第10話 - 恋人ごっこ 1
あっという間に、また日曜の朝がやって来た。
僕は少しソワソワしながら、いつものように電車に揺られ競馬場に向かった。
今日はねえさんに会えるかな。
おじさんの具合も気に掛かる。
こんなに暑いのに、たいした馬券も買わない僕が開催日でもない競馬場にせっせと足を運ぶなんて、ホントにおかしな話だ。
そう言えばこの間、『最近付き合いが悪いな』って、先輩から言われたっけ。
先輩は合コンに来いとか、女の子のいるお店に行こうとか、何かにつけて僕を誘ってくれるけど、そんなものは今の僕にとって、なんの価値もない。
僕が心から会いたいと思う女性は、ねえさんだけだから。
しばらくねえさんに会っていない。
会いたい。
どうしようもなく、会いたい。
本当は日曜日だけじゃなく、毎日だって会いたいと思う。
競馬場でだけじゃなく、次に会う約束ができる関係になりたい。
それにしても暑い。
仁川の駅から競馬場に向かう途中の自販機で、ペットボトル入りのコーヒーとスポーツドリンクを買った。
一度競馬場に入ると、わざわざ飲み物を買いに建物の中に入るのが煩わしいので、先に用意しておくことをいつの間にか覚えた。
買った飲み物をバッグに入れて、競馬場を目指してまた歩き出した。
競馬場に着いた僕はいつものように真っ先にパドックに向かい、目を皿のようにしてねえさんの姿を探す。
いつものことながら女性客の姿は少ない。
数少ない女性客の隣に背の高い男性の姿を見掛けるたびにドキッとしてしまう。
そのカップルの向こうに視線を移した時、割とあっけなくねえさんの姿を見つけた。
……いた!ねえさんだ!!
僕は慌てて階段を駆け下りて、ねえさんのそばを目指した。
ねえさんはうつむき加減で、いつになくぼんやりしている。
そう言えばねえさんはいつも、レース前になるとパドックにいる。
開催日なら馬を見るためにいるのだろうけど、開催日でない日でも、必ずここにいるから不思議だ。
「おはようございます」
僕が声を掛けると、ねえさんはゆっくりと顔を上げた。
「アンチャン……おはよう、久しぶりやな」
「久しぶりですね。しばらく顔見なかったから心配してたんですよ」
「そうか、ごめんな。ちょっといろいろ忙しくてな……」
ねえさんの横顔に疲れが見える。
どうしてそんなに忙しかったのか、聞こうと思ったけどやめておいた。
なんとなく、聞ける雰囲気じゃなかった。
「ちょっと疲れてます?」
「ああ、うん。そうかも知れん」
「コーヒーでも飲みますか?」
僕がバッグから取り出したコーヒーを差し出すと、ねえさんは僕の方を見て笑った。
「ありがとう」
ねえさんはコーヒーを受け取り、ペットボトルのキャップを開けて一口飲んだ。
「優しいなあ、アンチャンは」
優しいなあ、って……。
たいしたことはしていないけれど、ねえさんにそう言われると素直に嬉しい。
できればもっと、優しくしたいんだけどな。
その日、結局おじさんは来なかった。
ただ暑いから部屋でのんびりしてるだけならいいんだけど、やっぱりまだ具合が悪いのかと気になってしまう。
「おっちゃん、今日は来んかったな」
「そうですね……」
おじさんの具合が良くないことを、ねえさんに話した方がいいだろうか?
「まあ、おっちゃんかって、たまには競馬より大事な用もあるやろ」
だといいんだけど……。
この間の別れ際に見た力なく笑うおじさんの顔を思い出し、あの部屋でたったひとりで苦しんでいなければいいなと思う。
「アンチャン、今日は勝ったなぁ」
珍しく何度も予想が的中して、今日はかなり儲かった。
別に儲けるために来ているわけじゃないから、ここはねえさんに還元しよう。
「珍しく当たりました。晩御飯でも食べに行きますか?好きなものご馳走しますよ」
「ホンマに?何食べさしてもらおかな」
ねえさんは楽しそうに笑った。
こんな風に可愛らしく笑っておねだりされたら、どんなお願いでも聞いてしまいそうだ。
「お寿司でも食べますか?もちろん廻ってないやつ」
「それもええけど、お寿司より肉がええな。焼肉食べたい!」
「よし、じゃあ焼肉行きましょう!」
競馬場を出て、僕とねえさんは駅のそばの焼肉屋に足を運んだ。
その店は半個室になっていて、なんとなく二人きりになったようで緊張する。
「焼肉なんか久しぶりや」
「僕もです。好きなもの注文して下さいね」
「アンチャン、太っ腹やなあ」
何種類かの肉と野菜の盛り合わせ、それから生ビールを注文した。
ジョッキのビールで乾杯して、運ばれてきた肉や野菜を網の上に乗せた。
肉の焼ける匂いが食欲をそそる。
ねえさんは肉が焼けるのを眺めながらビールを飲んでいる。
朝は疲れているように見えたけど、今は随分表情が明るい。
気分がまぎれたのか、それとも少し無理をしてなんともないふうを装っているのか、どちらだろう?
なんとなく、ねえさんのビールを飲むペースが少し早い気がした。
「ねえさん、飲むペース早くないですか?」
「アンチャンの奢りやから美味しいねん」
「だったら急いで飲まなくても大丈夫です。僕の気がいきなり変わったりはしませんから、ゆっくり飲んで下さいね」
そう言って、僕が網の上の肉をひっくり返しながらビールを飲んでいると、ねえさんはジョッキを片手にニヤッと笑った。
「ホンマに優しいなあ、アンチャン。自分で気ぃ付かんうちに、女の子タラシ込んでるんちゃうかぁ?」
ねえさんのタチの悪い冗談に、僕は思わずビールを吹き出しそうになった。
そんなことができるなら、僕は今頃、もう少しくらいはモテているんじゃなかろうか?
「タラシ込むなんて人聞き悪いですね。僕にはそんな高度な技術ありません」
恋愛経験のない僕に、そんなのできるわけがない。
もしできるなら、僕はねえさんをタラシ込みたいんだけど……そう簡単にはいかないだろうな。
そんなことを思いながら、食べ頃に焼けた肉をねえさんの皿に入れてあげると、ねえさんはニコッと八重歯を覗かせて笑った。
「自覚してやってるやつは、ただのタラシや。アンチャンはそんなやつとちゃうって、わかってるよ」
ねえさんは箸でつまんだ肉にタレをつけて、僕の方へ差し出した。
「アタシもたまには優しくしたらんとな」
「え?」
ポカンとしている僕の方へ、ねえさんは身を乗り出して、うんと腕を伸ばしている。
「ちょっとだけ恋人ごっこでもしてみよか。ほらアンチャン、口開けて」
「ええっ……」
これって……いわゆる『あーんして』ってやつ?
夢?夢なのか?!
ねえさんの方からそんなことをしてくれるなんて!!
いや、もう夢でもなんでもいい!!
「早よ。腕疲れるやん」
「は、はい……」
おそるおそる口を開くと、ねえさんは僕の口に肉を入れてくれた。
「美味しい?」
「美味しいです……」
ねえさんの食べさせてくれた肉がまずいわけないよ!
こんなに美味しい肉を食べたのは生まれて初めてだ!
「言うても、アンチャンの奢りやけどな!」
ねえさんはいたずらっぽく笑って、今度は自分の口に肉を運んだ。
あ、その箸……今、僕の口に付きましたけど……!
直接キスをしたわけでもないのに、僕は顔を赤らめた。
そんなことはまったく気にも留めない様子で、ねえさんは美味しそうに肉を食べている。
「ほらアンチャン、焦げる焦げる!」
「あっ、はい!」
僕は慌ててトングで肉をひっくり返した。
こんな些細なことにさえ動揺している僕は、やっぱり子供みたいだ。
それでも僕はねえさんに会うたびにドキドキして、ねえさんが僕に笑ってくれるだけで、たまらなく嬉しい。