第2話 - 二十六章 真実の口、ふたたび
明日はどこへ行こうか。
男は又、同じ事を繰り返し考えていた。
楽しいひとときが、またたく間に駆け抜けていった。
二人は遺跡を見たり、オペラにも行ってみた。
あまり有名な人は出ていないらしかったが、本場の舞台は素晴らしく、日本人の歌手も出演していたりして二人は興奮しながらホテルの夕食で語り合った。
だが時間は容赦なく過ぎていく。
明日でさゆりは日本に帰るのだった。
真実の広場を歩きながら、この旅行中に何度も言った言葉を男にぶつけた。
「ねえ、やっぱり・・・・明日、一緒に帰れないの?寂しいわ。」
男の腕をギュッとつかみ、身体をもたれさせている。
「ああ、ごめんよ・・。明後日のヨーロッパ選手権の決勝はどうしても見逃せないんだ。やっと取れたチケットだしね・・・。」
卓也はすまなそうに答えた。
ローマに来た時、どうせ都合よく恋など出来ないと思っていた卓也は、真っ先に地元のダフ屋からこのチケットを手に入れていた。
日本人ということで足元を見られて、法外な値をふっかけられたが仕方がなかった。
それにこのままローマで別れた方が、自分もさゆりを諦める事が出来るし、静かに死ねると思った。
一緒に日本に帰り自分の正体をばらして、二人で過ごした夢が壊れてしまうのはどうしても避けたかった。
さゆりは歩きながら、又涙ぐんだ目を男に向けて言った。
「絶対、日本に帰ったら連絡してね。住所と電話番号のメモなくさないでね。私の方から連絡してもいいけど、卓也さんの家じゃ私の事知らないだろうし・・・。」
そう言うと、女は顔をくもらせた。
「ああ、明後日、試合があるから日本時間でいうと・・・そうだな、午後の2時には終わっているだろうから、必ず電話を入れるよ。」
「絶対よ・・・まだ私の休暇は残っているから、家から出ないようにするわ。本当に絶対よ・・・。」
女は男の腕を強くつかんだ。
男は優しく肩を抱き、小さく笑って女にささやいた。
「約束するよ・・・何なら試してみる?真実の口で・・・。」
さゆりは顔を上げると、複雑な表情をした。
ツアー二日目、高田に真実の口におもちゃの虫を入れられ、死ぬ程驚いたのだ。
周りの観光客には笑われるし、まったく恥ずかしかった。
もっとも、それがきっかけで徐々に卓也を愛するようになったのだが・・・。
二人が教会の中に入ると、古びた円形の石の像が壁にあった。
無表情に近い、その神様は目と鼻と口の窪みが異次元につながっているようで、本当に嘘をついて手を入れると引き込まれそうな気がする。
前回の時は手を入れなかった卓也は、やはりさゆりに対して大きな偽りを隠している事で少し躊躇していた。
だが無理に微笑むと、恐る恐る両手で穴を塞ぐようにして、右手を口の中に入れた。
一瞬の静寂が緊張を呼ぶ。
だが、何もおきなかった事にホッとして手を引っ込めた。
「ほら・・・ね、絶対電話するよ。次は、さゆりさんの番だよ。」
「えっ・・・私?私はもうこの間手を入れたもの・・・。い、いやよ、絶対・・・。」
さゆりは振り返り、歩こうとした。
男は素早く手をとり、女を引き戻した。
「そんな事言わないで・・・。確かめたいんだ、君の気持ちを。」
男の訴えるような表情に、仕方なく左手を差し入れた。
今日は観光客も少なく、像の前には二人だけしかいなかった。
高田に入れられた虫の感触が、まだ気持ち悪く残っている。
卓也への愛については、もちろん自信はあった。
だが・・・。
何か固い物がぶつかり、ビクッとしたが箱のような物を確かめると、そっと取り出した。
小さなジュエリーケースであった。
女は男の顔を見た。
男は何も言わずに微笑んでいる。
「開けて・・・ごらん・・・。」
女が恐る恐る開けると、大粒のダイヤをたたえた指輪が入っていた。
ティファニーで見た指輪であった。
「えっ・・・な、何・・・これ。ええっ?か、返したんじゃなかったの・・・。」
さゆりは身体をガクガク震わせながら聞いた。
膝の力が抜けて立っているのも、やっとだった。
男は女を支えるようにして、ゆっくり歩きだした。
女の震える指先にリングをはめて、ささやくように言った。
「愛しているよ、さゆりさん・・・。結婚してくれ・・・。いや・・・今でなくていいんだ。ただ、それぐらい・・・愛している・・・。」
ステンドグラスからキリスト像が、二人を見下ろしている。
瞳から涙が溢れていた。
「そ、そんな・・・ひ、卑怯よ・・・急に・・・バ、バカ・・・・・。
は、恥ずかしいじゃない・・・・。ほ、本当・・・・なの・・・?」
「さっき真実の口で試したろう?嘘じゃない・・・愛している。」
女は男の胸に顔を埋めた。
「うれしい・・・私も、私も・・・・愛しています・・・。」
二人のささやかな誓いを、マリア像も微笑みながら聞いているようだった。
教会を出ると、眩しい光が二人を迎えてくれた。
広場のベンチに腰掛けると、さゆりはハッと我に返るように言った。
「で、でも・・・やっぱりダメよ・・・。こ、こんな高い物・・・4億リラでしょ。」
「3億5000万リラさ・・・。5000万リラまけてくれたんだ、セールでね・・・。」
男がウインクして言った。
「そ、それでも3000万円近いわ・・・。そんなお金があったら何でもいっぱい買えるし、いくら何でも・・・・・。」
「でも、返せないんじゃないかなあ・・・イニシャルも入れちゃったし・・・。」
女は慎重に指輪をはずすと、指輪のリングの裏を見た。
『SAYURI・YOSHINAGA』と小さく美しい文字が入っている。
「それにイニシャルとオープンハートはサービスだって・・・得、したね・・・?」
言いながら、さゆりの薬指に優しくはめ直してあげた。
全身の力が抜けてしまったのか、肩に寄りかかりながら男に指を預けている。
(どうりで・・・お店のスタッフがあんなに愛想がよかったんだわ。)
興奮で胸がドキドキしている。
改めて男の横顔を見上げた。
透き通った眼差しが遠くを見ている。
女はふと不安をおぼえたが、左手の指輪の重みが直ぐに打ち消した。
残された時間はあと僅かだった。
しかし二人の旅は始まったばかりなのである。
教会でのおごそかな誓いが女の頭の中で響いている。
女は男の腕をしっかり抱いて、いつまでもこのまま座っていたかった。
鳩が二人を祝福するかのように飛び立ち、ゆっくり広場の周りを旋回している。
ローマの空は深い色をたたえて街を包み込んでいる。
鳩の一群が戻ってきて広場に降り立った。
明日、さゆりは日本に帰る。