第9話 - これが恋でも、恋じゃなくても 4
次の週の日曜日も、ねえさんは競馬場に来なかった。
一体どうしたんだろう?
もしかしたら、もう会えないのかもと思ったりする。
その日も僕は、帰りにおじさんといつもの居酒屋でビールを飲んだ。
おじさんは今日も顔色が良くない。
やっぱり体調が悪いんだろうか。
おじさんは枝豆を口に放り込みながら、僕の浮かない顔を見て笑った。
「今日もおねーちゃんに会えんで残念やったのう、アンチャン」
「2週も続けて来ないなんて、どうしたんでしょうね。昨日は来てたんですか?」
「いや、来てへんよ。別に約束してるわけちゃうし、まあ、そんな時もあるわ」
ねえさんが姿を見せないこと、おじさんは気にならないのかな?
そもそも僕は、ねえさんが結婚しているかどうか、独身でも恋人はいるのか、何も知らない。
勝手にねえさんのことを独り身だと思っていたけど、もしねえさんに夫や恋人がいたら、完全に僕の不戦敗だ。
先週、ほんの少しおじさんの過去に触れたせいなのか、それともおじさんの調子が良くなさそうだからか、僕はねえさんだけでなく、おじさんが普段どんな生活を送っているのかも気になり始めた。
「おじさんは独り身なんですか?」
「そうやけど……それがどないかしたんか?」
「ひとりだと病気で寝込んだりすると大変でしょう。そんな時に頼れる人はいますか?」
僕が尋ねると、おじさんは意外そうな顔をして少し笑った。
「おらんけど、俺は独り身も長いしな。そんなもん、もう慣れたわ。なんやアンチャン、俺の心配してくれるんか?」
「心配ですよ。とても健康的な生活を送ってるようには見えないから。先週から、なんだか顔色悪いですよ」
「まあ、確かに健康的とは言えん。最近ちょっと調子悪うてな」
やっぱり体調が悪いのか。
おじさんはまた咳き込んでいる。
「無理すると良くないですよ。もう帰って休みますか?」
「ああ……飯食うたら……」
言葉も途切れ途切れに、おじさんはまた咳き込んだ。
そして、口元を覆っていたてのひらを見て、ギュッと握りしめた。
わずかではあるけれど、握りしめられたその手は、赤く染まっている。
「お、おじさん!血が……!!」
僕は慌てておじさんのそばに駆け寄った。
おじさんは背を丸めたまま、軽く手をあげて僕を制した。
「たいしたことない……。すまんな、心配かけて」
咳き込んで血を吐くなんて、たいしたことないわけがない。
もしかして重い病気なんじゃないだろうか?
「おじさん、すぐに病院に行きましょう。僕、付き添いますから」
「大袈裟やねん。帰って寝れば、ちょっとは良うなるし、大丈夫や」
「じゃあ、送っていきますから、すぐに帰りましょう」
「ホンマにアンチャンは心配症やのう……」
それから急いで会計を済ませ、おじさんの体を支えながら店を出た。
おじさんのアパートは、居酒屋から歩いて5分ほどのところにあった。
木造の文化住宅で、表札も入っていない。
いかにも男の一人暮らしと言う感じの殺風景な部屋だ。
とりあえず、おじさんを布団に寝かせた。
すぐに帰るのもなんだから、また血を吐いたりしないか、もう少しだけ様子を見てから帰ることにした。
「おじさん、飲み物とか、何か必要な物があったら買ってきましょうか」
「いや、大丈夫や。悪いな、気ぃ遣わせて」
「何言ってるんですか、当たり前でしょう」
おじさんは目を閉じて、何かを考えているみたいだ。
僕は殺風景な部屋の中をぐるりと見回した。
独り身だとおじさんが言っていた通り、他の人の住んでいる気配はない。
部屋の片隅には本棚があって、何冊かの本と一緒に、茶色い背表紙のアルバムらしき物が並んでいる。
あれは卒業アルバムかな?
うちの学校のアルバムも、たしかあんな感じだった。
おじさんが何十年も前の卒業アルバムを大事に持っているなんて意外だと思う。
おじさんの物にしては、少し新しい気もするけれど。
「今日はもう遅いし、帰りますね」
「ああ……悪かったな、面倒掛けて」
「気にしないで下さい。今夜はゆっくり休んで、明日必ず病院に行って下さいね」
病院に行くことを勧めると、おじさんは横になったまま苦笑いを浮かべた。
「アンチャン、オカンみたいやのう。俺の嫁にでもなるか」
「冗談よして下さいよ。せめて無精髭とボサボサの頭をなんとかしてから言って下さい」
「厳しいのう。アンチャンは面食いかぁ」
体はつらいはずなのに、おじさんは少し嬉しそうにそう言って、小さく声をあげて笑った。
翌日からは仕事に追われ、定時で上がれる日は少なかった。
残業すると帰りが遅くなり、ジムには行かずまっすぐに帰宅した。
おじさんはどうしているだろう?
あれから病院には行っただろうか。
ちゃんと食事はしてるかな。
日曜日には少しでも元気になっていてくれたらいいんだけど。
もし日曜日に会えなかったら、アパートに様子を見に行ってみようか。
だけどこれまで、自分のことを話す必要はないと言っていたことを考えると、そんなお節介は迷惑がられはしないだろうかとも思う。
もしおじさんが2週続けて競馬場に来なかったら、アパートに様子を見に行ってみよう。