第42話 - 彼の内側によぎるのは
フィノに先導され案内されたのは、島のさらに奥。シェリックたちが初めにたどりついた海岸とはまた別の方向だった。
そちらにも海があったのかと考えて、一度かぶりを振る。何と変なことを考えているのだろう。当然だ。ここは島で、周りが海に囲まれているのだから。
歩いていくとやがて見えてきたものがある。船着き場だ。突如として消えてしまったあの村とはまた違う。人の手がわずかなりとも入った、自然そのものではない場所。誰かがこさえたものであろう桟橋があり、端には一隻の船が停泊していた。ルパで乗った船よりかは小型の、それでも人の手でこぐ舟よりは大きなものだ。
「この船は?」
「私が乗ってきたものです。こちらへどうぞ」
桟橋を過ぎた向こうには一軒の小屋があった。船を眺めながらそこを通りすぎ、扉を開けて待つフィノの横をすり抜ける。
小屋の中はさほど広くない。けれどもどこか開放感があるのは、窓から入る陽のせいか。
「こちらです」
奥の部屋へと続く扉を開け放ち、促されたフィノに従って部屋へと入る。隅に置かれた寝台がひとつと、ひとそろいの寝具。どうやらここは寝室のようだ。
「隠れ家みたいだな」
忘れ去られた孤島にある小屋。それだけを認識すると、俗世から離れたくなった時に訪れたくなりそうだ。
「似たようなものです」
苦笑したフィノが言う。
「どうぞ、そちらの寝台をお使いください」
「ああ、助かる」
横抱きにしていたラスターを寝台に下ろし、折りたたんだ手巾で額の汗を拭いてやった。何か聞こえたような気がして一度手を休める。今のところ彼女の呼吸が楽になる気配はなく、休めていた手を再び動かした。
医師――あるいは薬師。単語が浮かんでは来るものの、それに該当するのは目の前で苦しんでいる彼女しか思い当たらない。自分に医術の心得などはない。民間療法ならば多少はわかるものの、それだって気休めにすぎないだろう。
「気が緩んで、今までの疲れが一気に来たんだろうな」
「追い詰めたのは私ですし……返す言葉もありません」
「それを言うなら俺もだ。気づいていながら、ここまで悪化させた」
休ませたところで大人しく休んでくれる彼女ではない。それは重々承知していたのに。
今思えば、船に乗って、リディオルの話を聞いた頃から、ラスターはずっと張りつめたままだったはずだ。一人で悩んで、背負って、思いつめて。自身の体調にすら気づかないほどに。
「しかしまずいですね、このままだと……」
ちらりと外したシェリックの目にラスターの荷物が映る。船に置いてきたはずの彼女の荷物が、一体どうしてここにあるのか。疑問を抱きたいところではあるが、恐らくどうにかしてフィノが持ってきたのだろう。
けれど素人のシェリックが中身を見ても、薬の種類なんてわかりはしない。ならば下手に触らない方がいい。リディオルの一件がよぎって――ラスターの容態をさらに悪化させてしまうかもしれない事態になってしまったら、手に負えなくなるからだ。
寝台の脇に置いてあった椅子をつかみ、腰を下ろしたシェリックの耳に、何かがぶつかるような固い音が聞こえた。何だろうかと考えをめぐらせて、思い当たった指先がそれをつかんだ。
「シェリック殿、それは?」
「栄養剤だ。薬ではないが、似たようなもんだろ」
――じゃーん、ボク特製の栄養剤だよ!
最初にもらった時、ラスターはそんなことを言っていた。
受け取ってから長らくしまい込んでいて、外套の隠しに入れていたのをすっかり忘れていた。着替えたときにそれを思い出して、こちらの下衣に移していたのだったか。しかし、よく海の中で落ちなかったものだ。
――っはは! これ、今は俺よりおまえに必要じゃねぇか?
ついでにいつかの旧友の言葉も思い起こしてしまい、いら立たしくなる。この感情は完全に八つ当たりだと、わかってはいたけれど。
「そうですね……確かに、何もしないよりは試してみる価値がありますね」
フィノのひと言で引き戻され、シェリックは気持ちを改めた。
「ああ。頼む」
「はい」
瓶のふたを開けてフィノに手渡す。
渡されたあの時はわからなかった。疑いすらもしていた。けれど今なら知っている。その効果が確かだということを。誰よりシェリック自身が身を以て体験したのだから。
「ラスター殿、起きられますか?」
「――う」
――何か、変なものが入ってるかもしれないじゃん。
フィノが揺すり起こそうとするも、ラスターは一向に目を覚ます気配がない。苦悶の表情を浮かべながら、荒い息を繰り返していた。
――嫌だなあ。
幻聴が聞こえてくる。ラスターから立て続けに弱気な言葉を聞いたのは初めてだったかもしれない。だからなおさら耳に残っている。
あのとき、届かないものを欲するような顔が見え、泣きながらそれでも笑っていて。言葉にならない声で行かないでと、そう言われたのだ。伸ばされた右手がシェリックの服を握りしめて、意識を失っても、ラスターは頑としてそれを離さなかった。
先ほど寝台に寝かせる際、シェリックは服をつかんでいたラスターの、指の一本一本を引きはがしたのだ。そうでもしないと、とてもではないが離せなかった。
つかむものを失くした指が何かを探して、何も見つけられずに力なく落ちて。
気のせいかもしれない。見間違いで、都合のいい解釈かもしれない。けれどその時シェリックは見たのだ。彼女が呼ぶのを。微かに唇が動いて、自分の名を形作ったのを。
――シェリック。
空耳がして。
「――フィノ、貸せ」
彼が持っていた瓶を奪い取り、ほんの少しだけ口に含んだ。
「シェリック殿、何を、して……」
狼狽するフィノの声を無視して、朦朧《もうろう》としているラスターの顎に手を添える。寝台に突いた手を支えにし、それを飲ませてやった。
「――ん、う……」
息が熱い。まだ熱が下がっていないから余計にそう感じるだけか。
そうして繰り返すこと三回。近づけていた顔を離し、汗ばんでいた首と口元を手巾で拭いてやる。空になった瓶を手にふと視線を感じて振り向くと、顔を赤くしたフィノが唖然《あぜん》とこちらを見ていた。
「何だ?」
「――だ、大胆なことをしますね」
「仕方ないだろ。こいつが自力で薬を飲めるなら普通に飲ませる」
「それは、そうですが……」
「今ここには医者も薬師もいないんだ、なりふり構っていられるか」
目の前にいるラスターには頼れない。それがわかっているからこそ、何とかしなければならないのだ。フィノが、ふ、と笑う。
「あなたらしい」
「俺にできることをしたまでだ」
間違ったことはしていない。しかし今一度己のしたことを顧みて、他に手だてはなかっただろうかと自問して。――急に気恥ずかしさを覚え、フィノから視線を外した。
「変わりませんね、あなたは」
「……何がだ」
「無関心でいるようで、実のところ一番に気にかけていらっしゃる。そういうところです」
「不相応な言葉だな。別に、ただ俺がたまたま傍にいたから気にしてるだけだ。連れが体調を崩してそのままにしていたら、良心がとがめる」
「それだけではないでしょう」
「お前が俺の何を知ってると言うんだ?」
いやに断言するフィノに煩わしさを覚える。恐らくは旧友から色々聞いているのだろうと予想してはいるけれど、それにしたっていやに力説してくる。
「……ただの連れなら、あなたがあんなに血相を変えてやってくるわけがないということです」
「連れが自殺行為をも覚悟して逃げようとしていたら、それは全力で止めるだろ。それで死なれたら寝覚めが悪い」
「あなたにとってラスター殿は、ただの連れだけではないのでしょう?」
真剣みを帯びた彼の瞳が、逃げることは許さないと言外に告げる。ひたと見据えられた両の目には、物柔らかな様子は消えていた。
「いつかはこうなる可能性もあると、考えていたのではないですか? あなたはまだ、次に繋いでいない。だとしたら、アルティナから追われることになっていても、何も不思議ではないのですから」
「そうだな……考えては、いた」
三年前、ラスターに連れ出されてから、そのことが頭によぎったのは一度や二度ではない。ただ、やってきたのが予想外の旧友だったことと、自分が思っていたよりも連れ戻される時期が遅かっただけで。
「それならばあなたは、何のために彼女を連れているんです?」
「あいつの母親を探すためだ。別に俺が連れているわけじゃない。俺があいつについてきていただけだ」
「それは、なぜ?」
「受けた恩を返しているだけだ。それ以外に理由はない。それとも何か、それだけの理由じゃ不満か?」
「いえ、そういうわけでは……」
フィノは口をつぐむ。迷ったその様子を見て、ここぞとばかりに言い放った。
「なら、この話はここで終わりだ。少なくとも今、病人の枕元でする話じゃない」
「それもそうですね。一旦休戦しておきましょう」
「再戦もごめんだな」
「そうおっしゃらずに」
「勘弁しろ」
「――ふふ」
だからそんな、何かを懐かしむような、労りに満ちた瞳で見ないでほしい。
「早く、回復すればいいのですが」
「ああ」
見下ろした顔はまだ青白い。
――似ていると思ったのだ。ラスターと、彼女が。
記憶の中の彼女と合致しないのは、二人が別の人間だからだ。まるきり同じ人なんてどこにもいやしない。自分は錯覚しているだけだ。薄暗い牢屋の外、初めて見た笑顔がまぶしくて、太陽のように明るかったから、彼女を思い出しただけだ。
そう思っていても、ラスターの旅につき合うことを、ラスターの連れでいることをやめられなかった。やめるつもりなんてなくて、あわよくば、彼女に再び会えたらなんて思ってしまったのだ。
だからこれは、利己主義で、自分本位な考え方でしかない。彼女の傍にいてあげたかったという自分の贖罪で、ラスターはそれにつき合わせているだけだ。懐かしい彼女に似ていると言う、それだけの理由で。シェリックの自分勝手で消極的な、どうしようもない後ろ向きの思考回路のせいなのだ。
――情けないね。あなたがそんなだから、またそうやってうつむくんでしょう? 前を向きなさい。そうすれば、あなたの見えなかったことがいくつも見えてくるんだから。
記憶の中の彼女が言う。
元気が取り柄のラスターだ。すぐに回復する。長くふせっている姿はラスターには合わない。きっとまたその辺を駆け回るのだろう。そうだ、すぐに決まっている。これほど長く弱っている姿など初めてで、あの時の彼女のように、このまま二度と目が覚めないなんてこと――
「――ラスター」
一縷の望みをかけて呼ぶも、やはり応えは返ってこなかった。