翡翠の星屑

第43話 - 折り重なるのは言の葉と

季月 ハイネ2020/07/02 18:19
フォロー

 真っ暗だ。いつの間に夜になっていたのだろう。

 向こう側にぼんやりと、青く灯る光がある。ほのかに明滅していて、今にも消えそうな光だ。

 不意に衝動に駆られる。あれを取らなければならない。取らないと、なくなってしまう。なくなる前に、早く取らなければ。


 走り寄ってつかんだはずの光は、しかし触れる直前で消えてしまった。

 どこに行ってしまったのだろう。確かにそこにあったはずなのに。

 開いた手の中には何もない。当然だ、消えてしまったのだから。では一体、どこへ。


「もうどこにもないわ」


 懐かしい声が教えてくれる。残酷なまでの現状を。


「あなたのせいよ。あの光を消したのはあなただわ」


 ――どうして。何もしていないのに。


 暗いのに、彼女の姿だけはよく見えて。その姿が別の人間に変わっていく。


「これは毒でしょう?」


 掲げられたのは褐色の瓶。


 ――毒じゃない。こしらえたのは、ちゃんとした薬だ。


「証拠はあるのかしら? ないのでしたら、これはもう必要のないものですわね?」


 彼女の指の先、つまみ上げられたその瓶が傾けられる。


 ――やめて、それは、毒なんかじゃない!


 伸ばした手が届く前に、瓶も、彼女の姿も、失せてしまった。右にも左にも、その気配は見当たらない。初めから、何もなかったかのように。


「嬢ちゃんは逃げ出したんだ」


 後ろからやってきた声に、心臓が跳ねた。逃げ出した?

 何から――誰から?

「そうだろう? 目を背けて、何もしないで、自分の村から逃げたんだよな」

 ――違う、逃げてなんかいない!

 叫んでいるのに声が出なかった。これでは伝えられない。開いた口からは微かな音すらも鳴らなくて、口が伝える術を忘れてしまったかのよう。なおも叫ぼうとした自分の耳に、別の声が入ってくる。


「占星術師、シェリック=エトワール」


 彼と入れ替わりに、その女性はやってきて言ったのだ。


「あの人は、禁忌を犯した人なんです。どうしてそんな人を、牢から連れ出したんです?」


 見たことのない無表情で、淡々と語られる。


 ――お母さんの手がかりがほしかった。それ以外に、理由なんてないよ。


「罪のある人を手引きして。あなたも同罪ですね」


 ――待って、話を聞いて!


 くるりと背を向けて、その女性は遠ざかっていく。


「あなたさえいなければ」


 追いかけようとした足が止められた。遠ざかった女性とはまた別の、ひと言に。


「シェリック殿はアルティナに戻せたのです。あなたという、余計な手間さえなければ」


 ――お荷物だったってこと? 出会わなければ良かったの?


「ああ。互いの過去には干渉しない、そう決めたろ」


 答えを知るより先に、それは背後から聞こえてきた。振り返るのが怖くて、それでも向き合わないといけなくて、彼の姿を瞳に収める。


「どうしておまえが俺の過去を調べる? おまえには関係ないことだ」


 感情のこもらないひんやりとした声。淡々と話す言葉のひとつひとつが突き刺さる。


 ――調べるなんて、そんなつもりはなかった。


 けれども、知ってしまったのだ。それ以上に、知りたいと思ってしまったのだ。

 次第にぶれ、彼の輪郭がゆがんでいく。陽炎のように、ゆらゆらと。


 ――待って、お願い、行かないで!


「知られたなら、もう一緒にはいられないな――ここでお別れだ」


 そんなの嫌だ。


 ――シェリック!


 見たくない。聞きたくない。こんなはずじゃなかった。だって、自分は力になりたかったのだ。こんなのは嘘だ。みんながそんなことを言うはずがない。

 でも――でも、本心は? ラスターの知らない心の奥底で、まったく別のことを考えていたなら?

 違うだなんて言えない。わからないから、自信が持てない。

 嫌だ。嘘だ。認めたくない。

 誰もいなくなった暗闇で、何も聞こえなくなった空間で、目をきつくつむり、両手で耳をふさぎ、しゃがみ、膝を抱え、何もかも拒絶して。言葉にすらならない声が口からこぼれて――


「――?」


 ひんやりとした温度を感じて目が覚めた。

 薄暗い天井が見える。見覚えはない。

 誰かが自分を呼ぶ声がしたのだけれど、あれは気のせいだったのだろうか。それとも、確かに聞こえたのだろうか。ラスターに伝えるために――別れを言うために。


 涙がじんわりと浮かんできた。傍にいてくれた人も、出会った人も、もう誰もここにはいない。右手で拭い、首だけ動かして周りを確認する。

 その拍子にぱさっと、額から何かが落ちた。拾い上げたその手巾はまだ冷たい。先の感じた冷たさはこれか。


 ――ここ、どこ……?


 見慣れない場所。

 身を起こすと、嘘のように軽い身体と、鉛でも埋め込まれたような心があって。床に下ろした素足は一瞬だけひやっとする。構わずそこに立ち、改めて室内を見渡す。

 ちょうど視界の先、壁際にあるのは取手を回す型の扉。反対側にはすり硝子のはめ込まれた棚があるが、中に何があるのかは見えない。中央には水差しと洗面器の置かれた四角い卓。ふたつある椅子の寝台側の背には上着がかけられている。


 ルパで購入したそろいの上着。恐らくは自分の、青褐色の外套だ。ふらふらと歩いてそれを手にする。

 ここには一枚しかない。ラスターのものだけ。もう一枚は――シェリックは。

 触れたその外套は乾いていて、海に濡れた痕跡は見当たらない。全て夢だったのかと思うほど。

 ラスターは外套を握りしめて額に押しつけた。どこまで夢だったのだろう。ルパまでの出来事は本当で、そこから先は全てなかったことなのだろうか。輝石の島にたどり着いたことも、そこで起きたことも。


 そうだったら、どんなにか良かったのに。何も知らずにいたなら、まだあのままでいられたかもしれないのに。出会わなければ良かったなんて、思わずにいられたのに――


「ラスター殿、起きられたんですね」


 穏やかな声音がして、上げた顔でそちらを見る。


「気分はいかがです? 二日ほど寝込んでいたのですよ。熱が下がらなくて、初めはどうなるかと思っていたのですが」


 開いた扉からやってきたフィノは、もうあの時の黒い外套を羽織ってはいない。同じく向けられていた敵意もなく、困惑が浮かぶ。

 こちらが何も言わずにいると、フィノは苦笑を漏らしたのである。


「手荒な真似をして申し訳ありませんでした。もう何もしませんので、ご安心してください――信じてください、と言っても難しいとは思いますが」


「――ううん。信じるよ」


 首を横に振った。出てきた声は思いの外しゃがれていて、あまりの渇き具合に一度せき込む。フィノが差し出してきた器をもらい、入っていた水をひと口飲み込むと、それだけでも喉がうるおっていくのがわかった。フィノに器を返してもう一度口を開くと、今度はわりとまともな声が出てきた。


「だって、輝石の島は本当にあったんだ。フィノの話してたコトは嘘じゃなかったもの」


 仕組まれたことだったけれど、輝石の島はあったのだ。それは偽りではなかった。ラスターの探していた手がかりは途絶えてしまったけれど、それでも嘘ではなかった。

 でも、フィノのこの変わりようはどうしたことか。目的の人を連れ戻せたから、終わりだということだろうか。


「――シェリックは?」


 いるはずの彼がいない。一番聞きたくて、一番聞きたくなかったことを尋ねる。

 もしかしたらもうここにはいなくて、アルティナに戻ってしまった後かもしれない。


「ああ、それでしたらもうすぐ」


「――フィノ? 誰か来ているのか?」


 ずいぶん長いこと、彼の声を聞いていなかった気がする。懐かしいなんて思うのは変だろうか。


 ――ここでお別れだ。


 夢か現かも定かでない。シェリックに告げられた言葉を思い出して、呼ぼうとした名前が詰まる。呼んでいいのだろうか。自分に名を呼ぶ資格はあるのだろうか。ためらいが、口に出すことを拒んでいた。


「ラスター」


 開いていた扉の向こうから入ってきたシェリックは、ラスターの心情を知ってか知らずかほっとした表情を見せる。


「起きてて大丈夫なのか?」


「えっと……うん。大丈夫、だと思う」


 外套こそ羽織っていなかったけれど、シェリックの服装は見慣れた簡素な旅装だ。輝石の島の屋敷で着替えていた、あの服ではない。


「二日寝てたんだ、感覚が少し鈍ってるだろ。熱は――ん、下がったな」


 額に当てられた手の甲はすぐに離れていった。


「起きられるくらいにまで回復したなら、もう大丈夫ですね」


「ああ、問題ないだろ」


 触れられた額にぼうっと手を当てる。手巾から移った冷たさと、一瞬触れた温もりと。自分の手はまだ、それよりも熱いのだと知った。

 目覚めてはいる。ただ普段よりぼんやりとしていて、あまり頭を働かせたくない。なんだか、あちらこちらがおぼろげだ。

 どうしたんだっけ。とても苦しくて、届かないことが切なくて。


「お腹は空いていませんか? もうすぐお昼の時刻ですし」


「ラスター、おまえはどうす――」


 こちらを向いた二人の視線がぎょっとする。目の前にいたシェリックが、静かに問いかけてきた。


「どうした」


「――え?」


 何が。

 口にしようとして、景色がぼやけていることに気づく。こすった目に水がついて、ラスターは自分が泣いていたのだと知った。


「あれ。なんで……?」


 悲しくなんてないのに。今ここに涙なんて必要ないのに。自分はどうして泣いているのだろう。滴があとからこぼれ落ちてきて止まらない。水源地で絶え間なく湧き上がる水みたいだ。


「多分、気が抜けたんだろ。ほら、目をこするな、赤くなるから」


「うん……」


「少し落ち着け」


 落ち着けなんて言われても。

 ラスターは落ち着いている。この上なく。おかしいのはこの目だ。ぬぐってもぬぐっても湧いてくる、この涙だ。


「……止まらない」


 止めようとするラスターの意志とは反するかのように、どうしても止まらない。止め方を忘れてしまった。


「冷えたからか? なら、何か温かいものでも――」


 シェリックがくるりと背を向けたその瞬間だった。


「――あ……」


 目を見張ったシェリックがラスターを振り返る。離れようとしたシェリックの袖をつかんだ、ラスターの右手を。


「ご、ごめん」


「いや……」


 ぱっと離した指をぎこちなく握る。目の前から去った背中が頭から消えてくれない。困らせるだけなのに。


「私が参りましょう」


 フィノが提案する。


「シェリック殿はこちらにいてください。すぐに温かいものをお持ちしますので」


「わかった、頼む」


「ええ、かしこまりました」


 交わされる会話は、全てラスターの頭上でなされた。うつむいた顔を上げられなくて、こみ上げる涙を隠したくて。遠ざかっていく足音。一度開いて、閉まった扉。フィノが出て行った音だけしっかりと耳で追って、残るシェリックの気配に息を詰める。


「ごめん……邪魔しちゃった」


 ぬぐい続けた両手をびしょびしょに濡れて、それでも足りないと言わんばかりに、なおも涙は出続ける。


「せっかくシェリックが行ってくれようとしたのに」


 おかしいのに、わからない。どこがおかしいのか、何が変なのか。

 ――ああ、そうだ。思い出した。シェリックはもうここにはいられないこと。ラスターが人質とされて、アルティナに呼び戻されること。シェリックにとっては望まない場所に行くこと。


「……ごめん」


「どうして謝る」


「だって――っ」


 詰まった息はほんの一瞬。驚く間もなく背中を優しく叩かれる。強張っていた肩も詰めていた息も許してくれているように思えて、ラスターは目をつむった。

 抱き締められた混乱よりも安心してしまった方がずっと強くて、そこに全てを委ねてしまいたくなってしまった。

 今だけだ。シェリックが優しいのは、今このときだけだ。


「――嫌だったんだ」


「そうか」


 実感が湧かない。止まる時を知らずにあふれる涙も、凍りついてしまったような心も、何もかもが自分のものではないようだ。

 シェリックを引き止めたかった。その心の一端だけが残されていて、きっとそのせいなのだ。だからラスター自身も意識していなかったところで、反射的につかんでしまったにすぎないのだ。


「一度にいろんなことがありすぎたな」


「……うん」


 そうだ、様々なことがあった。ルパに着いて、ルパから船に乗って、と思ったらリディオルに海へと落とされて、輝石の島に着いて。知ってしまったシェリックの名前、再会したフィノ、そして――


「まだ消化しきれてないんだろ。心と体がそれについていけていないんだよ。無理に理解しようとしなくていい、あせるな」


 シェリックの声がする。

 ぎゅっと唇をかみ締めた。それでも、確認しなくてはならないことがある。あのあとどうしたのか、あれからどうなったのか、確かめなくてはならない。

 もし――もし。シェリックが行ってしまうのだとしても、まだ引き止められる術があるのなら。それに縋れるというのなら。


「シェリック、は」


 名前を呼ぶのがこんなに怖いだなんて、思わなかった。


「ん?」


「――アルティナに、行くんだよね?」


 背中を叩いていた手が一瞬止まる。戻る、とは言えなかった。シェリックがそれを否定していたから、同じ言葉を使いたくはなかった。


「ああ」


 やはりそうなのだ。

 一拍止まったのはきっと、シェリックのためらいの間。シェリックの決した心を変えられはしなかった。ラスターがいたから、そんなことになったのだ。


「ごめん。ボクのせいで……」


「それは違う」


 即答で返され、見上げた先の顔が渋面で続ける。


「アルティナに戻ることを決めたのは、俺の意志だ」


「でも――」


「いずれは」


 ラスターにそれ以上言わせないようにか、シェリックが矢継ぎ早に言葉を連ねてくる。


「戻るつもりだった。三年前、あの牢屋から外に出て、それからずっと、いつかはアルティナに戻るんだと思ってはいた。今回のことはきっかけになっただけだ」


「シェリックは、アルティナに戻りたくないんじゃなかったの?」


 ラスターは尋ねる。あのときと同じ言葉で。


「半々だな。戻りたいが、同じくらい戻りたくない理由もある。それはどちらもおまえとは関係ない――いや」


 一旦息を吐いて、シェリックは話を続けた。


「関係ないってことはないかもしれないが、少なくともお前のせいじゃない。だから、これ以上気に病むな」


 そんな難しいことを言われても、気になってしまうじゃないか。気に病むななんて、無理だ。


「ラスター、返事」


 答えずにいたら、シェリックから急かされてしまう。


「……うー」


「うー、じゃねえよ。はいなのか、いいえなのか、どっちだ」


「……だって」


 答えたくても答えられない。そんな問いなのだ。どちらか選べだなんて、できもしないことを言うシェリックが悪い。だったら答えなくていいではないか。


「だっても何もあるか」


「……むり」


「努力しろ」


「えー……」


 やり取りを続けていくと、だんだんこみ上げてくるものがある。シェリックもそれを察しているのか、とても軽い口調で話してくるのだ。

 背中を叩いてくる手は優しいままに。引き止められないのなら、傍にいることはできるだろうか。シェリックの近くにいられやしないだろうか。

 人質ならば、使われる存在でもいい。理由なんてどうだっていいのだ。傍にいられるのなら。


「できもしないことを言ってるつもりはないんだけどな」


「ボクだってできないコトはあるよ」


「やろうともしないで断るのか? そんな奴じゃなかったと思ったんだが」


 ラスターはこらえきれず、とうとう吹き出してしまった。


「あはは、もう駄目。わかった、頑張る」


「よし」


 おかしくて肩が震える。

 他愛のない会話が嬉しくて、もう一度ちゃんと話せるようになったことが懐かしくて。

 相も変わらず涙は止まらなかったけれど、なんだか久々に、笑ったような気がした。