第3話 - 第三章 テレフォン・クラブ
男は新人の東に報告書作成の指示をすると、フラフラと会社を出ていった。
頭の中は怒りと疲労で一杯であった。
もう、どうでも良かった。
このまま、会社をやめてしまおうかと思った。
オフィス街を抜け,歓楽街を歩いていくとハデなネオンサインのカンバンが目に入った。
「テレフォン・クラブ」であった。
虚ろな目で見上げていた男は思い切って入ってみる事にした。
初めての事だ。
男は、風俗関係は余り好きではなかった。
三十を過ぎて未経験という訳でもなかったが、結婚前にそういう所に出入りするのは、何か自分の中の大切な物が失われていくようで、虚しい気がするのだ。
「テレ・クラ」も同様に感じていた。
ただ、今はもうヤケになった気分で、うす暗い階段を昇っていった。
店内に入ると受付があり、身分証明書を出すように言われた。
社員証明書を出すと、自分の会社の名前が書き込まれていった。
シマッタと後悔したが後の祭りであった。
まあ、新聞ざたにならない限り大丈夫なのだろうが、いい気分はしなかった。
改めて、場違いな所へ来たと感じた。
店の主人なのか、それとも雇われているのか、自分とそう年が違わない若い男が説明してくれた。
「当店ではお客様に安全で公平なサービスを提供するために身分証明書を提示していただいております。尚、掛かってくる電話は一旦、こちらで受け取りまして順番におつなぎいたしますので、ヒヤカシなど無く又、早どり等の必要もございませんので、ごゆっくりおくつろぎ下さい。」
思ったよりも丁寧で優しい口調だった。
男は少し緊張を解いて、案内されたボックスに入った。
ユニットバスのような小さな部屋には電話とビデオ付テレビが置いてあった。
その隣のティッシュの箱が淫靡な想像をかき立てる。
ふと前を見ると、壁に色々な注意文が書いてあった。
そこには店外デートはするなとか、売春目的の約束はするなとか書いてあった。
そして楽しく会話するには明るい口調で話し、あまりエッチな言葉をつかったり、ガツガツした様子をみせてはいけない等とあった。
男はそれもそうだと思い、逆にいつもの自分を変えられておもしろいと感じた。
二、三分たっただろうか。
静寂が、ひどく長い時間に感じられた。
突然、呼びだし音が鳴り、電話のライトが点滅した。
男は胸をドキドキさせて受話器を取った。
「もしもし・・・。」
声が、かすれた。
「もしもし・・・。」
若い女の声であった。
男は壁の注意文を思い出すと、努めて明るい声を出した。
「わーかわいい声だね・・・。ラッキー。」
チョット恥ずかしかったが、密室に一人なので懸命に別人になろうとしていた。
「い、今、何してるの?あっ・・・変な意味じゃなくてさ・・・。」
「ボーッとしてる・・・。」
女は掛け慣れているのか、男とは対称的にケダルイ口調で話し出した。
「今朝起きたら、雨が降りそうでさ・・・。カッタルイから会社、休んじゃった。」
「ヘェー、いいなー・・・。」
男は心の底からそう思った。
自分等、毎日死にそうになって働いている。
「テレクラって初めてなんだ。よく・・・ 電話するの?。」
「うーん。たま・・・に、ね。」
女はだるそうに答えている。
男はとにかく話を盛り上げようと、必死に努力していた。
「エーッでもラッキーだったなー。初めての人がこんなカワイイ声の人で・・・。失礼ですが、お幾つですか。」
見合いしてるんじゃネーぞ、と自分に突っ込みながら、男はまるで今、仕事をしているような気分になってきていた。
「二十六・・・。そっちは?」
「二十・・・八、さ・・・。」
男は嘘をついた。
とても三十二才とは言えなかった。
「ふーん・・・何の仕事してるの?」
女は気の向くまま質問している。
まるで退屈な時間をうずめているように。
男が懸命になって話をつないでいると、突然プッツリと電話が切れた。
しばらく呆然と受話器を見つめていたが、力無く置くと、急に怒りが込み上げてきた。
「クソー。ただの暇潰しか・・・。バカヤロー。何がカッタルイから会社を休むだ・・・。ふざけやがって。あー、俺も俺だ・・・あんな卑屈な態度で・・・な、情けネー・・・。」
平日のせいか、それから電話は掛かってこなかった。
男はしばらくビデオのポルノを見ていたが、バカバカしくなってきた。
帰ろうと思った時、電話が鳴った。
どうしようか迷っていたが、結局、受話器を取ってしまった。
我ながら情けない性格だと思った。
「もしもし・・・。」
今度も冷やかしっぽい電話だったら、すぐ切って帰ろうと思った。
「もしもし・・・。」
さっきと違って緊張気味の声であった。
「あの・・わ、私・・・。は、初めて・・で・・。」
男は急に親しみを覚えると、優しい口調で言った。
「僕も、初めてなんです。今日、さっき一回話したんだけど、途中で切られちゃって・・・。」
男の場慣れしていない口調に安心したのか、女も途切れ途切れに話しだした。
「良かった・・・。私、主婦なんですけど、この頃・・・何かさびしくて・・・。あっ、変な意味じゃないんですよ。でも、誰かと話をしたくて・・・。ざ、雑誌を読んでたら、急に電話したくなって・・・。すぐ切ろうと思ったんです。でも・・・受付の人に色々質問されている内に・・・・。」
男は女に対して、何かホッとするものを感じていた。
「僕も・・・仕事でイヤな事があって、ついフラフラ寄って受付に立ったら、いつの間にか受話器を取ってて・・・。あっでも、少し期待してたかな、エッチな事・・・。」
女は吹き出して、クスクス笑っている。
男もつられるように笑いだした。
二人はすっかり打ち解けて、互いの悩みを話したり聞いたりしていた。
「不思議だな・・・。何かズーッと前に、貴方と話していた気がする。」
「私も・・・。あの、お幾つですか。」
女は恥ずかしそうに聞いた。
「三十二です。もう、オジサンだな。」
男は、今度は正直に答えた。
「私も・・・同じです。オバサンです。」
二人は又、楽しそうに笑った。
「良かったら・・・今から会いませんか。」
男は自分の言葉に驚いていた。
「エーでも私、実物ひどいですよー。」
心臓がドキドキ鳴りだしていた。
「無理にとは言いません。でも何だか、お会いしたくて・・・。S駅ビルのポケットパークをご存じですか。」
「ええ・・・。」
「そこに一時間後・・・来れますか?」
「はい・・・。」
女は恥ずかしそうに答えた。
「良かった・・・。僕はグレーのスーツに黄色のネクタイをしています。」
男の口調に気押されたのか、女は一瞬間を置いて言った。
「私は・・・モスグリーンの、ワンピースを着ていきます。」
「ありがとう・・・。じゃ、あとで・・。」
「さようなら・・・。」
受話器を置いた手が、汗で濡れていた。
男の胸に熱いものが込み上げていた。
男の大きなため息で、机の前に置いてあったティッシュが、小さく揺れた。