなしで図面を描いててくれたからね。どーかな、着工日はずらしてあげられないかな?」
「そーねぇ・・・。」
女は複雑な表情で、図面を見つめていた。
ただ、やはり着工日には思い入れがあるのだ。
夫と共にずっと力を合わせてガンバッテきて、ようやく理想のビルが建てられるのだ。
それには、やはり結婚記念日がいい・・・。
オーナーは妻の気持ちもわかるので、所在なげに立ち上がると、窓に寄り外の景色を眺めていた。
男が戻ってきてカバンを取り、帰ろうとすると女が言った。
「この図面、頂いていいかしら・・・。」
さっきの、真っ赤に指示が書き込んである図面であった。
「ええ、汚い字ばかりでお恥ずかしいですけれど。どうせ捨てるつもりだったから・・・。」
女は少し含むように笑いをうかべ、言った。
「失礼だけど、彼女はいるの?」
男は意外な質問に、少し顔を赤くして答えた。
「ええ、まあ・・・。」
女は机の引出しから、小さな包みを取り出して渡した。
「これ、うちの店の新製品なの。彼女にプレゼントしてあげて・・・。色々無理言って、ごめんなさいね。そうそう・・・。着工日、やっぱり伸ばしてもいいわ。その代わり・・・かっこいいビル、設計してね。」
オーナーと男は、驚いて夫人の顔を見た。
その表情は、嬉しそうに微笑んでいた。