第6話 - 求めた標、先の道
しかし、二人が見合ったままだったのは、きっと時間にしてほんのわずかに過ぎなかったのだろう。目を逸らしたのは男の方が先だった。
「ただの子どもねえ……」
「えっ、見えない? びっくりするくらいの超優良児だよ?」
胸を張って偉そうに反らしてみるも、男の目はますます細くなるだけだった。
「優良児ねえ……」
ついでとばかりに追い打ちをかけてくるものだから、むっとして言い返す。
「なにその疑いの眼差し」
大変な心外である。
「本当の優良児は自分からそんなこと言わないんだよ。あくまでも客観的につけられる名称だ。覚えておきな」
ラスターはぽんっと手を合わせる。
「あ、そっか。それは盲点」
なるほど、自分で名乗ってはいけないこともあるのか。ひとつ勉強になった。
「お前さん、賢いんだか馬鹿なんだかわかんねえ奴だな」
「えー、酷い」
はあ、と大きなため息を吐いた男は、ちょっと待ってろと言い残してどこかへ去ってしまう。
何かあったのだろうか。
気にはなるものの、それ以上にパンが美味しいことに心を奪われて仕方ない。冷めてはせっかくの美味しさも半減してしまうだろう。残りわずかな量ではあったけれど、遠慮なく頬張ることにした。
もぐもぐもぐ。
美味しい。
食べきってしまったら後は余韻に浸るだけだ。美味しかった。小さな幸せだ。
――そう、幸せだ。幸せな気分を存分に味わえてほっこりする。輝石の島へたどり着けたなら今以上の幸せをつかめることができるのだろうか。
ラスターには想像もつかない。
幸せ――幸せとはなんだろう。どんなことを指して幸せと呼ぶのだろうか。人によってそれは異なるし、度合いも違ってくる。ラスターの幸せは――すぐに浮かんできたのは祖母の笑顔だった。
これもひとつの幸せだと呼べるのだろうか。幸せの反対が悲しみなら、祖母を悲しませたくないラスターの望みと合致している。
ラスターの目的はあくまでも人探しだ。探し当てるために、命まで賭ける旅路を行くなんていうのは馬鹿なのかもしれない。
探し人がそこにいる確証はないし、そもそもたどり着けるのかもわからない。そして、話を聞いた限りではたどり着けない可能性の方が高い。仮定と願望とがごちゃ混ぜになっていて、本来の目的が見失われそうになっている。そんなのはいけない。
――多くの人が幸せを求めて旅立ち、そして誰一人帰ってこなかった。そう言われているんですよ。
『知っています?』なんて、そう前置きされて語られたのは物語などではない、紛れもない現実の話だった。そんなのはありもしない夢や幻想の類いだと、到底信じがたいと笑い飛ばされていたのだ。けれども、ラスターたちも同じように鼻で笑うことは、どうしてもできなかった。
誰一人として――本当に?
その時のラスターは焦っていたのかもしれない。手がかりが失われて、たどる宛もなくて、眉唾物でも縋りたくなるほどに。
いや、そうでないと信じたいから向かうのか。
ラスターの母親だったら、きっとどこかで進路をそちらに向けていたはずだ。彼女は目新しいもの、噂や流行物には目がなかったのだから。
「お前さん、一体何しに行くんだ?」
いつの間にか男がこちらに戻ってきていた。彼はどこに、とは言わなかったけれど、きっと輝石の島を指しているのだろう。
「あ、ごちそうさま」
「おうよ」
手を合わせて食後の挨拶をし、改めて考えてみる。
「何って言われてもなあ……」
ラスターは頬をかく。さて、どう話したらいいものか。
迷っているのを話しにくいと捉えたのか、男は大仰に肩をすくめたのである。
「おいおい、好奇心だけで行くなら止めておきな。死にに行くようなもんだ」
さらには眉根を寄せて言われてしまった。
「んーと……何となくそこに決まったって感じかな」
「あのなあ――」
「人を」
男が言いかけたことを遮る。そこから先は言わせない。
「探しているんだ。真新しいものが好きで、噂だったらその元までたどり着かないと気が済まないっていう困った人」
「死にに行くわけじゃないんだな?」
「もちろん」
ラスターがしっかりと頷いてみせると、男は朗らかに笑った。
「そうか」
「うん。――そうだ。これ、いくら?」
持ち上げた器の中にはまだ少量が残っている。パンも美味しかったし、それなりに良い値段でもおかしくないと思ったのだ。
――が、しかし。
「いらねぇよ」
「え? いいの? だって、パンまでもらったのに……」
聞き返すと、男は嘘でないと頷いた。
「おお、餞別だ。今回はタダにしてやる」
彼の気前の良さに、ラスターの顔がぱっと輝く。
「やった! ありがと!」
「いいってことよ。ただし、次に来たときはちゃんと払えよ? 飲み物は銅貨五枚、パンはふたつで八枚だ」
「ん。わかった」
残りを一気に飲み干し、足元に投げていた荷物を持って席を立った。
男と話しながら周りに聞き耳を立てていたが、漁師たちの話題の中には役に立ちそうな情報はあまりなかった。
まあ、聞き耳を立てるまでもなく、話は途切れ途切れに聞こえてきたのだけれど。
「ごちそーさま。また来るね」
「おう。待ってるぜ」
そのまま出ていこうとしたら、カウンター越しに腕をつかまれる。たたらを踏んで恨めしげに振り返った。
「なに?」
「ひとつ良いことを教えてやるよ」
なんという馬鹿力だろう。
「良いコト?」
繰り返して尋ねると、男はこう囁いたのだ。
「輝石の島に向かうなら、この港から出てる船を探せ。誰一人生きては戻ってこなかったと言われちゃいるが、ありゃ嘘だ」
「――えっ」
それは、思いがけない情報だった。
「いるの? 行って、帰ってきた人」
やはり、誰一人ではなかった。戻ってきた人もいたのだ。
「ああ。俺の知る限り、輝石の島から戻ってきた奴が一人いる。そいつからならもっと情報が聞けるんじゃねえか? まだこの町にいたはずだ」
「その人って、どんな人なの?」
「王国から来た奴だ。黒い服装だったな」
「王国って、アルティナ?」
思い浮かんだのは、話でしか知らない場所。まだ見たことがないそこは、海の向こうの大きな国。
「そうだ。名は確か――」
不意に、つかんでいた腕が放される。
どうしてと思う間もなく、声は後ろから聞こえてきた。
「よう旦那ぁ! 今日もきてやったぜぇ!」
「ああ、お前らまだくたばってなかったのか」
「っかー、やぁっと戻ってこれたと思ったらこれだよ。旦那のその文句、懐かしいねぇ!」
「はいはいうるせえうるせえ、とっとと座ってやがれ」
どうやら新しい客が来たらしい。彼らも、既に店にいる他の者たちに負けず劣らず、にぎやかだ。
「邪魔だよね。ごめん、ボク出る――」
「――フィノを探せ」
ぼそりとひと言耳に届き、目を見張る。
「どうせ行くなら、お前さんも生きて戻ってこいよ」
「フィノ、だね。うん、ありがとう」
元より、死ぬつもりはさらさらない。知るために、人を探すために、ラスターは向かうのだ。
「戻ってきたら、またここに来るよ。美味しかったし」
男は白い歯をむき出しにして笑った。
「嬉しいこと言ってくれるね。待ってるぜ」
「うん、それじゃあ」
約束をし、ラスターは入った時と同じように扉を押して外に出た。初めて見たのだがこの扉、どちらからでも押して開けられるのが面白い。
「わっ!」
一歩出た途端、風に煽られる。
海から吹いてくる風は、朝よりも少しばかり暖かかった。
しかし暖かいと感じたのは店を出たすぐあとだけで、外の海風は相変わらず冷たい。けれども温かい飲み物を飲んでいたおかげか、身体はぽかぽかと暖まり、しばらくの間気持ち良いとさえも思えたのだ。
心地よくはあったけれど、念のため外套を羽織っておく。
「アルティナ王国と、フィノ」
現実味が薄いその名を、口に出してつぶやいてみる。
――輝石の島から戻ってきた奴が一人いる。
ひげ面の店員はそう言っていた。真偽のほどがわからない話だが、何らかの情報が聞けることに間違いはないと思った。
ラスターは今まで一度も他の大陸へ渡ったことはない。ルパに来たこともそうだし、海を見たのも初めてだ。隣国ならともかく、今いるこの国ですら、まだまだ知らないことが多い。
ずっとここにいただけでは、これから先のことも何ひとつ見えてこないだろう。
知らないことばかりだ。その分新しく知っていけて楽しい。腕を真っ直ぐに伸ばしてみる。
開いた手の向こう側、太陽を浴びた海がきらきらと光っている。
「きれい」
この海の先に、アルティナ王国も輝石の島もある。どのくらい遠いのだろう。遥か遠くの地に思いを馳せる。
水平線の先にある別の場所。
昔はこの国の他には何もないのだと思っていた。自分の足で向かえる場所が全てで、馬車を使うことも、船を使うことも知らなかった、今よりもっともっと小さかったあの頃。どちらも乗ったことはないけれど、今ではそういう方法も存在するのだということを知っている。
船で、別の国へ。そんなことを、考えもしなかった。
移り変わる時代とその中で培われた技術の積み重ねが、人々を海の向こうへと送り出した。
輝石の島はどんなところなのだろう。ルパよりも広いのだろうか? 見たことがないものがあって、聞いたことがないものもあって。ラスターの知らないものがきっと山ほどあるのだろう。未知の場所へ向けていた逸る気持ちを抑え、手を下ろしてそこから離れる。
またあとで、ここに来たい。この港にやって来るのだ。絶対に。
そうして今の自分に教えてあげたい。輝石の島はどんな場所だったのかを。きっと素敵な出会いとなるに違いない。
そう、今度この場所に来るときは、シェリックも一緒であるように願って。