新・青い鳥


北川 聖2022/02/26 05:52
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新・青い鳥

新・青い鳥

 幼い頃から過疎の村で育ってきた北久保健一はいつも山の向こうに何があるのだろうかと憧れてきた。そして大人になったら向こうの世界で成功して新聞にも載るんだと思ってきた。彼の夢はそれにとどまらず教科書にも載るんだと思ってきた。

 彼はこの村で不幸だったわけではない。平均的な家庭で質素に育った。近くには宮沢由紀子という幼馴染がいていつも一緒に遊んでいた。小学校高学年になってお互いに意識し始めるまで無邪気に遊んでいた。中学校に入ると彼は野球部、彼女はテニス部に入部したので前ほど一緒にいるわけにはいかなくなった。彼女は暖かい性格でいつも向こうみずな健一を心配していた。

 二人は夕焼けを見ながら夢を語った。

 彼女の頬を紅が差したように夕焼けが染めた。

「僕の夢は途方もないものなんだ。由紀ちゃんにはわかってもらえると思う。僕はこの村に埋もれるような人間じゃない。何が何でも教科書に載るんだ」

 彼の夢はしかし漠然としたものだった。彼は自分に何ができるかわからなかった。ただ将来への自信だけは誰よりもあった。そんな健一を由紀子は心配していた。夢だけが空回りしていたように見えたからだ。

「由紀ちゃんはあの山の向こうに何があると思う?」

「人がいっぱいいて争うように競争していているそうよ。私は健ちゃんが苦しみ喘ぐ姿を見たくない。村の役場で普通に働いて普通にみんなに見送られるのが一番いい生き方に思えるわ」

「それじゃ、生まれてきた意味がないじゃないか。僕は村の誰とも違う、由紀ちゃんには分かってもらえると思っていたんだけど」

「もう何十年も山の向こうに行ってきた人はいないわ。その人はすっかり人が変わって家の中に閉じこもって孤独死をしたそうよ」

「僕は違う。成功して君を迎えに来る」

 中学校から高校にかけて夢のような日々はあっという間に過ぎて健一が村を離れる時が来た。由紀ちゃんがお弁当を作ってくれた。彼女は元気に送り出そうと思ってきたが、涙が止まらなかった。彼女はくれないの頰を恥ずかしがって彼を囲む輪から離れていた。

 やがて電車は動き出した。

「健ちゃーん、健ちゃーん、元気でね」という手を振る由紀ちゃんの大きな声がした。彼は窓ガラスに頬をくっつけてその必死な顔を瞼に焼き付けた。

 彼のいる田舎から都会まで5時間かかった。あの山の向こうは時間軸がずれている。時代に取り残されている建物もあれば高層ビルもあった。初めて見た感想は汚れているだった。こういうところに住んでいる人はどんな人だろう。彼は都庁に行きエレベーターで一番上に行き窓から都会を見つめた。彼には全てが狭いところにぎゅうぎゅう詰めにされているように見えた。ここで果たして暮らしていけるかどうか自信が消えていく。彼は家出同然に飛び出してきたのでお金もほとんどないし、今日で住み込みで働けるところを探さなければいけなかった。とりあえず漫画喫茶に入った。そこも異様に狭い場所だった。そこで求人広告を見た。そこで自分は何をやりたいのかと改めて思った。高卒の彼がやれる仕事は限られていた。社会のトップで働くには学歴が必要なんだと改めて思わざるを得なかった。

 彼は働きながら大学に入るしか道がないのにやっと気づいた。まずお金が必要なので今すぐに働ける仕事を選んだ。居酒屋の店員である。住み込みで働き、お金が貯まったら出ていくことに決めた。ところが住み込みで働けるところが非常に少ないことに気づいた。数件見つかったが電話対応で断られてしまった。非常な訛りと敬語を全く使えない話し方は低評価を受け他の多くの求職者と張り合うことができなかった。それから何日も漫画喫茶で慣れない機材と格闘しながら一軒の割烹店が面接に応じてくれることになった。これは最後の希望だった。だが気さくな主人と彼は気が合い、採用されることになった。だがこれは東京で生活する第一歩に過ぎなかった。先輩のいじめや平手打ちは常套手段だった。先輩の言葉に全て直立不動で「はい!」と応えなければならなかった。彼は異常にいじめられた。その訛りと目上の人に対する態度が気に入られなかった。仕事場の雰囲気はとても悪かった。彼はいつまでもここにいても何者にもなれないと思った。ちょうど一年が経ち予定通りにすることにした。社会を動かす人間になりたかった彼には自分の居場所じゃないと思った。

 ある日ご主人に大学へ行きたいと言った。主人は難しい顔をして「辞めるんだな」と言った。「はい」と言うと「じゃ明日荷物まとめて出て行きなさい」と言った。突然のことに驚いていると主人は話を打ち切って部屋から出て行った。

 彼は翌日一年勤めた割烹店を出て行った。そして大学を受けるために部屋を決め予備校を探した。

 彼はこの頃までに例え大学に入れても自分は大した人間にはなれないという現実を痛感していた。由紀ちゃんとの約束は果たせようもない自分を実感していた。あの山の向こうには自分より優れた人間が掃いて捨てるほどいることに気づいてしまった。

 毎日予備校に通いながら彼の心の落ち込みは大きくなった。由紀ちゃん、僕はとんでもない世間知らずだったんだ、新聞に載るだの教科書に載るだのは夢物語もいいところだと悟ってしまった。

 彼は受験をし中程度の大学に入った。この頃には由紀ちゃんを思い出すことは殆どなくなり黙々と授業に出た。彼が入ったのは経済学部だったが、彼は世の中のお金の仕組みも流れも全然知らなかった。こういうことに全く疎い人がいる。それがまさに彼だった。彼はやがて起きられなくなり大学から足が遠のいてしまった。彼はお金がなくなったのでアルバイトで凌ぐ生活になった。

 アパートの窓から由紀ちゃんのいる村の方向を見ていた。帰ろうかな、と思うことも多くなった。でも帰れない、彼は何もしていなかった。彼は自分が凡庸以下の人間だと認めないわけにはいかなくなった。あの山の向こうには絶望があったんだよ、由紀ちゃん。彼はそんな生活を実に八年もしてしまった。もう二十六歳になっていた。もうだめだ、僕は何もかも失ったんだ。初めから途方もない夢しか持っていなかったんだ。

 だけどもう少し頑張ろうと思った。大学に入り直そう。そこからしか夢は広がっていかないんだ。学部は慎重に選ぼうと思った。世の中で活躍するには法学部がいいと思った。だがそれも自分には向いていると思えなかった。そして哲学科が残った。実存主義に興味があった。彼はカミュやサルトルを勉強しようと思った。絶望からの反抗が生きる指針を与えてくれた。大学に入り直すのは大変だった。だけど自分を大きくしてくれる意味で猛勉強して入った。

 しかし授業が著しく難しいと思った。アルベール・カミュが27歳の時に書いた「シーシュポスの神話」が哲学本ではない試論であるにもかかわらず殆ど理解できなかった。いったい俺は何をしてきたのだろう。彼が30歳になっても書けないし40、50歳になっても書けない世界が広がっていた。殆どの哲学書を理解できなかった。サルトルの「存在と無」などは全く分からず、「ありてあらぬもの」などというフレーズは言葉遊びをしているようにしか思えなかった。

 でももう挫折するわけにはいかない。彼はそれぞれの哲学者の言っていることを暗記した。理解するのは困難だった。レポートも自分の考えは皆無だった。それでも4年間通いやっと卒業した。

 由紀ちゃんからの手紙を折に触れ受け取った。だけどだんだん苦しくなり封を開けないことが多くなった。「由紀ちゃん、僕は何にもなれない、ただの凡庸な人間なんだ」、ということを知られることが何よりもつらかった。

 彼は卒業してある出版社に入った。彼はひたすら原稿を印字しまくる電算写植という仕事についた。原稿は癖のある字が多く、読み取るのに苦労した。初稿、再校、三校、色校、念校まであるのだが、初稿の時の赤字の量が半端なく多かった。下請け会社だったので時間がとにかくなく毎日9時に帰れればいい方だった。会社を出て1時間かけて最寄りの駅に行き、バスで20分もかかった。毎日が苦しく憂鬱でならなかった。念校の段階になると会社に泊まりがけになる。硬い机の上で横になって眠った。疲れ切っていたのですぐに眠れた。彼は仕事以外で同僚と付き合わなかった。当時は上司の誘いには必ず応じるのが普通だった。だから付き合いの悪いやつと見られていた。当時は社内旅行もあったが、これにも行かなかった。

 彼は毎日疲れて帰りこうして歳を取るんだなと思った。仕事、電車、バス、寝る、起きる、の繰り返しを永遠にやるのかと思った。この頃には自分は無名に終わるだろうと確信していた。人間にはそれぞれ運命がある。人間を動かして行くのはまさにそれで最初から決まっているものだと思うようになった。故郷の夢に満ちた彼はどこかへ行ってしまった。思い出すことも無くなった。自分は癌を治す特効薬を作ることもできない。政党を作り人々を導いていくこともできない。福祉の会社を作って困っている人を助けることもできない。もう僕の一生は決まったんだ、このまま惨めに終わる以外ないんだ。もう夢を叶えることは無理だという現実に気付かざるを得なかった。

 彼の夢はあまりにも漠然としすぎていて、もしも叶えることがあるのだとしたら小学校くらいからその道を歩む必要があった。癌の薬を作るのならその方面の学校へ行かなければ無理だろう。政党を作るなら確固とした政治理念を持っていなければならない。福祉の会社を作るならその勉強をしなければならなかった。彼は壮大な夢を持っていたが実は何も持っていなかったと同じだった。自分が単なる空虚な夢想家に過ぎなかったことに落胆した。

青い鳥 2

 会社での激務の末、またしても起きられなくなり無断欠席を続けるようになった。今度は重い鬱病と診断された。先生に入院を勧められた。彼は精神科に偏見を持っていた。社会の底辺の人、使い物にならない人の吹き溜まりだと思っていた。そこに自分が入る。そんなことはあり得ないと思った。

 自分が一角のものになれなかったことが心を傷つけた。毎日何をしても楽しくなく絶望すらなかった。彼は廃人のように暮らした。彼はこのままではダメになると思った。そしてようやく入院を決断した。そこは彼が思っていた以上の異常な人が集まる場所だった。一人がなんかで急に暴れると看護師たちが押さえつけバンドでベッドに固定した。その人は何日間、何週間、独居房で過ごすのだ。彼は六人部屋に押し込まれていた。そこには10年暮らしている猛者もいた。彼は大量の薬でおとなしくさせられていた。とにかく、一つの部屋に鬱病も躁病も統合失調症も構わず混在させられた。彼はますます具合が悪くなり一日中ベッドで寝ているようになった。ある日和式の便器から立ち上がれなくなっている自分に気づいた。筋肉が落ちただけではない、精神的な失調が原因だった。

 患者は薬を飲みたくないのでいろいろ工作する。だから看護師が横に立って薬をちゃんと飲んでいるか確認するのが恒例だった。ごくんと喉仏が動くのを確認してから口を開けて看護師に見せるのだ。だが古くからの者は薬を舌の下に隠し飲んだふりをするのだった。彼も精神科の薬に非常な抵抗感があった。精神が壊されるのではないかと思った。彼はここにいたらますます悪くなると思い、退院を願い出た。強制入院でない人は退院しようと思えばできるのである。

 退院しアパートへ戻った。病気が治ったわけではないので、部屋に入ると倒れ込んだ。彼の経歴に精神病院帰りが加わった。彼は極端に口数が少なくなった。だがこのまま無職のまま生かしてくれるほど社会は甘くなかった。もうわずかのお金しか無くなった。どうしても働かないわけにはいかなかったのだ。精神障害2級であれば月6万円ほどもらえる。だがその壁は厚く3級であるとみなされた。お金がなくなるという恐怖は恐ろしいものだった。彼は人と関わる仕事はできないと思った。だから新聞配達の求人を見て応募した。履歴書は本当のことを書くと絶対に受からないと思ったので嘘を書いた。とにかく必死だった。早朝にはすでに新聞を配り終えていなければならない。彼は先輩の後をついてコースを頭に叩き込んだ。先輩たちはそれぞれ他人に余計な関心を持たなかった。彼はそれが嬉しかった。ところがある日いつものように新聞を配っていたら十字路で横から来たバイクに跳ね飛ばされた。同業者のバイクであった。両方の不注意が重なった出合いがしらの事故であった。彼は足を複雑骨折し腰骨を折り全治2ヶ月の治療が必要だった。頭も打ち一週間意識がなかった。手術は成功したがもうまともに歩くことはできなくなった。彼がたまに街で見かける障害者になったのだ。今度は労災がおり保険にも入っていたためお金の心配はなかった。彼の足は変形し両足が正面を向くことは無くなった。腰が歪み正常な姿勢を保つことができなくなった。彼が外へ出るのは買い物以外に無くなった。杖をついて歩くその姿は異様に目立った。車椅子の話もあったが、歩ける以上それにこだわった。彼は戦後すぐの生まれだったが、片足のない傷病兵が家の前に来てお金を恵んでもらっていたことを思い出さないわけにはいかなくなった。彼は国に養ってもらっているんだ、自分の不注意が原因で。その負い目が彼の心を塞いだ。彼は天井を見ながらもう終わったなと思わざるを得なかった。しかし彼は車椅子を借り座ってできる仕事を探した。以前の経験から入力・校正ができたのでそこが彼の居場所になった。

 障害者には人は優しい態度を示す。それは自分と対等ではないからだ。自分より下の傷ついた人をいじめる人はそういなかった。

 彼はパソコンをよく使っていてTwitterというものがあることを知っていた。しかし自分とは縁のないものだと思っていた。でもふと覗く機会があった。そしてそこには自由に詩が書かれていた。

彼は詩なんて女の子のするものだと村では思っていた。しかしこの傷つき過ぎた心はそれを求めた。そして自分でも書けるんじゃないかと思った。

 彼は書いて書いて練習した、Twitter上の詩は別に上手い下手もない、ただ無名の人の心がこもっていればいいのだ。いや、基本的にはどんな詩でもいいのだ。しかし彼はこれまでの生き様から詩を紡ぎ出した。

*     

花咲く乙女たちよ

あなたの命は今夜まで

勇猛な青年よ

あなたの命は今夜まで

今夜は宇宙の滅びる日

生あるものみんな滅びる日

生まれたばかりの赤子も

死に損ないの爺さんも

だって永遠なんてないんだもの

宇宙だってそれは滅びるさ

それは一瞬に透明になって

何も無くなること

原爆の影すらなく

     *

 彼は初心者にしてはまあまあじゃないかと思った。詩は意外にも弾けるように彼の心から生まれた。

     *

憂鬱の波間に私は揺られていく

死にたい思いに胸を焦がす

私が私であることがつらく

あなたがあなたであることがつらい

私の愛は永遠に届かない

せめて私の頬に

その熱い息を吹きかけて

     *

みんな生きている

空も澄み切っている

風が気持ちいい

なのに僕だけがいなくなるんだ

全てずっと続くと思っていたけど

僕だけがいなくなるんだ

君も彼も生きていくんだね

命もずっと続いていくんだ

太陽はこんなに暖かい

何もなくならない

でも僕だけいなくなるんだ

スーッと消えるんだね

     *

 キリがないと思った。自分の心にこういう繊細なものがあるとは思わなかった。詩はもっともっとできた。由紀ちゃんに見せたら驚くかもしれない。

 しかし体が通勤に耐えられなくなっていた。通勤には1時間かかった。とにかく身体中が痛いのだ。歪んだ姿勢をしているうちに体の方が悲鳴を上げた。一週間に3日通っていたのが2回になり、やがて1回になり、とうとう辞めることになった。彼の会社ではリモートワークを採用していなかった。

 彼は天井を見ながら一日中呆然と寝て過ごすようになった。もう何もできない。福祉の人にお弁当を届けてもらっていた。

 でも詩の世界は自由だった。毎日毎日詩だけは生まれた。どこからか一文が降ってくる。その言葉が他の言葉を惹きつけ5分以内にできるのもあった。最初は規定の140文字だったが長い詩も生まれるようになった。

 だがそれらは慰めにしかならず彼の心を苦しめる結果にもなった。

 ほとんど動かないので部屋の中を移動するのも力業だった。外を歩く時は10歩歩いて10分休んだ。だから電動車椅子に完全に頼るようになった。軽快に校庭を走りクラスの中でふざけていた頃を思い出し、情けない気持ちになった、ほんの一瞬の気の緩みがその後の一生を決めてしまうことを知った。あの時にほんの僅かな注意力があれば人生は変わっていた。人生は絶え間ない分岐点の連続だと思うようになった。もう無邪気で天真爛漫で自信に満ちていた頃の彼は消えていた。もう世の中を動かしてやると豪語していた血気盛んな彼は消えていた。

 この頃になると自殺を考えるようになった。もう厄介者でしかない自分を消したいと考えるようになった。もう夢は無理だと分かった時点で死んでもよかった。ダラダラ生きていた頃の自分を抹殺したかった。あの頃頑張っていれば人生は変わっていた。経済分野が自分は大っ嫌いだと分かっていたのになぜ受けた。嫌いなものは仕方ないが退学することはないだろう。耐えなければならない時期が人間にはあるのだ。四年で卒業できなくても粘ることはできた。それを嫌になって起きることもせずゴロゴロしていた自分を殴りつけてやりたかった。自分はただの夢想家だった。それも病的なほどの。誰でも小さい頃の夢は叶わない。プロ野球の選手、プロサッカーの選手は男の子の憧れの職業だ。だがやがて現実を知る、夢物語だったなぁと子供の自分に訣別する。彼のようなただ偉大な人になってやろうという子供はいなかったろう。ノーベル賞を取ってやろうという子供はいたかもしれない。だがその子は自分の得意分野で、例えば科学で、あるいはもっと細かく湯川秀樹先生のようになりたいという明確な目標があった。彼のような幼稚な自己顕示欲ばかり強い子供はいなかった。彼はこうした途方もない夢を育んでくれた故郷に帰りたかった。その頃の自分に帰りたかった。彼はまだ甘えていた。戻れるはずもない絵空事を空想していた。彼はどうしても現実を直視できない種類の人間だった。最初から現実とギアが噛み合っていない子供だった。彼はある時雑誌で「データ入力の仕事が家でできる」と謳った広告を見つけた。早速応募し「頑張ってくださいね」という可愛らしい声を頼りに送られてきた仕事をこなした。最初は基礎編で数人の会話を入力するものだった。それが進んで8人くらいの人が同時に早口で話すデータが送られてきた。彼が懸命に入力した原稿を本部は「これでは売り物にならない」と言ってきた。そしてそれからは連絡が途絶えた。彼は受講料を払い込んでいた。もしかしたら詐欺かもしれないと気づいて消費者相談センターへ電話した。すると彼が取引していたと思っていた会社は実体がなく、最近CMで有名になって荒稼ぎをしていた詐欺集団だった。すでに逮捕されていた。もう万策尽きたと思った彼は何事も信用しない人間になっていった。それでも何かしないわけにはいかない。彼は世間的には若いとは言えないが、まだ中年に差し掛かったところだった。毎日車椅子で近くのハローワークへ通った。求人の応募は全くの0だった。それでも数ヶ月通っているうちに職員に自分たちと仕事をしないかと言われた。みんなに助けて貰えばできないことはない仕事だった。ただし、一年契約で先の保証はなかった。だが今ではこれが普通になっている。仕事の現場は激変したのだ。少数の正社員を大勢の派遣社員・契約社員が補佐する形になっていた。それでも彼は契約が更新されることもあると聞いて夢中になって仕事を覚えた。来所者に仕事を紹介しながら自分の首はいつ飛ぶか分からなかった。他の社員の協力を得て彼は順調に仕事を捌いていた。そのうち一年目の更新の日が来た。担当者は淡々と契約打ち切りの紙を渡した。「お疲れ様」の一つもなかった。それは他の社員も同じだった。自分たちもいつ切られるか分からないので無言で彼を追いやった。彼はまたしても失業した。彼を採用する会社は無くなった。彼が部屋でぼんやりしていると彼の希望していた電算写植の仕事があるとハローワークから電話があった。経験している機械の名前を聞かれたのでふたむかし前の機械の名前を言った。向こうで沈黙があった。それは実に長い沈黙に思えた。

「じゃ、とにかく機械の操作はいずれ覚えるでしょうから校正から始めてくれますか」

 電動車椅子でその会社に行った。疑っていた社員は彼の校正能力の高さに驚いた。

 会社にもいろいろあるが、赤字をチェックしていい会社とチェックしてはいけない会社がある。彼はチェックできない環境で育った。だから今のチェックできる仕事は比較的楽だったのだ。数ヶ月後、機械について少しずつ教えてもらうようになった。要領がいいとは言えないが正確な校正能力は次第に信頼を得ていった。だが業界を不況が覆い彼の会社でも給料の高いベテラン社員からリストラが始まった。彼も例外ではなかった。小規模の会社だから不況の影響をもろに受けた。彼はアパートの大家さんに勧められていた生活保護をどうしても受けなければならない羽目になった。社会の敗残者、厄介者、不正受給と悪いイメージしかなかった生活保護をとうとう自分が受けざるを得なくなった。

 担当者は彼の様子を見て「へー電動車椅子、どこへでもいけるんだな、俺が乗りたいよ」と言った。彼の頭に血が上った。だが表面上は冷静を装った。「両手が動くんじゃないの、なんか仕事あるだろうよ、いろいろ探してみて」と言って話を打ち切った。

 頭に上っていた血はスーッと下へ落ち込み顔が今度は青ざめた。

「そのくらいで生活保護を受けようなんて甘い考えだね。そんなものは捨てるべきだね、今はみんな働いているよ」

「どこもなかったから来たんです」

「君のは生活保護の要件を満たしていないね、上半身は大丈夫じゃないか。全部探したの? 写植の技術を生かせる職場はあるはずだ。今度来るときは上半身も動かなくなってからね」

 彼はカーッとなったが、対等に喧嘩もできない。それに担当者の言うことももっともだ。俺は全部探したか?

 部屋に帰って少しでも可能性のあるところへ電話をしまくった。70社目に脈のありそうな会社が見つかった。彼はバスで向かった。今度の担当者は中高年の人で

「大変ですなぁ。生活保護を申請しましたか。全く相手にされない? 彼らは自分のところから生活保護者を出すのを嫌がりますからね。断るのが仕事のようなもんですよ」

「週に3日通えるのであれば採用してもいいですよ」

 彼はこの言葉を待っていた。嬉しさで飛び上がりそうになった。彼は地獄に仏などという古めかしい言葉が頭に浮かんだ。使っている機械は彼の経験しているものもあり早速テスト採用された。彼はまごつきながらもその日与えられた仕事を着実にこなした。テスト期間が終える頃には機械が与えられていた。彼はそれから徐々に同僚の信用を得ていった。ある日背後に人の影を感じた。社長だった。後ろからじっと彼の仕事ぶりを見ていて言った。

「頑張るんだよ、契約社員でもずっと延長できている人もいるんだ。諦めなければ道は開ける」

 彼は一生懸命に働いた。そして次の年の更新を得ることができた。

 ずいぶん東京へ来てからいろいろなことがあった。最初の頃の夢は早々と吹っ飛んでしまった。だけどそんなものかもしれないと彼は思った。山あり谷あり、自分の場合は谷しかなかったけど、それぞれに運命がある。運命は作るものというのは嘘さ。最初から決まっていたのさ。それを僕は何にも知らずに夢見っ放しだった。誰でも成長すれば気づくのに自分は気づかなかった。相当なバカだ。僕みたいのを非現実的な夢想家というのだ。それぞれに運命があると考えると、彼は今までの愚かさ、不運、絶望が愛しく思えてきた。

 それぞれ運命があると考えると気持ちが楽になった。

 彼はその日泣き明かした。

 気持ちは楽になったが体の方が悲鳴を上げていた。出勤日を減らしてもらおうと社長に言った。社長は

「君はその体で働きすぎだ。少し休みを取らないか。もちろん出勤日も減らすことを考えよう」と言った

「申し訳ありません、身体中が痛くて会社に来た時にはもう疲れ切っているのです。お気遣いありがとうございます」

 次の日体調に異変を感じ高熱が出た。頭が燃えるように熱くなって悪寒がした。それは何日も続いた。過労だった。東京で疲れ切り生き切った彼はもういいんじゃないかと思い出した。もういい、自分は自分らしく生きたのだ。

 深夜、月明かりで、机の引き出しから色が褪せた由紀ちゃんの手紙が見えた。暫くぶりに彼女の文章を読むと、朦朧とした意識の中で、もう帰っていいと思った。そしてある夜、由紀ちゃんに手紙を書いた。由紀ちゃんとは最初のうちだけ手紙を交わしたがいつしか途絶えていた。

「由紀ちゃん、もうさん付けじゃなくちゃおかしいね。僕を許してくれるだろうか、自分の未来の姿に目が眩んで故郷を捨てたこの僕を。僕は何にもなれなかった。東京へ夢を失いに行ったようなもんなんだよ。もう僕は疲れ果てた。僕は君に会いたい。君は今どうしているのだろうか。あんまり勝手だけど今度の日曜日の午後5時ごろ帰るよ。駅も変わってしまっただろうか。僕はもうこれ以上書けない」

 便箋に涙が滲んだ。

 あんなに憧れていたあの山の向こうから生まれた故郷に帰る。電車はゴトゴトみどり深い農村を走って行った。懐かしい風景が広がってきた。彼の胸は高まり破裂しそうだった。やがて電車は小さなホームへ停まった。人が乗り降りする。彼は由紀ちゃんを探したが見当たらなかった。やっぱり無理なんじゃないかと。その混雑の中から「健ちゃーん」という声が聞こえた気がした。そうしたら由紀ちゃんが人をかき分けて風のように抱きついてきた。君は夕陽に照らされた紅潮した頰のまま変わっていなかったんだね。

僕の疲れた顔に頬を寄せてくれたね

 時が止まったかのようだった

 君が僕の青い鳥だったんだね

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