第7話 - 指折り浮かぶ疑問点
「――もうこんな時間か」
思った以上に長らく世間話に興じていたらしく、目に入った時計の針は正午近くを指していた。
「なかなか帰ってきてこないもんだからすっかり夢中になってたな。客も増えてきたことだし」
朝はなかった話し声が周囲に増えている。シェリック同様にリディオルも周りを見回してつぶやいた。
「そうだな。ひょっとすると、嬢ちゃんに気ぃ遣わせちまったかもしれないな。悪い」
「気にするな。あいつはあいつで買うものがあったようだし、お前が気にすることじゃない」
「そうか? お前の連れだろ? 冷たい奴だな」
リディオルは卓の上で長い指を組んだ。色白で、ともすれば簡単に折れてしまいそうな細い指である。
「旅の連れだろうが何だろうが所詮は赤の他人だ。あいつは俺の家族でも何でもない」
決して突き放したものではなく、事実を言ったまでだ。けれどもシェリックのその言い様を聞いたリディオルに眉をひそめられた。
「それを言ったら、家族以外は全員赤の他人になるぞ」
友人であろうと仲間であろうとそんなことは関係なく、全てがひとくくりになってしまう希薄な関係。それで良いと思っている自分がいる。
「少なくとも俺はそう思ってる。ラスターと出会ってから三年近くなるが、あいつのことは何ひとつ知らないのと同じだ。互いの過去には干渉しないのが暗黙の了承でな」
「――は?」
特に決めたわけではない。いつの間にかそうだと、互いに思っていたことだ。
「じゃあ、何でお前があんなところに入れられたのか、あの子は知らないで助けたのか!?」
短い間絶句したあと、リディオルはシェリックに詰め寄った。助けられた、ともまた違うのだけれど。それを説明しても何にもならない。
シェリックが最果ての牢屋から出てきた経緯を、リディオルには既に話してある。ここでお前に会わなきゃあっちまで行くところだった、と言われても、そんなこと知ったこっちゃないのだけれど――閑話休題である。
「ああ」
言葉よりも浮かべられた表情から、彼の言いたいことは明白で。
「お前も嬢ちゃんも、あきれるくらい無関心だな……それでいいのかよ?」
「良くはないな」
「おい」
「話したところで俺の現状が変わるものでもないだろ」
「そりゃそうだけどなぁ」
けれど、リディオルがそう言いたくなるのも当然か。何も知らない者が今の話を聞けば、ラスターは脱獄を助けた者として認識されてしまうのだから。
看守があまり様子見に来ない場所ではあったが、シェリックがいたところは立派な牢屋だ。要するに彼は今、世間で言う脱獄犯なのである。
先ほど寄った分と同じだけの距離を取り、リディオルは足を組み替えた。
いつ連れ戻されてもおかしくないと思ってはいたけれど、まさか旧友がやってくるとは。
「事情を何も知らない奴に話すことで、新しい考えが見つかることだってあるぜ?」
「それはお前の持論か?」
「さてね」
ふう、と息を吐いたところを見ると、釈然としなかったものを無理やり納得させたように思える。
「そんな得体の知れないお前がよく連れ出されたな。看守の目が浅いとは言え」
「ははっ、その呼び方は酷いな」
思わず笑みが漏れる。我ながらなんたる汚点がついたものか。
「事実だろ? 何も話してないんなら、嬢ちゃんにとってお前はただの獄囚だ。それ以上でも、それ以下でもねぇよ」
「その呼称、なんとかならないか?」
「ならねぇな」
シェリックは肩を震わせてひとしきり笑い、そうだなと思い返す。
「あそこの見張りはやる気もなかったからな。その点に関しては問題なかった」
「へぇ……」
彼らの間にあった言葉が切れる。視線を外したリディオルにならい、グラスの底に少しばかり残った酒を飲み干す。
――行こっか。
ラスターに連れられて、彼女についてきたのは自分だ。別に頼まれたわけではない。ただ、なんとなくそうして、なんとなくここまで来た。
これから先もこのままでいいわけがない。ラスターがずっと誰かを探しているように、シェリックにもやらなければならないことはあって――
「――なあ、何で嬢ちゃんは最果ての牢屋なんかに行ったんだ?」
思案顔でいたリディオルは、唐突に根本的なことを尋ねてきた。しかしラスターではないシェリックには知る由もない。なぜ助けられたかなんて、こっちが訊きたいくらいだ。
「考えてもみろよ。牢屋だぞ? 好んで行きたい場所でもないだろうよ」
そう、シェリックがいたのは牢屋だ。子どもが――いや、大人でもそう簡単に入って行けるようなところではないし、入って行きたい場所でもない。中にいるのは、罪を犯した人たちなのだから。
「俺が知るか。あいつは雨宿りと言ってたが」
「雨宿り? 近くに村があったのにか?」
「……村?」
今度はこちらが訊き返す番だった。
そういえばあの時、ラスターは自分の村を出てきたと言っていた。もしかしたら、そこがラスターの村だったのかもしれない。
――ないものに帰れって言われても。
確か、そんな感じの言葉を口にしていなかっただろうか。
「知らないのか? 地理は得意分野だっただろ?」
「いつの話だ」
懐かしい単語に思わず苦笑した。以前も良くこんな感じで話をしていたなと、思い出す。感慨に浸るなんてらしくもない。きっと、ここで彼に会ってしまったことが運の尽きだったのだろう。
「――ああ。いくらお前でも昔の話は知らないか」
何か引っかかる言い方に身を乗り出しかける。
「おい、それはどういう――」
シェリックは、はっとして口をつぐんだ。リディオルが目線で入り口の方を示したのだ。
何も言わずに、酒ではない方のグラスをあおる。喉をうるおしたかったのだが、言いかけた言葉も一旦飲み込んでしまいたかった。
「ただいま。お腹空いたー」
そのまま黙って待っていると背後から元気な声が降ってくる。今話をするには頃合いが悪かった。
「遅かったな」
たった今気づいたふりをし、ようやく後ろを向く。シェリックが見たものは、両手いっぱいに荷物を抱えたラスターの姿だった。今まさに話題に上っていたということはおくびにも出さずに。
「早く荷物を置いてこい。その様子だと、昼は食べてないんだろう?」
「うん。おじ――お兄さんにおごってもらったから、少しは大丈夫なんだケドね」
「そうか。ほら、何か軽く頼んでおくからとっとと行ってこい」
「はーい」
ラスターは返事をして奥の階段へと歩いていく。荷物を持つ後ろ姿がどうも危なっかしいが、うまく平衡を取っていて、運ぶこと自体は器用だ。
「それで――村が、何だって?」
ラスターが階段を登ったのを確認してから、中断していた話題を引っ張り出す。
リディオルも、今度は話してくれた。
「そこの村が全滅したんだよ。人が死んだわけじゃないんだが、流行り病みたいな症状が蔓延してな」
「流行り病? あの辺りでは聞いたことないぞ?」
「みたいな、だ。症状からして、多分ありゃ毒の類いだな」
「――毒?」
穏やかでない単語が出てきて眉をひそめる。
「そ。遅効性の麻痺毒。軽いもんではあるんだが、いかんせん取り入れちまった期間が長かったらしく、村人のほとんどの手足が動かなくなっちまって重症だよ」
聞くだけでも痛々しい話だ。村が全滅するほどとなると、原因は一体何だろうか。いや、そもそもだ。
「――リディ。それは俺が聞いていい話なのか?」
「まずいな。外に漏らす情報じゃねぇし」
「お前な……」
しれっとした顔で何を言うのやら。
「ここしばらくはずっと働きづくめだったんだ。旧友と会った時くらい、口が軽くなってもいいだろ?」
「あのなあ……どう考えてもよくはないだろう」
「冷てぇ奴だ」
この男と話していると、時折無性にため息が吐きたくなるのはどうしてだろうか。
「リディ。お前、このあとはどうするんだ? 王国に渡るのか?」
彼のいるべき場所はここではない。
外套を飾る見慣れた留め具がそれを物語っている。留め具に象られた立体的な紋章は、彼の属する場所を示すもの。知る者が見たならその意味を容易に察する。
「ん? あー、まあな。こっちに来たのは単なる様子見でね。お前と無事に再会できたのがひとつの収穫だったか」
「そりゃどうも。おだてても何も出ないぞ」
「それを言うなら、初めから期待するだけ無駄、じゃねぇか?」
薄く笑みを刻んだ。
「よくわかってるじゃないか」
「そりゃあ昔からのつき合いだからな。多少なりとも理解はするさ」
リディオルはそこで浮かべていた笑みを消し、真面目な顔をして言った。
「――さっきの話だ。戻ってこねぇか?」
「……」
潜められた声。そう来るのは何となく察しがついていた。その話題は、互いに避けていたのだから。
「もう一度言う。俺が戻れるわけがないだろう。あの事件で投獄された俺が、許されると思うのか?」
ふとした拍子によぎる彼女の後ろ姿。鮮血に染められた、栗色の長い髪。
あんな最悪な形でことを起こし、切り離さざるを得なかった人間なんて戻れるわけがない。戻ったところで腫れ物扱いされるのが関の山だ。
「――俺らは必要としてるぞ」
はっとした。知らず知らずの内に感傷に浸っていたようだ。本当に、らしくない。
「いくら必要とされても、奴らは名前と名誉を第一に考える。そんなところに俺が戻ったら汚点がつくのは必至だろう。奴らにしても、それだけは避けたいんじゃないのか?」
リディオルの困ったように笑ったところを見ると、図星だったのだろう。昔から変わらずだ。
「否定はしねぇよ。いち個人の言い分なんざ通るとも思えねぇし。けどな、力を貸してほしいのは本心だ。今はその気にならなくてもいい。頭の隅にでも留め置いてくれ」
「――ああ。考えておく」
互いに避けていた会話にようやく区切りがついたところで、リディオルは席から立ち上がった。
「じゃ、またきりきり働きますかねぇ」
シェリックとともに夜通し飲んでいたとは思えない身軽さである。少し羨ましい。
「お前、なんでそんなに元気なんだよ……」
こちとらそろそろ限界だというのに、リディオルの顔には疲労感が全く見えない。
「若さかね?」
「ひとつ下に若さうんぬん言われたくないな」
「そりゃ年上のひがみだ」
「黙れ」
「冗談だっつの」
そう言うなり、卓上にあった伝票をすっと抜いていく。
「おい、それは」
「王国の金払いで承った。そっちは資金削っちゃまずいんだろ、貸しひとつな?」
「借りたところで、そんな高額じゃ――」
シェリックは言いかけた言葉を呑み込む。ひとつ思い出したことがあった。
言い出したら聞かない。
そうだ、それもリディオルだった。
「……わかった、任せる。代わりに持ってけ」
「ん?」
いつも持ち歩いている小さな瓶を投げて寄越す。
「何だこれ?」
「滋養特効の栄養剤」
「っはは! これ、今は俺よりもお前に必要じゃねぇか?」
人が渡したもので笑うとはどういう了見だ。シェリックは右手の平を差し出した。
「いらないなら返せ」
「ありがたく頂戴しよう」
「素直に受け取っておけばいいんだよ。これで貸し借りはなしだ」
いちいち面倒くさい奴である。
「なに、お前これどうしたわけ? まさか栄養剤にはまってるとか言わねぇよな?」
それでもまだ堪えきれないものがあるらしく、リディオルは笑みをにじませながら訊いてきた。
「あいつに持たされてるんだよ。いいからお前も持っとけ。効果は俺が保証する」
「へぇ?」
リディオルはその包みをもの珍しそうに眺め、満足したのか懐にしまいこんだ。
「大事に使わせてもらう。嬢ちゃんにはよろしく伝えておいてくれ」
「ああ。お前には関わるなと言っておく」
去ろうとした背中が振り返る。
「ひでぇな」
「お互い様だ」
人を散々けなしておいて今更何を言うか。
「じゃ、生きてたらまたそのうち」
「ああ。お互い生きてたらな」
それを合図に、リディオルは外へと向かう。途中で捕まえた店員と話して勘定するのを見届けてから、シェリックは別の店員を呼んだ。何品かを新しく注文する。
そろそろラスターが戻ってきてしまうだろう。
「……ねみい」
音になるかならないかの瀬戸際のような声でつぶやき、シェリックは足を組み直した。組み直して眠気がなくなろうものならいくらでもやるのだが、残念ながらそんな効果は期待できそうにない。
そういえば。リディオルと話し通しだったから、まだルパを回っていない。ラスターは今見てきたようだからいいとして、あとで自分も見に行かねばならない。
――戻ってこねぇか?
リディオルはそう言ったが、戻れるわけがない。牢屋から脱獄した囚人が、どうして戻ることができようか。
けれどもし。あちらに行く機会があったなら、どうしてもしなければならないことがある。
――シェリック。
彼女に――
**
荷物を開け、粗方片づけたラスターがパタパタと小走りで向かった先。そこには一人の姿しか見当たらなかった。
「あれ? シェリック、さっきの人は――」
腕組みをしてうつむいている彼に問いかける。答えがなく、もう一度シェリックを見たところで様子がおかしいことに気づいた。
「寝てるし」
よくよく耳を澄ましてみれば、穏やかな寝息を立てている。
延々と歩いたあとからの夜中にずっと飲んでいたようだから、それは眠気の限界が来ても仕方ないだろう。
「シェリック、シェリーック。ここで寝たら風邪引くよ?」
「――ん?」
肩を強めに揺さぶってやると、シェリックはうっすらと目を開けた。
「――悪い。気が抜けた」
「大丈夫? 部屋までついていこうか?」
「いや、いい」
意識ははっきりとしていないようだが、辛うじて言葉を発してくれる。こちらとしては有り難いけれど、そこまで気を使わなくてもいいのに。
「適当に頼んでおいたから、足りなかったら追加しろ。――寝てくる」
「わかった。おやすみー」
意識のわりにしっかりとした彼の足取りを見送り、大人って大変だなあと思う。ひとまずご飯を食べて、シェリックが起きたら話をしよう。
食事は大切である。旅の途中で食いっぱぐれることも珍しくなかったため、食べ物に関しては弱い。
「いただきます」
やがて運ばれてきた料理を前にして、ラスターは両手を合わせた。