第22話 - 最後の願い 3
ねえさんとの駆け落ち騒動から随分月日が流れて、ほとぼりがさめた数年前。
おじさんはもう一度あの頃の夢を見たくて、ここに戻ってきたと言った。
「あの子が中学卒業するほんの少し前にな……夜に二人で会うてる時に、競馬場の前を通ったんや。そしたらあの子が、『馬が目の前で走るの見てみたい』言うてな……。『ほな、もうすぐ桜花賞あるから一緒に行こか』言うて……一緒に桜花賞観に行く約束したんやけどな……」
結局、約束した桜花賞の日の2日前に駆け落ちしたことで、桜花賞を観に行く約束は果たされなかったそうだ。
「『競馬場には〈パドック〉言う所があってな、これからレース走る馬をすぐ目の前で観る事ができるんやで』って教えたら、『ほな、もしはぐれた時はパドックで待ってるわ』って、あの子が言うたんや。そんなことを思い出してな……。ここに戻って落ち着いた頃、競馬場に行ったら、パドックにあの子がおった……。俺のことは忘れてしもてんのに、あの子はパドックで待ってたんや」
おじさんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
肩を震わせて、声を殺してむせび泣くおじさんの背中を、僕はたださすってあげることしかできなかった。
ああ……だからなのか。
ねえさんはいつも、パドックにいた。
日曜の朝、僕が競馬場に行くと、馬がいようがいまいが、ねえさんは必ずパドックにいた。
覚えていないはずのおじさんを待っていたのかも知れない。
何度顔を合わせても、かつて将来を誓い合ったはずの先生を思い出すことのないねえさんに、おじさんは正体を明かさなかった。
愛し合った日のことは覚えていなくても、競馬場にいるその時だけは過去も何もかも忘れて、ただの競馬好きの『おっちゃん』と『おねーちゃん』でいることで、二人は繋がっていられたんだ。
ただそこにいて笑ってくれることが救いだったと、おじさんは涙を流しながら言った。
「なあ、アンチャン……。最後にひとつだけ、お願いがあるねん」
「……なんですか?」
おじさんは部屋の片隅の引き出しから、小さな箱を取り出した。
「これな……あの子に……おねーちゃんに渡してくれへんか?」
小さな箱の中には、淡いピンク色の宝石がついた指輪が入っていた。
「おじさん……これ……」
「安物やけどな……事故に遭う直前に買うたもんや。それまで幸せなことなんかなかったあの子に、せめて幸せな未来の夢を、俺の手で与えてやりたかった……」
事故に遭った時に手元に持っていたのか、ベルベット調の深紅の箱には、少しひしゃげた跡が残っている。
「若気の至りっちゅうやつかな……。あの子が俺の記憶を失うた言うことは、俺のことは忘れてしもたままの方が、あの子にとっては幸せやったんかも知れん……。だから、ホンマのことは言わんといてくれ」
おじさんは僕の手にその小さな箱を握らせて、涙ながらに頭を下げた。
「俺のことは忘れてくれてもええ。でもな……あの子には幸せになって欲しい……。アンチャン、頼む……。あの子を幸せにしたってくれ……」
古びた窓の外にはいつの間にか雨が降りだし、雨脚はどんどん強くなった。
雨粒は窓ガラスを激しく叩く。
最終レースはきっと重馬場だったに違いない。
おじさんは長くつらい過去の話を終えたあと、疲れてしまったのか、布団に横になってすぐに寝息をたて始めた。
しばらく黙って雨の音とおじさんの寝息を聞いていた僕は、手に握りしめた小箱の中の指輪を眺めてため息をついた。
窓を伝う雨粒のように、僕の頬をいくつもの温かいしずくが滑り落ちていく。
「明日は晴れるといいな」
僕の空々しい独り言は、窓を叩く激しい雨音にかき消された。
土曜日の休日出勤を終えて、日曜日の朝。
僕はおじさんから預かった指輪をバッグに入れて、競馬場へ足を運んだ。
レースもそっちのけでパドックで待ったけれど、最終レースが終わっても、ねえさんは姿を見せなかった。
あの夜のことがあるから、やっぱりここには来づらいんだろうか?
競馬場からの帰り道、おじさんのアパートに寄ろうかと思ったけれど、すぐに踵を返して駅に向かった。
おじさんはあの部屋にはもういない。
何日か前に、知り合いの運営しているホスピスに移っているはずだ。
僕はあの日、おじさんと約束した。
先の長くない自分とは、もう関わらない方が僕のためだと、おじさんは涙ながらに言った。
『アンチャンには、カッコ悪いとこばっかり見せてしもたな。俺かて若い時は生徒らに慕われてな、少しはカッコ良かったんやで。アンチャンは……俺の笑ってる顔だけ、覚えといてくれや』
そう言えば先輩が、先生と僕がなんとなく似ていると言っていた。
見た目は似ても似つかないはずなのに、どこがどう似ているのか、わからないけれど。
地方の競馬場で開催される夏競馬の時期が過ぎて、またこの競馬場でレースが開催されるようになり、少しずつ秋の気配が深まってきた、9月の最終週。
今日はこの競馬場で、菊花賞のトライアルレースでもあるGⅡの神戸新聞杯が開催される。
あれからも僕は相変わらず、日曜日になると競馬場に足を運んでいる。
ねえさんに会えることを願いながら毎週パドックで待ったけれど、一夜を共にしたあの日から、一度もねえさんには会っていない。
ひとつだけ変わったことと言えば、先週、おじさんのいるホスピスに足を運んだことだ。
おじさんとの約束を守ろうか、それとももう一度会いに行こうかと迷っているうちに数週間が過ぎ、競馬場に行ってもねえさんとは一度も会えず、指輪を渡すことはできずにいた。
その日僕は、仕事を終える頃に妙な胸騒ぎを覚えた。
気のせいかと思いながらジムに足を運びかけたけれど、気が付けば僕の足は駅に向かっていた。
なぜだろうと不思議に思いながら不意に手を入れた鞄のポケットの中で、おじさんから預かった指輪の入った小箱が指先に触れた。
どうしてこんな所にこれがあるのか?
夕べ遅く、寝ぼけていたのか、バッグの中の物を通勤鞄のポケットに移した記憶が微かに蘇る。
僕は仕事を終える頃に覚えた妙な胸騒ぎを思い出し、スマホを出しておじさんのいるホスピスの場所を調べた。
おじさんに会いに行こう。
男同士の約束をやぶるのは忍びないけれど、そんなことを言っている余裕は僕の中にはなかった。
電車を乗り継いで1時間ほどかけてたどり着いたその建物は、人目を忍ぶようにひっそりと佇んでいた。
『木蓮の家』と小さなプレートが掛けられた玄関のドアを開けると、スタッフらしき人たちが慌ただしく動き回っていた。
受付の前で立ち尽くす僕に、スタッフの名札をつけた初老の男性が声を掛けてくれた。
おじさんに会いたいと言おうとしたけれど、困ったことに、僕はおじさんの名前を知らない。
僕が知る限りの、背格好や病状などのおじさんについての情報を話すと、その人はすぐにおじさんのことだと気付いてくれた。
案内されたその部屋で、おじさんは安らかな顔をして眠っていた。
「ついさっきな、息を引き取ったんや」
その人はおじさんの最期の様子を教えてくれた。
苦しむ様子はなく、ただ一言『幸せにしてやれんでごめんな』と呟いて、静かに逝ったそうだ。
ホスピスのスタッフが、おじさんの伸びた髭をカミソリで綺麗に剃って、濡らしたタオルで丁寧に顔を拭き、ボサボサに伸びた髪を櫛で整えた。
「おじさん、ホントはこんなイケメンだったんですね。隠してるなんてずるいよ……」
もう目を開けることはないおじさんの痩せた手を握りしめて、僕は泣いた。
もっと早く会いに来れば良かった。
思い出すことはできなくても、せめてもう一度、ねえさんと会わせてあげたかった。
おじさん、ごめんなさい。
僕はねえさんの心の隙間につけこんで、この手でおじさんの大切なねえさんを抱きました。
ねえさんの心は、本当は僕を求めてなんかいなかったのに。
だけど僕は、どんなつらい過去を聞いても、ねえさんが好きです。
おじさんの代わりに、とは言いません。
僕は、僕自身のこの手で、ねえさんの笑顔をずっと守りたい。
できることなら、おじさんよりもねえさんを幸せにしたいです。
おじさんは、それを許してくれますか?