第23話 - 対峙するのは彼と黒
※今回の話は、お食事前後に読まれる際はご注意ください。念のためひと言添えさせていただきます。
目に飛び込んだその光景は、力なくくずおれる身体と、はためいた栗色の長い髪。それがいつか見た光景と重なって、一瞬息を呑んだ。呼びかけた名前を寸でのところでこらえて、現実と相対する。
──違う。彼女ではない。
この場所も、ここにいる人物も。あの時とは何もかもが違う。
明滅した幻想を振り払い、飲み下した名前の代わりにリディオルを呼んだ。
あのときにできなかったことと、自分への不甲斐なさと。呼んだ名前に宿された怒気には、少なからずそんな後悔も含まれているのだろう、なんて。目の前の場面を見ながら、どこかで他人事のように考えている自分がいた。
「ふざけてなんかいないさ。ま、お疲れさん、とでも言ってやるよ。よくまあ、そんな状態で動けたもんだ」
「……ずいぶん強引な招待を受けたからな。このあとに手荒い歓迎が待っているとなったら、応えるのは当然だろ?」
──近々でかい嵐が来るぜ。
先刻、そう言ったのはリディオルだ。手荒い歓迎──つまりは嵐とみて、まず間違いはない。「そこまで待ちわびてくれるならありがたいこった」なんてうそぶく彼をぎっと見据えた。
「ラスターに何をした」
リディオルの腕の中、抱えられているラスターはぐったりとしている。つい先ほど部屋から元気よく出て行ったのが嘘のように、垂れ下がった両手は微動だにしない。
──生きてはいると、思いたい。
「おまえがさっき言った、その通りのことさ。ちょっと話がしたくてね」
「話? おまえの言う話とは、人の自由を奪わないとできないものなのか」
言外に意味合いが違うと言うも、リディオルは何も返してこない。答えの代わりとばかりに、肩をすくめられた。
「しっかしつまらねぇな。やっぱりおまえにゃバレてたか」
「当たり前だ。出発前に部屋を訪れた時のおまえの眠気、あれは魔術の反動だろ。これから来る嵐も、おまえの仕業でまず間違いないな?」
それは疑問ですらない、確信を持っての問いかけだ。
今から思えば、会うごとに眠気を増していったリディオルに──その意味に気づくべきだった。
「ご名答。あそこまで大がかりだとさすがに疲れるね。いやはや、大変だった」
「今すぐ止めるなら楽になるぞ」
「冗談。俺のやりたいことは何ひとつ終わってないんでね」
彼の目的が見えてこない。自分をおびき寄せて、何がしたいのだ。
「ネボの日にしたのもわざとか」
「まさか。あれは本当にたまたまだ」
おどけたように答えられる。
──ネボの日。
水の神がおわす日であるから、水辺に近づいてはならない。気に入られた水神に、引きずり込まれてしまうからだ。そのため、ネボの日の船出は控えた方がいいと言われている。船乗りの間では有名な話のようだ。
それ以外にも、ネボの日は何故か海が荒れやすい。人の世界に降りてきた水神の悪戯だとも、海を荒らす人間たちに怒った海神の仕業だとも言われているが、その真偽は定かではない。
「いろいろ予想外が重なってひやひやしたけどな。ま、俺の薬もちゃんと効いたようで何よりだ」
その言葉に眉をひそめる。
「薬? 効いていないんじゃ──」
怪訝に開いた口を閉じた。違う。そうではない。自分は何か、思い違いをしている。
ラスターに渡そうとしていた薬。奪うように横から取り、それを口にしたのはシェリックで。せり上がってくる吐き気を無理やり呑み込んだ。
「おまえ、ラスターに何の薬を渡そうとした……?」
酔い止めだとばかり思っていた。それなのに効かないのは、自分の症状が酷いからだと、そう信じて疑っていなかったのだ。だから初め、ラスターからの提案も、彼女の薬も、全て断って──
シェリックの様子を眺めていたリディオルが、無言で口の端を持ち上げる。それが何よりの答えだった。決して良いものではない。それどころか悪化する類の薬だ。
「心配しなくても、死ぬもんじゃないさ。嬢ちゃんもな。さあてっと」
「!」
すぐ目の前に現れた気配を察し、とっさに後ろへ飛び退いた。身体に染み込まれた感覚がまだ残っていることに驚いて、同時に感謝もして。
その間、ひと呼吸。至近距離で響いた大音量に、思わず顔をしかめる。弾けた風の残滓が、前髪をはらりと揺らしていった。
──ラスターは。
とっさにそちらへ目を向けるも、先と変わらず彼に抱えられたままだ。まるで、せっかく見つけた玩具を手放そうとしない、小さな子どものように。
「へえ、やるじゃん」
そう、玩具だ。
完全にリディオルに遊ばれている。歯がみするも、今のところ対抗する術《すべ》が浮かんでこないのだ。
「俺が教えた合図といい、忘れてないようで良かったわ」
「嫌になるくらい覚えていたな」
一瞬かいた冷や汗には気づかなかったふりをし、よろけた先にあった壁へと手を突く。ひやりと伝わった温度に、壁の方が冷たいのだなと変な感想を抱いて。
「ははっ、無様だな!」
「……抜かせ」
今のは体調のせいばかりではない。傾いだ船にたたらを踏んだのだ。その拍子に、浮いた脂汗が足元に落ちた。常より平衡感覚が鈍っているのは認めよう。それだけだと言い聞かせて。
──嵐が来たか。
予想よりも遥かに早い。夜を越えるどころか、これから深くなっていく最中だと言うのに。思い通りにことが運ばないのは常だとはいえ、何もかも自分の思っていたこととは違う事態ばかりで腹が立つ。こうして相対した今でさえ、目の前の彼に踊らされている感覚しかしない。募った煩わしさに顔をしかめ、壁から離れてリディオルをにらみつけた。
「ラスターを返せ、リディオル」
「それはお断りだね」
楽しんでさえいるリディオルの口調に、膨れ上がる微かな感情を押しとどめて。
「嬢ちゃんに話があるって言ったろ? 邪魔するなんて、無粋な真似じゃねぇか?」
「無粋?」
無粋などと、一体どの口が言うのか。
「本当にそれが無粋だと思うのなら俺は何も言わない。こんな回りくどいやり方をしなくても、他に方法はいくらでもあるだろ」
例えばラスターがある人に恋慕の情を抱いていて、その相手も少なからず思っているのなら、邪魔するような真似はしない。それならばむしろ応援するし、男性側からとして相談に乗れることもあるだろう。今回は意味が違う。
だってそうだろう。嵐を起こして、ラスターからわざわざ意識を奪って、そこに自分を呼び寄せて。まるで、自分に見せつけるかのような──いや、ようなじゃない。リディオルは、見せつけるために仕組んだのだ。
「近くに怖い番犬がいちゃ、話すものも話せなくなるだろう? こっちとしちゃ、場を設けたかっただけだ」
「許可も取らずにか?」
「言ったらくれたのかよ?」
「こんな事態になるとわかっていたなら、やるわけがない」
「だと思ったからおまえにゃ黙ってたんだよ。ま、予定が狂ったってのもあるか」
読めない笑顔で、のらりくらりとかわされる。すくめられた肩も、大仰な動作も、全てが演じられた仕草のようだ。この船は舞台で、自分は与えられた役のひとつ。展開も終幕も、彼の思うがまま──望むまま。
「ほらほら、部外者はとっとと部屋に帰った。嬢ちゃんはあとでちゃんと無事に送り届けてやるからよ」
片手でラスターを支えたまま、逆の手で適当に払われた。まるで、用済みの自分を追い払うかのように。──そう、自分の出番が済んだのなら、舞台からはけなければならない。もう、ここにいる必要はないのだから。
──なんて、できるわけがない。
「信用すると思ってるのか?」
「思わねぇな」
演じているのが舞台ならば、台本に沿わずともいい。即興で演技を挟むことだって、できるはずだ。
無言の対峙が続く。やがて根負けしたリディオルが小さく息を吐くのだった。
「──おまえもしつけぇな。どうあっても素直に帰る気はないってか。嬢ちゃんがそんなに気にかかるんだな?」
それは質問と言うよりも、単なる確認。
「ああ。旅の連れだからな」
それ以外の何者でもない。けれど、心配をして何が悪いと言うのだ。
「家族以外は赤の他人じゃなかったか?」
「ああ、他人だな」
「だったら放っておけばいいじゃねぇか。こんな小娘一人を気にかける必要はねぇだろう? 何をそんなにむきになってやがるんだ?」
「さあな」
自分はむきになっているのだろうか。よくわからない。
はっきり言って体調は最悪だし、今すぐにでも部屋に戻って寝たいし、ここにいる道理はない。
なぜ──リディオルに呼ばれて。
自分は呼ばれたからここに来たのだ。ラスターが戻ってこなかったから、ここまでやってきたのだ。それだけだ。
「……おまえに可愛げってやつがあればね」
「何が言いたい」
「別に?」
初めから答えなど求めていなかったようで、リディオルはあっさりと引き下がった。
「ま、今のおまえにはわからんさ。気づいてるならあるいはと思ったが──ここいらでお引き取り願おうか」
リディオルの手中に生まれた風は、彼の手のひらよりもずっと小さい。渦巻く風の大きさは小さくとも、その威力は大きさとまったく比例しないのが厄介だ。合図さえあればいつでもこちらに放たれるのだろう。
本来ならば風なんてものは目に見えない。リディオルはわざとこちらにもわかるように白く、視覚化しているのだ。そんな手間をかけずともいいものを。
「悪いが遠慮する。引く気はない」
「立ってるのもやっとの状態で何を言ってやがる? おとなしく寝といた方が身のためだぞ。これから来る嵐はこんなものじゃない」
「らしいな」
先ほどは揺れたのも手伝ってよろける羽目になった。けれどもリディオルの言う通り、今は立っているだけで精一杯だ。同じようにリディオルから風を向けられたなら、もう一度無事に避けられるという自信はない。
そもそもそんなに簡単に避けられるほど、リディオルの術は遅くない。先刻のも今見えているその風も、どちらも手加減されている。詳しくない自分でもわかってしまったことが悔しくて──彼に弄ばれていることを嫌でも確認してしまって。
「どうあっても引かねぇんだな」
「引く気はさらさらないと言って──っ」
自身の口元を押さえるも、一瞬間に合わなかった。空気の塊が口から飛び込んでいく。
話しながらもずっと注意は払っていた。彼の手の中から風が消えた瞬間に行動を起こしたのに、一拍間に合わなくて。
嚥下の動作を待たずに、それは悠々と喉を通過していく。シェリックの意志と一切関係なく体の奥にまで入って、そこに居座っている感覚があった。同時に、背中を氷塊が滑り落ちる。嫌な予感が湧き上がって──
「だったら、強制退場してもらうまでだよな?」
そう宣告され、指がひとつ鳴らされる。途端、留まっていた風が一瞬にして弾け、胃の中を容赦なくかき回していった。
「──ぅ、ぐっ、ごほっ!」
耐えきれずその場に膝を突く。こみ上げるものを抑えきれず、催した衝動のそのまま、戻された異物を吐き出した。充満する独特の匂いに二度、三度、それを繰り返す。
酸味でひりつく喉を押さえる。目が合った床はその様を映し出して、こちらをあざ笑う。
船に乗ってから固形物はほとんど口にしていない。それでも出てくるものはあるのだと、頭の隅でぼんやりと考える。頬を滑る滴がぽたりと落ちて、そこにこつりと足音が鳴った。
「言い訳するつもりじゃねぇけど、実力行使するつもりはなかったんだよ」
口を拭い、灯りを遮った影を見上げる。いつの間にか近くにいたリディオルは、何も感情を映さない瞳でもう一度口を開いた。
「引かないおまえが悪いんだぜ。しつこい男は嫌われるもんだ、覚えておくといい」
「リディ、オル──っ」
「じゃあな、部屋まで頑張って戻れよ?」
リディオルが向きを変える前、運ばれていくラスターがちらと見えて。彼女の閉ざされた目蓋は開く気配もなかった。
──心配しなくても、死ぬもんじゃないさ。
今はあの言葉を信じるしかできない。
──信じる? 誰を?
さんざん疑いをかけておきながら、都合のいい部分だけ信じるなんて──いい物笑いの種だ。
遠ざかる背中に言いたいことは山ほどある。あるのにひと言も発せない状態に唇をかんだ。切れるほどに、強く。
「──く、そっ!」
そうして身動きが取れないまま、二人は見えなくなって──ごちゃ混ぜにされたやり場のない思いを、壁に叩きつけるしかできなかった。