Chapter 3 - 第二章 コロッセアム
どやどやとバスを降りる乗客一人一人をチェックしながら、さゆりは目の前にそびえ立つ円形劇場を見上げた。
何度見ても好きな建物の一つである。
アーチを縁取った柱が放射状に広がりながら、途中でプッツリと切れている。
まるでそこから古代にタイムスリップしているようで、ローマに来た実感を一層強めてくれる気がするのだ。
その気持ちの良い余韻を破るかのよう、おぞましい触感がおしりに伝わった。
「キャッ・・・・な、何するのよっ・・・・て、又・・・高田さんですか?」
高田は少々、額の上がったおでこにデンとそびえる太い眉毛を歪ませ、嬉しそうにに笑っている。
「ンー。ナイステイストな感触ねー・・・・・。さゆりちゃんのおしりって、マシュマロみたいに柔らかくって、それでいてまったりと・・・。」
(私はマロンケーキか、このエロオヤジ!)
ひっぱたいてやろうかと思っていると、後ろから男がぶつかって歩いていった。
「いたいっ・・・・な、何よ・・・?」
大きな紫のシルエットが何も言わず遠ざかっていく。
(あ、あのヤロー・・・。ごめんなさいの一言ぐらい言いなさいよねぇ・・・・。)
「大丈夫、さゆりさん?」
ふくれっ面をしている、さゆりに未亡人の広子が優しく声をかけた。
「えっ・・・だ、大丈夫です。ちょっと・・・・びっくりしちゃって・・・・。」
さゆりは高田雅美と大西卓也の背中を見ながら、肩をいからせフンと大きな鼻息を吐いた。
「本当にあの男二人は・・・。スケベと暗いのが、どうしてパックツアーに一人で来てるんでしょうねぇ。まったく・・・。」
笑みをうかべる広子は、さゆりと並んで歩き出した。
「まあ、それぞれ事情があるんだと思うわ。
私も一人旅だし・・・・・。
それより・・・ネエ、さゆりさん、お願いがあるのだけど・・・・。」
「何ですか、香山さん。」
「広子・・・・でいいわ。
あっ、私もさゆりさんって呼ばせてね。
高田さんじゃないけど、その名前・・・・・好きよ。」
「広子さん・・・そ、そんな・・・。」
女性に言われているはずなのに、さゆりの頬はほんのり紅く染まっていった。
広子の美しさのせいだろうか、ふくよかな唇が妖しく心に迫ってくる。
なんとも言えず、いい香りがする。
ハッと我に帰ったさゆりは建物に入る前にみんなを集め、軽く観光ガイドを丸暗記した説明をしながら中に入っていった。
先に階段を昇っていく卓也に追いついた高田は、息を荒く吐きながら言った。
「フーッ、ちょっと待ちなよ。そんなに急ぐもんでもないだろ。俺は高田っていうんだ。男一人で来ているのは君と僕だけみたいだし、仲良くしないか・・・・?」
卓也は振り返り、サングラス越しにこの中年の男を見た。
そして何も言わずに又、歩き出していった。
高田は手を上にあげて首をすくめるポーズをとると、コロッセオを見下ろした。
列柱に囲まれた広場は古代ローマ時代に、ここで猛獣と人間の血なまぐさいショーが行なわれたらしい。
5万人の観衆がこの残酷なショーに興奮、熱狂していったという。
今は地下の猛獣を閉じ込めていた石の檻が長い年月のうちに天井が飛ばされ、剥き出しになって迷路のように見える。
高田はズボンのポケットに手を入れて大きく胸をそらし、胸いっぱいに空気を吸った。
古代ローマのロマンのにおいがする。
高田はある大手出版社の雑誌の編集長であった。
何年か続いて、ある程度部数も安定した雑誌の編集長を退き、今度手がける女性向けの雑誌の仕事の前に心身の充電と研究のため、このツアーに参加したのである。
当然客は女性中心であろうし、大いに参考になるだろうと思っていた。
それともう一つ・・・理由があった。
列柱のカゲが際限なく続く回廊を、ゆっくり卓也は歩いていた。
サングラス越しに見る風景を、一枚一枚写真に納めるように目に焼き付けている。
男は製薬会社に勤めていた。
父親は売れない小説家であった。
子供の頃から買いたいものも買えない、貧しい暮らしをしていた。
母は優しくきれいな女性であった。
いつもパートや内職で忙しく働いていた。
父の事はきらいではなかったが、子供心に夜遅くまで内職のミシンがけをしている母を見ていると、ぶらぶらしているように見える父がはがゆかった。
でも母はぐち一つ言わず、父を尊敬していた。
父の小説の一番のファンで、よく卓也に読んで聞かせていた。
懸命に働きながら、卓也を大学まであげてくれた。
卓也も奨学金やアルバイトで少しでも母の負担を軽くしていたが、無理がたたったのか卓也が卒業後、倒れ入院した。
父は生涯売れない純文学を書いていたが、卓也が高校生の頃、母よりも先に、病気で死んでいた。
就職が決まり、ようやく母に楽をさせられるを思っていた矢先、息をひきとった。
初任給で買ったカーディガンを愛しそうにはおる母の姿が、今でも目に焼き付いている。
それでも父と母は、幸せな人生だったのかもしれない。
愛のある人生。
そう、卓也は思った。
だが、自分はお金を貯めようと決心をした。
仕事も父の文学と正反対の理系である、製薬会社の研究者を選んだ。
身寄りもなく、天涯孤独の自分であったが何かにとりつかれるように金を貯めた。
恋人らしい者もなく、八年以上も特にこれといった贅沢もせず、住まいも会社の研究所の寮から通っていたし、株をやったりして父母の生命保険の残りを合わせると、貯金は4000万円近く貯まっていた。
恋など、したくもなかった。
ただ、あのことから人生が変わってしまった。
そう、あの日から。
その頃、仕事がたまっていて研究所に寝泊まりする日が増えていた。
新薬の研究がうまく進まず、ストレスが募るばかりであった。
胃薬を多用する日が続き、とうとう入院してしまった。
胃潰瘍との診断だったのだが、なかなか治らず検査の途中、レントゲン写真の胃の部分にガンらしいカゲを見つけた。
担当の医師も深刻そうな顔で黙っていた。
多少医学の知識のある卓也はこの事にショックを受け、三日程食事ものどを通らず絶望の日々をベットの上で過ごした。
ある日病院を抜け出し、街をさまよっていると小さな教会を見つけた。
何でもないマリア像のステンドグラスが太陽の逆光に美しく照らされ、不覚にも涙がこぼれてきた。
父と母を亡くして以来、感情というものをしまいこんでいた卓也にとって、久しぶりに流す涙であった。
悲しいはずであるのだが、不思議と暖かく感じた。
自分は死ぬのだな、と思った。
その途端、何もかもが愛しく思えてきた。
空も、こんなにきれいな青色をしていたのかと。
道端に咲いている草花も、雑草の緑さえもが新鮮に見える。
閉じ込めていた詩的な感情が一気に噴き出してくる気がした。
幼い頃から父に聞かされていた愛という概念に対して、わざとそれを無視するかのような生き方をしてきた。
だが自分の生命がつきようとしている今、もう一度愛に生きる人生を送りたくなった。
人を愛してみたい。
心の底からそう思い、そっと手を胸に組みながら誰もいない教会で神に祈った。
その足で卓也は会社に行き、退職願いを出した。
驚く上司に特に詳しい説明もせず、ただ人生を見つめ直したいとだけ告げ、後日手続きをふむ段取りをして病院に戻った。
それから一週間程、時々病院を抜け出しては貯金を全てクレジットカードの口座に集めたり、身の回りの整理等をした。
一月程入院していたので比較的スムーズに仕事の引き継ぎもできた。
元々、服とかも買わない方だったので、一揃いの下着をスーツケースに詰め込み、他は全て捨ててしまった。
そして、新しく何着か服を新調した。
「紳士服の高木」で、今まで着た事のないような派手なスーツとシャツを買い込んだ。
今までオシャレには無縁だったので、とにかく明るい色ならいいだろうと選んだのだった。
今は、時間が惜しい。
旅行会社にも行き、最も女性客が多そうなローマのパックツアーに割り込んだ。
パスポートは会社でとらされていたので、問題はなかった。
そのまま病院の止めるのも振り切って退院し、成田のホテルに二泊した後、このツアーに参加したのである。
不思議と胃の痛みも軽くなった気がする。
多分、人生最後に目的ができたため、身体の方も興奮状態なのかもしれない。
いずれ若い身体なので、ガンの進行が早まり痩せ細っていくだろう。
その前に、身体の自由がきくうちに、せめてたくさんの想い出をつくろうと思っていた。
だが十年以上も人と殆ど話らしい話もした事がなく、逆に愛に反発した人生を送っていた卓也にとって、急に人と仲良くする事は難しかった。
ただでさえ、昔から大西卓也という名前を縮めて「オタク」と、呼ばれていたくらいなのだから。
今、売れている芸能人にいる同じ「タク」でもえらい違いである。
今も高田に話しかけられた時、受け答える事もできなかった。
そんな自分が腹立たしく、切なく思える卓也であった。
「ねぇ、さっきの話だけど・・・。」
広子がさゆりに向かって言った。
回廊の柱のかげを見え隠れする卓也の紫色のスーツに吹き出して見ていたさゆりは、口元を押さえながら振り返った。
「ええ・・・何ですか?それより見てよ、広子さん。大西さん・・・目立つわよねー。他の外国人もあきれているわ・・・・あのスーツの色・・・・・。」
広子もそちらを見て吹き出すと、二人はしばらく笑いあった。
「ごめんなさい、広子さん。それで・・・・?」
さゆりは笑い過ぎて目に滲んだ涙を拭いながら聞いた。
「私、一人旅でしょ。シングルの部屋を申し込んでいたんだけど、何か夜わびしくて・・。良かったらさゆりさんと同室にしてくれないかしら。料金は同じでいいから。」
さゆりは顔を輝かせた。
「ええ、喜んで。私も一人より、広子さんみたいな人と一緒にいる方が安心だわ。変な男も近寄って来ないだろうし・・・。」
そう言いかけた途端、イヤな予感がして振り返ると案の定、高田が立っていた。
「イヤー・・・お二人さん、楽しんでるー・・・・?でも、いいネエー・・・・・。古代ローマのロマンを忍ばせるコロッセアムに美女二人、絵になるよー。どう、さゆりちゃん・・・・オジさんと写真一緒に写さない?」
さゆりはゲンナリしてため息をつくと、高田のカメラを取りあげて言った。
「私が撮ってあげますよ。高田さんと広子さん、並んで下さい。お似合いですよー。」
広子はさすがに大人なのか、イヤそうな顔もせずに微笑んでいた。
さゆりに上手く逃げられた高田であるが、未亡人の美貌も相当なのでまんざらでもない顔でポーズをとっている。
「いいですか?はい、チーズ・・・・・・。」
午前中の太陽が元気良くコロッセアムに光を落とし、上から見ると遺跡の一つ一つが彫刻のように濃いカゲをつくっていた。
まだローマツアーは始まったばかり。
二日目の朝の事であった。