Chapter 5 - 04 SIDE-L
「私はロアンよ。Dương Hon Loan。あなたは?」
国籍不明の不審人物に名を告げるのは、躊躇われたが、尻尾を振るオーネストを見て、気が変わったわ。
彼がベトナム語を理解できた点も大きかった。
私は地元の大学生だけど、彼は同年代だと想う。
「xin lỗi(シンローイ=ごめん)。自分のこと、何も想い出せないんだ」
原因は分からないけど、記憶喪失になってしまい、いつからこのビーチにいるのかも分からないという。
「犬が好きなの?」
彼はオーネストから手や顔にペロペロ攻撃を受け続けていた。
「多分ね。嫌いじゃない」
「この仔(彼)はオーネスト」
「オーネスト? ソックス君じゃないの?」
冗談を言うだけの余裕もあるみたい。自殺志願者という訳でもなさそうだ。本当に記憶障害があるんだと想う。
まるで捨てられた仔犬の様な不安気な瞳をしている。
「とりあえず、いつまでもここで横になっていたら、熱中症で死んじゃうよ。朝ご飯くらい食べさせてあげるから、ついておいでよ」
わたしは、いつものルーチンに戻そうとした。
ビーチの散歩の後は、cháo(チャオ=おかゆ)を食べる。3食cháoでも良いくらいだ。
それにここをそろそろ立ち去りたい理由はもう一つあった……。
「あなたの名前を決めましょう。不便だもの」
少し足を引き摺る彼の歩幅に合わせながら、わたしは提案をした。
「何か想い出せる名前はないの? そこから決めようよ」
彼は頭を掻きながら答えた。
「うーーん、ケン、パク、コウ、トゥオン……。多分、日本語、韓国語、中国語、ベトナム語。この辺に聞き覚えがあるんだ」
「自分の名前か、友達の名前か、分からないってことね。じゃぁ、一番最初に出たケンで良いんじゃない?」
「そこはベトナムっぽいトゥオンじゃないのかよ」
「それ元カレと同じ名前なの。ひどい別れ方をした元カレと!」
「分かったよ。その名前は封印するよ」
「おい、ロアン。誰だよ、そのよそ者は?」
背後から声をかけられた。しまった。もう一つの立ち去りたい理由がもう現れてしまった。
オーネストも唸り声をあげている。
「相変わらず、躾のなってない犬だな。で、誰だよ、その犬よりも汚い身なりの奴は?」
こいつはクォク。この辺のcôn đồ(コンドー)つまりチンピラだ。チンピラのくせに、朝からこのビーチを見廻りに来る厄介者。鉢合わせしたくなかったんだけど、もう遅い。後は、何とか穏便に済ますしか……。
クォクは、海水と砂でヨレヨレになったケンの奥襟を掴んだ。倒れないように首を固定し、何発も顔面を殴るつもりだ。
拳が顔面に叩き込まれる。
……ケンの拳がクォクの顔面に。
奥襟を掴まれた瞬間、ケンはするりと手をほどき、ノーモーションでパンチを見舞っていた。
驚くことに、ケンは一歩も動いていなかった。
ホワイトサンズからケンの足跡は微動だにせず、代わりにクォクの足裏は砂を巻き上げ、尻餅を刻み込んだ。
「あ、悪い。反射的にやっちまった。まだやるかい?」
端から見れば、ラッキーパンチに見えたに違いない。だが、やられたクォクは拳から受けた波動をキャッチしていた。
絶対的な強者の波動を。つまり、一撃で戦意を喪失した訳だ。
「今日は……大目に見てやる……」
「あぁ、そうしてくれると助かるよ」
ケンは何事もなかったかのように、わたしの許に向かってきた。徐々に熱を帯びてきた砂浜に足を引き摺りながらも。
「あ、あんなの相手にしちゃダメ」
「そうだな。悪かったよ」
「ただのcôn đồ(チンピラ)なんだから」
いつもより時間が経ったせいで、交通量が増えていた。朝の通勤ラッシュにかかってしまった。
ベトナムの朝は早い。その分、夕方には仕事を終える。夜に涼しくなってから、皆、街へ繰り出し遊ぶのだ。
ビーチでの海水浴も、早朝か夕方が多い。日中にビーチに居るのは、外国からの観光客だ。
ベトナムはまだ、信号機の設置数が少ない。そして、やたらとバイクが多い。3人乗りは当たり前で、4人乗りもざらだ。
それなのに、皆ガンガン飛ばしてくる。勿論、わたしも散歩以外の移動手段はマイバイクだ。
信号機もない道路は、バイクや車をうまく避けながら渡らないといけない。
けたたましいクラクションが交差する中、わたしはオーネストを抱きかかえて、一気に道路を横切った。
足を引き摺るケンも難なくついて来る。
初めての観光客なら、尻込みしていつまでも渡れない交通量。車道の横断を、体が覚えているのだろう。
ビーチを出てから20分後、わたし達は家に着いた。