カフェ青葉の店内はランチタイムの客が一段落して、有線放送の音楽が静けさを破っていた。
下北沢の駅から少し離れたこの辺りでは、雨の日となると客足は減る。
五月末の梅雨の走りのような雨はやむ気配もなく降り続いていた。
アルバイトの僕は、テーブルから食器を回収して、ざっと洗ってから業務用食洗機に投入するのが主な仕事だ。
最後の食器を抱えてカウンターに戻ってくると、山葉さんが有線放送の曲に合わせて鼻歌を歌っている。
店内に流れているのは、古い海外アーチスト特集で、僕はその曲をどこかで聴いたことがあると思うが、曲名が思い出せない。
「MWW以外の曲も聞くことがあるのですか?」
彼女はオーナーの車を借りて運転するときに、カーオーディオと自分のスマホをブルーツースで接続してMen With Wolvesというグループのナンバーを聞いていることが多い。
MWWはオオカミの被り物がトレードマークのヘビィメタルロックグループで、彼女は気に言っている様子だ。
僕の問いに山葉さんは照れたような表情を浮かべて答える。
「私はMen With Wolvesしか聞かない熱烈なファンと言う訳ではないよ。この曲は私の母がよく口ずさんでいたのだ。昭和の時代にJポップのカバーバージョンがヒットしたそうだ。」
「僕もどこかで聞いたことがありますよ。」
僕はシンクにたまった汚れた食器を片付けながら答えた。
客が途切れる時間帯はお店の経営者にはありがたくないだろうが、僕にとっては彼女と雑談する時間ができて悪くない。
「高校生の頃にこの曲の歌詞の意味を調べようとしたが、よくわからなくて投げ出した記憶がある。私の英語力はそんなものだな」
彼女は自嘲気味に言うが、僕が聞き耳を傾けても流れている曲の歌詞の意味はよくわからない。
「散文的な歌詞で、筋道だった意味はないのかもしれませんよ」
「そんなものなのかな?」
山葉さんは笑顔を見せた。
彼女はたまに笑うと子供のように崩しすぎた笑顔を浮かべるが、僕はその笑顔を見ると気分が和む。
彼女はラテマシーンの抽出用のコーヒーの粉を平らにならしているが、僕はその横顔を見ながら、高校生の頃の彼女はどんな感じだったのかと考える。
制服はセーラー服だったのかなと僕の妄想がふくらんでいるとき、山葉さんは僕の妄想に応えるように言う。
「私が通っていた女子高の制服はセーラー服だった。その頃は有名デザイナーを起用したブレザータイプの制服が巷を賑わせ始めていたから私たちはなんだか肩身が狭かったよ」
「そんなことないですよ。セーラー服もすごくいいと思いますよ」
僕は山葉さんを擁護したつもりだったがその判断は誤りだったらしく、彼女は異種の生物を見るような眼で僕を見ている。
「君はセーラー服フェチなのか?」
「ち、違いますよ。山葉さんの母校の制服がセーラー服タイプだと聞いたからそれも悪くないですよと擁護したつもりです」
山葉さんは僕への疑惑はまだ晴れていないと言いたそうな表情でこちらを見ながら話題を変えた。
「この間は私の交際関係など尋ねていたが、ウッチーこそ付き合っている女性はいないのか」
「いませんよ」
僕が即答すると山葉さんはさらに疑惑を深めた表情で僕を見たが、お店の入り口のドアベルが僕たちの他愛のない会話に水を差した。
お客さんが来たのだ。
カウンターの中で雑誌を読んでいた細川さんがお客さんを席に案内している間に、僕はお水とおしぼりのセットを準備した。
普通、空席があれば一人でもテーブル席を選ぶお客さんが多いが、その人は真っ直ぐにカウンター席に来た。
「このお店で、陰陽師をされている方が祈祷してくれると聞いてきたのですが。」
山葉さんに尋ねたのは高級そうなスーツを着こなした中年の紳士だった。白髪の交じった髪を短めに整え、実直そうな雰囲気を漂わせている。
「はい、承ります。どういった内容で祈祷されたいのですか」
手近にいたので僕が話を聞いたが、横目で山葉さんを見ると、彼女も僕とお客さんとのやり取りに聞き耳を立てている様子だ。
「中学生の息子が別れた妻、つまり息子の実母にあたるのですが、その夢を見て悩んでいるらしいので、祈祷をしてほしいのです」
僕の横に来た山葉さんが口を開く。
「その別れた奥様は今、どうされているんですか」
「十年程前に亡くなったと聞いています。癌だったようです」
山葉さんは、平静な表情を崩さずに質問を続けた。
「離婚後も奥様とお子さんは面会されていたのですか」
「いいえ、私が許さなかったのです」
男性は少し俯いた。
「わかりました。お引き受けします。準備がありますのでこちらでお待ち下さい」
山葉さんはカウンター席を指し示したが、男性は両手を挙げて遮った。
「すいません。息子を待たせているので呼んできます」
見ると表の通りにタクシーが止まっている。男性は店内の様子を見てから息子さんを呼ぶつもりで、タクシーの中で待たせていたようだ。
彼がタクシーに息子を呼びに行くと、山葉さんは僕に言う。
「祈祷のために着替えているから、お客様には待っていただくように伝えてくれ」
彼女は引き締まった表情を浮かべて着替えのためにお店のバックヤードに消える。
僕は戻ってきた二人に、カウンターに座ってもらった。
「こちらが受付票ですので記入をお願いします。お祓いとは別料金ですが飲み物はいかがですか」
僕はぬかりなくメニューも勧めながら、受付の事務を始めた。
僕がアルバイトを始めてから、受付票を作り顧客情報をパソコンで管理するようにしたのだ。
そして、受付票に記入してもらうことによって、山葉さんが巫女姿に着替えるまで間を持たせる効果もあった。
「ああ、それじゃあホットコーヒーを二つ頼むよ」
受付票を見ると彼の名前は中西達也。息子さんは拓也君だ。
オーダーを告げると細川さんがペーパーフィルターを使ったドリップ方式でコーヒーを淹れ始めた。彼女の方針でカフェ青葉ではコーヒーの作り置きはしない。
僕は、カウンターの後ろでラップトップの電源を入れると、受付票の記載内容をエクセルのファイルに入力しはじめた。
顧客台帳は商売を円滑に進めるために必要不可欠だが、パソコンにはもう一つ用途があった。
達也さんが連れてきた息子の拓也君は父親の達也氏と変わらないくらいの身長だが、中学生だけあって全体に線が細い。
目鼻立ちは父親に似ているが、年齢と相まってハンサムと言ってもいいルックスだ。
「ご祈祷の依頼は多いのですかね」
達也氏がコーヒーを飲みながら僕に聞く。
「結構ありますよ、ご自分の健康とかお子さんの成長祈願が多いですけど」
「そうですか」
達也氏の横で、拓也君は物珍しそうにキョロキョロと辺りを眺めている。
「準備ができました。どうぞ」
山葉さんがドアを開けて声をかけたので、二人は中へと入っていった。
僕はおもむろにリモコンを取り出すとムービーカメラを起動した。山葉さんがお祓いをする様子を顧客の背後から撮影できる位置にカメラをセットしてあるのだ。
カメラで撮影中の動画はWifi経由でラップトップパソコンの液晶画面でモニターできる。
山葉さんは最初、カメラで動画を撮影することに難色を示したが、性質の悪いお客さんだった場合に僕が助けに行けるからと説得したのだ。
僕は彼女がいざなぎ流の祭文を詠唱し始めたのを確認したが、その祭文は僕が知らないものだった。
いざなぎ流の祈祷は口伝のみで伝えられ、様々な神や式王子と呼ばれる存在それぞれに固有の祭文が存在し、祭文を詠唱しながら神楽と呼ばれる舞を行うところに特徴がある。
僕は、パソコンのラップトップの液晶に映し出された神楽を舞う山葉さんの姿を無言で眺めていた。
その時、僕はラップトップに映る映像を見て、おかしな事に気がついた。
画像には儀式を行う山葉さんと先ほどの父子の後ろ姿が映っているはずだが、もう一人いるように見えるのだ。
達也氏の横に拓也君、その更に横にもう一人座っていて何となく女性のように見える。
達也氏は別れた奥さんが亡くなったと話していたが、再婚しており、新しい奥さんが来ていたのだろうか。しかし、先ほどはそんな人を見た覚えはない。
「細川さん、ちょっと様子を見てきていいですか」
「はいどうぞ」
細川さんはコーヒーのサーバーを片付けている。
僕はカウンターの奥の扉を開けて、バックヤードにある「いざなぎの間」を覗いてみた。
「いざなぎの間」とは山葉さんが祭祀を行うバックヤードの和室に僕が便宜上付けた呼び名だ。
ラップトップの映像と違わず、巫女姿の山葉さんがしなやかに舞ながら、神事を行っている。
だが、先ほど見た三人目の人影はなかった。僕が見ている視点は、カメラのセット位置とあまり変わらない。
カメラが目立たないように通路をはさんでセットしているからだ。
三人並んでいるように見えたはずが、中西親子が二人並んで座っているだけで他には何も見えない。
「おかしいな、何か埃でも写り込んだのかな」
僕はレンズクロスでカメラのレンズをぬぐってみた。カメラの撮影中を示す赤色のダイオードは目立たないようにマスクしてある。
再び振り返ったところで、山葉さんが僕に気づいたようだった。
彼女は目線を合わせた後、眉間にしわを寄せるようにしてこちらを見ている。
祈祷の邪魔をしてしまったのだろうかと僕は慌てた。精神の集中が必要なときに内輪の人間が邪魔をしては申し訳ないので僕は店の方に戻ることにした。
店のカウンターの中では細川さんが、中西家の親子二人が飲んだ後のコーヒーカップをシンクまで運んでいるところだった。
「細川さんカップの洗浄くらい僕がやりますよ」
オーナーに食器洗いをさせるわけにもいかないので、僕はオーナーから取り上げたカップとソーサーを手早く洗い、ランチタイムの食器類と共に業務用食洗機にいれて、スイッチを押した。
当面の仕事はやっつけてしまったので僕はおもむろにパソコンの画面を見た。先ほどの人影のようなものは見えなくなっている。
どうやらレンズに埃が付いていただけのようだ。僕はここなら邪魔にならないだろうと画面の山葉さんを何となく眺めていた。
「何ニヤニヤして見ているの?」
横から細川さんの声が聞こえた。
そんなににやけた顔をしていただろうかと思って慌てて振り向くと、細川さんがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「ニヤニヤして見ていた訳ではなくて、システムがうまく動いているからうれしかっただけですよ」
彼女は最後まで聞きもしないで意味ありげにうなずくと隅の方の自分の椅子に戻っていった。
やがて、神事が終わったらしく、いざなぎの間から中西親子が出てきた。
「お疲れ様でした」
「いやあ、ありがとうございました。心が洗われるようですな」
僕が挨拶すると、達也さんは上機嫌に言葉を返すが、言い方が少し大仰な気がしないでもない。
「これで、うなされなくなったらいいね」
僕が声をかけると、拓也君は怪訝そうな顔をした。彼のためにお祓いをすると聞いていた僕は、拓也君の反応に微妙に違和感があった。
中西さん親子はタクシーを呼び、降り止まない雨の中を帰って行った。
僕は他のお客が来ないので、パソコンの顧客名簿に中西さんのデータを打ち込んでいたが、しばらくして着替え終わった山葉さんが店の中に戻ってきた気配がした。
「ウッチー」
「はい」
僕は呼びかけられたものの、もう少しで入力し終わるところなので返事だけして顔を上げずに、パソコンのキーボードを操作していた。
だが、山葉さんから続きの声が聞こえてこないので、僕はおもむろに振り返った。
バックヤードから店内に入ったところで、山葉さんが佇んだままこちらを見ている。
「どうかしたのですか」
僕が尋ねると、彼女は僕の目を見つめて何か言いたそうな雰囲気だ。
僕は何事かとちょっと期待もしながら待っていたが、彼女は不意にそっぽを向いた。
「いや、なんでもない。邪魔したな」
それだけ言うと、彼女は仕事用のエプロンを着け始めた。
僕は何だか拍子抜けした気分でパソコンの用事を片付け始めた。
本来ならその日は、雨のおかげでちょっと暇だけど平穏な土曜日のはずだった。