第43話 - 折り重なるのは言の葉と
真っ暗だ。いつの間に夜になっていたのだろう。
向こう側にぼんやりと、青く灯る光がある。ほのかに明滅していて、今にも消えそうな光だ。
不意に衝動に駆られる。あれを取らなければならない。取らないと、なくなってしまう。なくなる前に、早く取らなければ。
走り寄ってつかんだはずの光は、しかし触れる直前で消えてしまった。
どこに行ってしまったのだろう。確かにそこにあったはずなのに。
開いた手の中には何もない。当然だ、消えてしまったのだから。では一体、どこへ。
「もうどこにもないわ」
懐かしい声が教えてくれる。残酷なまでの現状を。
「あなたのせいよ。あの光を消したのはあなただわ」
――どうして。何もしていないのに。
暗いのに、彼女の姿だけはよく見えて。その姿が別の人間に変わっていく。
「これは毒でしょう?」
掲げられたのは褐色の瓶。
――毒じゃない。こしらえたのは、ちゃんとした薬だ。
「証拠はあるのかしら? ないのでしたら、これはもう必要のないものですわね?」
彼女の指の先、つまみ上げられたその瓶が傾けられる。
――やめて、それは、毒なんかじゃない!
伸ばした手が届く前に、瓶も、彼女の姿も、失せてしまった。右にも左にも、その気配は見当たらない。初めから、何もなかったかのように。
「嬢ちゃんは逃げ出したんだ」
後ろからやってきた声に、心臓が跳ねた。逃げ出した?
何から――誰から?
「そうだろう? 目を背けて、何もしないで、自分の村から逃げたんだよな」
――違う、逃げてなんかいない!
叫んでいるのに声が出なかった。これでは伝えられない。開いた口からは微かな音すらも鳴らなくて、口が伝える術を忘れてしまったかのよう。なおも叫ぼうとした自分の耳に、別の声が入ってくる。
「占星術師、シェリック=エトワール」
彼と入れ替わりに、その女性はやってきて言ったのだ。
「あの人は、禁忌を犯した人なんです。どうしてそんな人を、牢から連れ出したんです?」
見たことのない無表情で、淡々と語られる。
――お母さんの手がかりがほしかった。それ以外に、理由なんてないよ。
「罪のある人を手引きして。あなたも同罪ですね」
――待って、話を聞いて!
くるりと背を向けて、その女性は遠ざかっていく。
「あなたさえいなければ」
追いかけようとした足が止められた。遠ざかった女性とはまた別の、ひと言に。
「シェリック殿はアルティナに戻せたのです。あなたという、余計な手間さえなければ」
――お荷物だったってこと? 出会わなければ良かったの?
「ああ。互いの過去には干渉しない、そう決めたろ」
答えを知るより先に、それは背後から聞こえてきた。振り返るのが怖くて、それでも向き合わないといけなくて、彼の姿を瞳に収める。
「どうしておまえが俺の過去を調べる? おまえには関係ないことだ」
感情のこもらないひんやりとした声。淡々と話す言葉のひとつひとつが突き刺さる。
――調べるなんて、そんなつもりはなかった。
けれども、知ってしまったのだ。それ以上に、知りたいと思ってしまったのだ。
次第にぶれ、彼の輪郭がゆがんでいく。陽炎のように、ゆらゆらと。
――待って、お願い、行かないで!
「知られたなら、もう一緒にはいられないな――ここでお別れだ」
そんなの嫌だ。
――シェリック!
見たくない。聞きたくない。こんなはずじゃなかった。だって、自分は力になりたかったのだ。こんなのは嘘だ。みんながそんなことを言うはずがない。
でも――でも、本心は? ラスターの知らない心の奥底で、まったく別のことを考えていたなら?
違うだなんて言えない。わからないから、自信が持てない。
嫌だ。嘘だ。認めたくない。
誰もいなくなった暗闇で、何も聞こえなくなった空間で、目をきつくつむり、両手で耳をふさぎ、しゃがみ、膝を抱え、何もかも拒絶して。言葉にすらならない声が口からこぼれて――
「――?」
ひんやりとした温度を感じて目が覚めた。
薄暗い天井が見える。見覚えはない。
誰かが自分を呼ぶ声がしたのだけれど、あれは気のせいだったのだろうか。それとも、確かに聞こえたのだろうか。ラスターに伝えるために――別れを言うために。
涙がじんわりと浮かんできた。傍にいてくれた人も、出会った人も、もう誰もここにはいない。右手で拭い、首だけ動かして周りを確認する。
その拍子にぱさっと、額から何かが落ちた。拾い上げたその手巾はまだ冷たい。先の感じた冷たさはこれか。
――ここ、どこ……?
見慣れない場所。
身を起こすと、嘘のように軽い身体と、鉛でも埋め込まれたような心があって。床に下ろした素足は一瞬だけひやっとする。構わずそこに立ち、改めて室内を見渡す。
ちょうど視界の先、壁際にあるのは取手を回す型の扉。反対側にはすり硝子のはめ込まれた棚があるが、中に何があるのかは見えない。中央には水差しと洗面器の置かれた四角い卓。ふたつある椅子の寝台側の背には上着がかけられている。
ルパで購入したそろいの上着。恐らくは自分の、青褐色の外套だ。ふらふらと歩いてそれを手にする。
ここには一枚しかない。ラスターのものだけ。もう一枚は――シェリックは。
触れたその外套は乾いていて、海に濡れた痕跡は見当たらない。全て夢だったのかと思うほど。
ラスターは外套を握りしめて額に押しつけた。どこまで夢だったのだろう。ルパまでの出来事は本当で、そこから先は全てなかったことなのだろうか。輝石の島にたどり着いたことも、そこで起きたことも。
そうだったら、どんなにか良かったのに。何も知らずにいたなら、まだあのままでいられたかもしれないのに。出会わなければ良かったなんて、思わずにいられたのに――
「ラスター殿、起きられたんですね」
穏やかな声音がして、上げた顔でそちらを見る。
「気分はいかがです? 二日ほど寝込んでいたのですよ。熱が下がらなくて、初めはどうなるかと思っていたのですが」
開いた扉からやってきたフィノは、もうあの時の黒い外套を羽織ってはいない。同じく向けられていた敵意もなく、困惑が浮かぶ。
こちらが何も言わずにいると、フィノは苦笑を漏らしたのである。
「手荒な真似をして申し訳ありませんでした。もう何もしませんので、ご安心してください――信じてください、と言っても難しいとは思いますが」
「――ううん。信じるよ」
首を横に振った。出てきた声は思いの外しゃがれていて、あまりの渇き具合に一度せき込む。フィノが差し出してきた器をもらい、入っていた水をひと口飲み込むと、それだけでも喉がうるおっていくのがわかった。フィノに器を返してもう一度口を開くと、今度はわりとまともな声が出てきた。
「だって、輝石の島は本当にあったんだ。フィノの話してたコトは嘘じゃなかったもの」
仕組まれたことだったけれど、輝石の島はあったのだ。それは偽りではなかった。ラスターの探していた手がかりは途絶えてしまったけれど、それでも嘘ではなかった。
でも、フィノのこの変わりようはどうしたことか。目的の人を連れ戻せたから、終わりだということだろうか。
「――シェリックは?」
いるはずの彼がいない。一番聞きたくて、一番聞きたくなかったことを尋ねる。
もしかしたらもうここにはいなくて、アルティナに戻ってしまった後かもしれない。
「ああ、それでしたらもうすぐ」
「――フィノ? 誰か来ているのか?」
ずいぶん長いこと、彼の声を聞いていなかった気がする。懐かしいなんて思うのは変だろうか。
――ここでお別れだ。
夢か現かも定かでない。シェリックに告げられた言葉を思い出して、呼ぼうとした名前が詰まる。呼んでいいのだろうか。自分に名を呼ぶ資格はあるのだろうか。ためらいが、口に出すことを拒んでいた。
「ラスター」
開いていた扉の向こうから入ってきたシェリックは、ラスターの心情を知ってか知らずかほっとした表情を見せる。
「起きてて大丈夫なのか?」
「えっと……うん。大丈夫、だと思う」
外套こそ羽織っていなかったけれど、シェリックの服装は見慣れた簡素な旅装だ。輝石の島の屋敷で着替えていた、あの服ではない。
「二日寝てたんだ、感覚が少し鈍ってるだろ。熱は――ん、下がったな」
額に当てられた手の甲はすぐに離れていった。
「起きられるくらいにまで回復したなら、もう大丈夫ですね」
「ああ、問題ないだろ」
触れられた額にぼうっと手を当てる。手巾から移った冷たさと、一瞬触れた温もりと。自分の手はまだ、それよりも熱いのだと知った。
目覚めてはいる。ただ普段よりぼんやりとしていて、あまり頭を働かせたくない。なんだか、あちらこちらがおぼろげだ。
どうしたんだっけ。とても苦しくて、届かないことが切なくて。
「お腹は空いていませんか? もうすぐお昼の時刻ですし」
「ラスター、おまえはどうす――」
こちらを向いた二人の視線がぎょっとする。目の前にいたシェリックが、静かに問いかけてきた。
「どうした」
「――え?」
何が。
口にしようとして、景色がぼやけていることに気づく。こすった目に水がついて、ラスターは自分が泣いていたのだと知った。
「あれ。なんで……?」
悲しくなんてないのに。今ここに涙なんて必要ないのに。自分はどうして泣いているのだろう。滴があとからこぼれ落ちてきて止まらない。水源地で絶え間なく湧き上がる水みたいだ。
「多分、気が抜けたんだろ。ほら、目をこするな、赤くなるから」
「うん……」
「少し落ち着け」
落ち着けなんて言われても。
ラスターは落ち着いている。この上なく。おかしいのはこの目だ。ぬぐってもぬぐっても湧いてくる、この涙だ。
「……止まらない」
止めようとするラスターの意志とは反するかのように、どうしても止まらない。止め方を忘れてしまった。
「冷えたからか? なら、何か温かいものでも――」
シェリックがくるりと背を向けたその瞬間だった。
「――あ……」
目を見張ったシェリックがラスターを振り返る。離れようとしたシェリックの袖をつかんだ、ラスターの右手を。
「ご、ごめん」
「いや……」
ぱっと離した指をぎこちなく握る。目の前から去った背中が頭から消えてくれない。困らせるだけなのに。
「私が参りましょう」
フィノが提案する。
「シェリック殿はこちらにいてください。すぐに温かいものをお持ちしますので」
「わかった、頼む」
「ええ、かしこまりました」
交わされる会話は、全てラスターの頭上でなされた。うつむいた顔を上げられなくて、こみ上げる涙を隠したくて。遠ざかっていく足音。一度開いて、閉まった扉。フィノが出て行った音だけしっかりと耳で追って、残るシェリックの気配に息を詰める。
「ごめん……邪魔しちゃった」
ぬぐい続けた両手をびしょびしょに濡れて、それでも足りないと言わんばかりに、なおも涙は出続ける。
「せっかくシェリックが行ってくれようとしたのに」
おかしいのに、わからない。どこがおかしいのか、何が変なのか。
――ああ、そうだ。思い出した。シェリックはもうここにはいられないこと。ラスターが人質とされて、アルティナに呼び戻されること。シェリックにとっては望まない場所に行くこと。
「……ごめん」
「どうして謝る」
「だって――っ」
詰まった息はほんの一瞬。驚く間もなく背中を優しく叩かれる。強張っていた肩も詰めていた息も許してくれているように思えて、ラスターは目をつむった。
抱き締められた混乱よりも安心してしまった方がずっと強くて、そこに全てを委ねてしまいたくなってしまった。
今だけだ。シェリックが優しいのは、今このときだけだ。
「――嫌だったんだ」
「そうか」
実感が湧かない。止まる時を知らずにあふれる涙も、凍りついてしまったような心も、何もかもが自分のものではないようだ。
シェリックを引き止めたかった。その心の一端だけが残されていて、きっとそのせいなのだ。だからラスター自身も意識していなかったところで、反射的につかんでしまったにすぎないのだ。
「一度にいろんなことがありすぎたな」
「……うん」
そうだ、様々なことがあった。ルパに着いて、ルパから船に乗って、と思ったらリディオルに海へと落とされて、輝石の島に着いて。知ってしまったシェリックの名前、再会したフィノ、そして――
「まだ消化しきれてないんだろ。心と体がそれについていけていないんだよ。無理に理解しようとしなくていい、あせるな」
シェリックの声がする。
ぎゅっと唇をかみ締めた。それでも、確認しなくてはならないことがある。あのあとどうしたのか、あれからどうなったのか、確かめなくてはならない。
もし――もし。シェリックが行ってしまうのだとしても、まだ引き止められる術があるのなら。それに縋れるというのなら。
「シェリック、は」
名前を呼ぶのがこんなに怖いだなんて、思わなかった。
「ん?」
「――アルティナに、行くんだよね?」
背中を叩いていた手が一瞬止まる。戻る、とは言えなかった。シェリックがそれを否定していたから、同じ言葉を使いたくはなかった。
「ああ」
やはりそうなのだ。
一拍止まったのはきっと、シェリックのためらいの間。シェリックの決した心を変えられはしなかった。ラスターがいたから、そんなことになったのだ。
「ごめん。ボクのせいで……」
「それは違う」
即答で返され、見上げた先の顔が渋面で続ける。
「アルティナに戻ることを決めたのは、俺の意志だ」
「でも――」
「いずれは」
ラスターにそれ以上言わせないようにか、シェリックが矢継ぎ早に言葉を連ねてくる。
「戻るつもりだった。三年前、あの牢屋から外に出て、それからずっと、いつかはアルティナに戻るんだと思ってはいた。今回のことはきっかけになっただけだ」
「シェリックは、アルティナに戻りたくないんじゃなかったの?」
ラスターは尋ねる。あのときと同じ言葉で。
「半々だな。戻りたいが、同じくらい戻りたくない理由もある。それはどちらもおまえとは関係ない――いや」
一旦息を吐いて、シェリックは話を続けた。
「関係ないってことはないかもしれないが、少なくともお前のせいじゃない。だから、これ以上気に病むな」
そんな難しいことを言われても、気になってしまうじゃないか。気に病むななんて、無理だ。
「ラスター、返事」
答えずにいたら、シェリックから急かされてしまう。
「……うー」
「うー、じゃねえよ。はいなのか、いいえなのか、どっちだ」
「……だって」
答えたくても答えられない。そんな問いなのだ。どちらか選べだなんて、できもしないことを言うシェリックが悪い。だったら答えなくていいではないか。
「だっても何もあるか」
「……むり」
「努力しろ」
「えー……」
やり取りを続けていくと、だんだんこみ上げてくるものがある。シェリックもそれを察しているのか、とても軽い口調で話してくるのだ。
背中を叩いてくる手は優しいままに。引き止められないのなら、傍にいることはできるだろうか。シェリックの近くにいられやしないだろうか。
人質ならば、使われる存在でもいい。理由なんてどうだっていいのだ。傍にいられるのなら。
「できもしないことを言ってるつもりはないんだけどな」
「ボクだってできないコトはあるよ」
「やろうともしないで断るのか? そんな奴じゃなかったと思ったんだが」
ラスターはこらえきれず、とうとう吹き出してしまった。
「あはは、もう駄目。わかった、頑張る」
「よし」
おかしくて肩が震える。
他愛のない会話が嬉しくて、もう一度ちゃんと話せるようになったことが懐かしくて。
相も変わらず涙は止まらなかったけれど、なんだか久々に、笑ったような気がした。