第23話 - いつの日かまた、パドックで 1
メインレースの神戸新聞杯が終わり、最終レースに出走する馬たちがパドックを周回し始めた。
神戸新聞杯を目当てに来場していた観客の多くが、競馬場を後にし始める。
僕はパドックで周回する馬たちをぼんやりと眺めながら、今日もねえさんは来ないだろうとあきらめ始めていた。
「まだ最終レースもあるのにな……」
思わずポツリと呟く。
自分だって目の前にいる馬たちのレースはそっちのけで、ねえさんを待っているくせに。
最終レースを観ずに帰ってしまう人たちのことは責められない。
ねえさんとはもう会えないのかな……。
おじさんがこの世を去って、ねえさんは競馬場に姿を見せなくなって、僕はひとりぼっちだ。
初めて競馬場に足を運んだあの日は、まさかこんな出会いと別れが待っているとは思わなかった。
僕は込み上げる涙をこらえながら、指輪の入った小箱を手の中でギュッと握りしめた。
おじさん、お願いです。
ねえさんに会わせて下さい。
おじさんから預かった指輪を渡すことも、僕のこの想いを伝えることもできないまま、もうねえさんに会えないなんてつらすぎる。
ねえさんに会いたい。
たとえ僕の気持ちは、ねえさんに受け入れてもらえなくても。
周回していた馬たちが、厩務員に手綱を引かれ、本馬場へ向かって移動し始めた。
パドックにいた客たちも、思い思いの場所へゾロゾロと流れて行く。
パドックのモニターでは、最終レースに出走する競走馬たちの本馬場入場の様子が流れている。
僕はパドックの観覧席の片隅に座ったまま、背中を丸め膝に肘をついて、両手で顔を覆った。
頬に触れた指先は、無意識のうちに溢れた涙で濡れていた。
ねえさんは今日も来なかった。
もう何週間会っていないだろう?
このまま会えなかったら、僕は……。
「最終レース、始まるで?」
ずっと聞きたかったその声に顔を上げると、僕の目の前にはねえさんがいて、その向こうのモニターには、無事にゲートインを済ませた馬たちがスターターの合図を待つ様子が映し出されていた。
「……何泣いてんのん?」
ねえさんは細い指先で、僕の目元をそっと拭った。
「ねえさん……ねえさん……!」
最終レースのゲートが開き、全馬一斉に飛び出した。
観客たちの歓声を聞きながら、僕はねえさんの肩口に額を預けて泣いた。
ねえさんは僕の背中に腕を回して、優しくトントンと叩いてくれた。
「ねえさん……会えて良かった……。もう……二度と会えないかと……」
「大袈裟やわ……。大人の男が、こんくらいのことで泣いたらあかんやろ?」
「……うん……」
ねえさんは少し笑ってポケットからハンカチを取り出し、涙で濡れた僕の顔を拭いてくれた。
「そう言えば……おっちゃんは?今日は来てへんの?」
ハンカチをポケットにしまいながら、ねえさんは尋ねた。
おじさんが亡くなったことは、伝えた方がいいんだろうか?
それとも、遠くへ行ったとだけ伝えるべきなんだろうか?
「おじさんは……もう、ここには来ない……」
「え?」
「これ、ねえさんに渡してくれって、おじさんから預かってたんです」
僕はおじさんから預かった指輪の入った小箱をねえさんに差し出した。
ねえさんはそれを受け取り、ゆっくりと蓋を開く。
「何これ……指輪?なんで……?」
「もう……会えないから……今までねえさんに何度も馬券当てさせてもらったお礼に、プレゼントだって……」
僕の下手な嘘に、ねえさんは気付いていないだろうか?
僕はうまく笑えているかな?
ねえさんは指輪をじっと眺めて、そっと手に取った。
「おじさんがね……ねえさんには、幸せになって欲しいって、言ってました……。ねえさんと一緒に過ごせて楽しかった、出会えて本当に良かった、って……」
ねえさんは指輪を眺めながら、ポロポロと涙をこぼした。
自分が泣いていることに驚いて、ねえさんは慌てて涙を拭った。
「あれ……?なんでやろ……?なんでアタシ泣いてんのやろ……?」
おじさんは僕にこの指輪を託した時に言っていた。
『これな……あの子が欲しがってたもんなんや。あの子は口には出さんかったけど、一緒に買い物行った時に見掛けてな……。やっぱり女の子やな、目ぇキラキラさせとった……』
もしかしたらねえさんは、失ってしまった記憶の片隅で、この指輪を覚えているのかも知れない。
愛する人と穏やかに過ごした、束の間の幸せだった日々の記憶を守るため、誰にも汚されないように、心の奥に閉じ込めてしまったんじゃないだろうか。
「アンチャン、ごめんな。アタシ……ホンマはもう、ここには来んつもりやった……」
やっぱり……。
もう、僕には会いたくなかったんだな……。
「でもな、夕べ、夢見たんよ」
「夢……ですか?」
「うん……。夢におっちゃんが出てきてな、『ありがとう』言うて何回も頭撫でてくれてさ……。『誰にも遠慮なんかせんでええ、今度こそ幸せになれよ。パドックで待ってるで』って……」
おじさんは最期にどうしても会いたくて、ねえさんの夢の中まで会いに行ったんだろう。
最期の時まで自分の正体を明かさなかったなんて、おじさんは人が好すぎるよ。
それだけねえさんを大事にしたかったんだな。
「なぁ、アンチャン……正直に言うて。もう会えんって、もしかしておっちゃん……」
ねえさんは勘付いているみたいだ。
つらいけれど、隠すのはもうやめよう。
僕はゆっくりと口を開く。
「……先週、おじさんの知り合いが運営しているホスピスで……」
「……おっちゃん……死んでもうたん……?」
僕が黙ってうなずくと、ねえさんは大粒の涙をこぼした。
「おっちゃん、アタシになんの断りもなく死ぬってどういうこっちゃ!散々儲けさせたったのに、挨拶もなしか!」
ねえさんは涙を拭って、無理して作り笑いを浮かべようとした。
その泣き笑いが痛々しくて、僕はねえさんを強く抱きしめた。
「ねえさん、無理して笑わなくていいんです。大事な人とのお別れの時はね……思いきり泣いていいんですよ……」
ねえさんは僕の胸に顔をうずめて、子供のように声をあげて泣いた。
僕は涙を堪えて、ねえさんを抱きしめていた。