第22話 - 闇からの手が、牙向いて
ぱさり、と。
かけずによけていた布団が床に落ちたようで、顔をしかめる。というのも、首を回すのが煩わしくて、音だけで判断したからだ。これでは動かねばならないではないか。そちらを見るのが面倒で、無視を決め込んだ。
部屋に残されたシェリックは、ただひたすら寝台に沈んでいた。別に動けなかったわけではない。動きたくなかっただけだ――そう思い込んでおく。病ではないが、気持ちの持ちようで多少は変わってくる、と信じることにもした。
立っているよりは座っている方が、座っているよりは寝ている方が楽なのだ。それと、せずともいい心配をしてくれる連れがいるものだから、その憂いを取り払うためにという理由もある。初めての船なのだからもっと楽しんでほしかったのだが――どう考えても自分のせいだということに行き当たってしまい、申し訳なさと同時に自己嫌悪が勝った。
目元を手で覆い隠すと、視界からの情報が減ったので多少はましになる。
しかし、この体調は本当にどうしたものか。以前船に乗った時はここまで酷い状態にはならなかったはずだ。しばらくぶりに乗船したせいだろうか。いや、何度乗っても毎回同じような症状になったのは、他でもない自分が一番良く知っている。
結論から言うと、船に慣れなかったのだ。今までそうだったのなら、これから先、良くなる可能性は皆無に等しいわけで――よそう。考えるだけでさらに悪化しそうだ。
リディオルは近々嵐になると言っていた。体感できる振動はないけれど、もうまもなく荒れた天候が船を揺さぶりにやってくるのだろう。
今でも十分気持ちが悪くて最悪なのに、それよりも大きな揺れが来るのかと思うとげんなりする。これ以上自分をどん底な気分にさせてそんなに楽しいのか――いや楽しくない。絶対に。
水を取りに行ったラスターには悪いけれど、嵐が本格的に来る前にもうひと眠りしておこう。運が良ければ、寝ている間に嵐が過ぎてくれる。
自分が眠ってしまっていたらその辺に置いていてもらおう。そんなことを考えながら、床に落ちている布団を手探りで拾い上げた――その矢先。
「っ!?」
シェリックは弾かれたように飛び起きた。助長した気持ち悪さは、頭を押さえることで押し込めることにする。
耳元で鳴ったのは、小さな破裂音。聞き間違えるわけもない。
「今のは……」
――何かが起きたらお前に知らせる。それが、合図だ。便利だろ? 遠くにいる相手にもすぐに伝えられるんだぜ?
昔交わしたやり取りが思い出される。同時に教えられ、覚えた感覚も。
懐かしい。ルパでも同じような感覚で呼ばれた。初めて教えてもらったあの時からずいぶん時間が経つのに、未だにそれを覚えている自身にも驚いたけれど――どうして、わざわざ今。何を知らせたのだ。
まさかという予感ともしやという想像とがせめぎ合う。
嵐が来たからという知らせではないだろう。そんなことを知らせなくても、来たら海が荒れるのだからすぐにわかる。もしかしたら嫌がらせで知らせたという可能性も――否定はできないが、その線は一旦省いておくとする。
そもそもなぜ、今なのか。嫌な予感が消えない。何かが起きたのは間違いないのだ。きっと何かが、自分ではない誰かに――?
「――ラスター?」
彼女が出ていった扉を見やる。
そのつぶやきを合図としたのかはわからないが、閉じていたはずの扉がきい、と開いた。
そこには誰もいない。シェリックは寝台の上から動いていないし、扉を開けたはずの人物もそこにいない。
誘われているかのような扉をにらみつける。
シェリックが決断を下すまで、そう時間はかからなかった。
**
自身の生み出した風の渦がラスターの意識を奪い取るまで、その様子をじっと眺めていた。渦の中から上がっていた悲鳴は徐々にかき消されていき、やがて風の声しか聞こえなくなった。
それは暴風と呼んでも大差なく、いつ周りに散ってもおかしくない。その風を注視していたリディオルは、すうと息を吸い込んだ。
「――いい。散れ」
耳を澄まし、聞こえていた悲鳴が完全に消えたのを確認して片手を払う。ラスターを囲んでいた風はあっけないくらい簡単に霧散した。唐突だったにも関わらず、ひと筋の流れも残さずに。
支えを失ったラスターは、崩れるように床へと倒れ伏す――その前に、リディオルは腕を伸ばして、その小さな身体を抱き止めた。
「あっけねぇわな」
軽く背中を叩いてみるも、ラスターは動く気配を見せない。彼女の髪を結っていた紐が今の風で千切れてしまったようで、露わになった本来の髪の長さに目を見張った。ざっと見て目立つ外傷はない。そのことに少し安堵する。
うっかり傷でもつけようものなら、彼女の連れに何を言われるか――考えたくもない。
それよりも驚いたのは、思った以上に軽いこと。どんなに外見が少年っぽく見えるとはいえ、この華奢な体躯は紛れもなく少女のものだ。
「巻き込んで悪いな、嬢ちゃん――文句はあいつに言ってやってくれ」
聞こえた足音に、ついつい笑みが漏れた。
「――人の内側に入り込み、風を送り込んで強制的に意識を奪い取る。対象の近くであればあるほど、その効果を発揮するんだったか。お前の得意技だったな」
それとほぼ同時に、低い声音が空気を張りつめさせる。
「訂正、奪うのは外側からも、だぜ?」
茶化すように言い、やってきた人物を見やった。
「なんだ、意外と早かったな。わざわざ知らせる必要はなかったか」
壁伝いにここまで来たらしく、片手を壁に当てた姿勢で、彼はそこにいた。先ほど見かけた時は、目眩を起こしかけていたのだったか。浮いた脂汗に上がった息。よくもまあそんな状態でここまで来れたものだと感心する。
ルパで再会したときには穏やかに和らいでいて、船で会話した際にもまだ柔らかかった。そんな彼の双眸は、今ではかみつきそうなほど険を帯びている。その変わりように、我知らずたじろいでしまいそうなほど。
抑えられた怒気に、友好的な感情など一切ない。それもそうだ。取れるはずもないだろう。リディオルは、そんな彼の姿を冷静に受け止める。そうして片手を挙げ、いつものように応じた。
「や。さっきぶり」
彼らの間にたたずんでいた空間がぴりりと緊張をはらんで、彼を――シェリックを出迎える。
「ふざけるなよ――リディオル!」
そこだけ空間が切り離されたかのように、時を止めた。