
「日本復活」の最期の手=私はユタ州で怒ったことがなかった=
第一章、ユタでの経験
ローガンの教育委員会の委員長の家にホームステイさせてもらい、1年間ローガン中学校で教師をする機会にめぐまれたことがある。その1年間、私は怒った記憶がない。半年もしたら、さすがに不思議に思えていた。
日本にいる時は怒ることが多々あった。車を運転すればウィンカーも出さずに突然車線変更する車がいたり、あおり運転に出くわしたり。授業をすれば、モンスターペアレントが怒鳴り込んできて理不尽な要求を突き付けてきたり。
ユタ州では、路上では譲り合いばかりだった。ドライバーはいつもニコニコしていた。学校でも保護者と教師は連係プレイで生徒のことを案じていた。対立している場面を見たことがなかった。
日本からやってきた私に出来るだけ多くの経験をさせてやろうと、校長会はヨットのセーリングに誘ってくれたし、ボーイスカウトの招きを受けたりもした。
最初は
「これは何か魂胆があるではないか?」
と疑った。そんなに親切な人は日本で出会ったことがなかったから疑うしかなかった。しかし、予想に反してそれは純粋な親切心からだった。私は小さい頃から日本が世界の中でも稀な公徳心に溢れた秩序正しい社会だと教え込まれていたので、少しショックだった。
何がこんな違いを生み出しているのか?
それを知りたくてユタ州の人たちの生活を観察していた。そして、ある時にその疑問が解けた。それは、日曜日にアメリカの家族に付いて教会に行った時のことだった。教会では
「怒る人より、怒らせる人が悪い」
と教えていた。それは、日本の学校での指導と真逆だった。日本では非行少年が主役の学園ドラマが多い。非行少年を排除せず我慢強く指導したり、差別しないで付き合うのが善いことと教えられてきた。しかし、ユタでは逆で
「怒らせる行為をする方が悪い」
と、明快だった。
日本では偽善者が多く、口先でうまいことを言う人の多くは詐欺師の場合が多い。騙してお金を得ようとする人が多い。ユタで質問したことがある。
「なんで、見ず知らずの私のような日本人に親切にしてくれるの?」
すると、彼は
「生きている間に善行を繰り返すと、死んだ後で天国で神様に褒めてもらえる」
と、真顔で言った。
第二章 罪の文化・恥の文化
米国の人類学者ベネディクトが《菊と刀》(1946年)において用いた文化類型。西欧的な罪の文化では,道徳は絶対的な標準をもつものとされ,個々人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それに対して日本人の生活に見られる恥の文化は,他者の非難や嘲笑を恐れて自らの行動を律するという。したがって前者では,自分の非行を誰一人として知らなくとも罪に悩むのに対し,後者では,露顕しなければ恥ではなく,思いわずらうことはない,とされる。
この類型論は日本文化論の展開に大きな影響を与えた。その後,さまざまな批判が与えられてきたが,外国人研究者による日本研究の成果として取り上げられることが多い。
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私は日本の学校で育ったので、ローガン中学校の状態が本当にうらやましかった。私服だし、化粧も自由だし、クラスは存在しないし、午後2時半になったらみんな帰宅。夏休みは3か月間もあり、部活なんて存在しない。これこそが基本的人権の「自由権」であり、多様性の尊重だと思う。
日本では
「クラスの団結」「文武両道」など、訳の分からない価値観を押し付けて同調圧力が強すぎる。法的に何の根拠もないのに、事実上クラブは強制だ。
同じ制服を着なければならない。同じ鞄でなければならない。同じ髪型でなければならない。同じカリキュラムでなければならない。同じ問題集でなければならない。クラブは全参加でなければならない。これは、実態的には全体主義の訓練と言える。
この状況を欧米から見るとどう見えるか?
「中国、北朝鮮、韓国、日本、フィリピン、ベトナム、・・・。アジア版のEUなんて永久に出来ないな」
と呆れて、今後も政治上、経済上で白人優位のままだとほくそ笑んでいるに違いない。
「もう一度、アヘン戦争でも起こして文明というものを教えてやるか」
くらいにしか思っていない可能性はある。
私は「塾でのできごと」をここで書かせてもらっている。そんなことはユタでは起こらない。「督促状がきた」でも書かせてもらったトラブル。いなべ市役所の職員は、鍵をぶっ壊して父名義の土地・家屋に浸入して居座っている姉ではなく私にその固定資産税を支払うように言ってきた。
抗議をしたら
「オレたちは取りやすいところから取るのだ」
「誰が支払うかを一方的に決めるのはオレたちだ」
と言った。このような人間が市役所に勤務してはいけない。ユタでは起こりえない。なぜなら、聖書に書かれている教えに反する悪行だから。しかし、その職員は自分が正義の徒だと固く信じているらしかった。
近所の銀行に融資の相談に行った時も怒りを感じた。
「私どもは大規模塾が勝ち組、あなたのような個人事業主は負け組だと思っています」
と、融資を断ってきた。そんなことを口にしたら、無用の怒りを相手に引き起こすに決まっている。その支店は先月つぶれた。当たり前だと思う。市役所の職員は公務員だから淘汰されない。困ったものだ。
第三章、頭脳の流出
私は名古屋では国立大学の医学部を受験する生徒指導専門の予備校で指導させてもらっている。自分の塾でも10年間京大合格者が出ている。つまり、優秀な生徒の指導を行わせてもらっている。そういう子たちと気が合うのは、上記のような観察結果が一致しているから。
彼ら、彼女らはよく
「絶対にこの国から出て行く!」
と言う。なぜか。それは、上記のような日本の非民主的な学校運営にウンザリして絶望しているからに他ならない。
たとえば、アメリカで大ベストセラーになったウエイン・W・ダイアー博士は書く。
「この種の人と関わっていると、結局、世界最大の愚か者になってしまう。あなたを待ち受けているのは、いつ終わるとも知れぬ苦難の道だけなのだ」
「あなたはこんな愚か者の仲間入りをする必要は全くない。今すぐ彼らから離れるか、はっきり無視するかするのだ」
「どう生きるか、自分の人生!」(知的生き方文庫)三笠書房
賢い子は、
「あいつに近づくとロクなことにならない」
と思っても、日本の学校のように「クラス」という単位で縛られるとどうにもならない。同じ空間に閉じ込めるのは欧米ではありえない。しかも、「クラスの一致」という偽善の言葉や「班」まで作って強制的に関わらせようとする学校さえある。
その結果、イジメで何人「自殺」に追い込まれても制度を変えない。
田舎の地域社会では「自治会」や「組」が健在だ。私が
「自分はクリスチャンだから仏教や神道の儀式や慣習にはつきあえない」
と言っても、香典を求められ、お祭りの協力金の支払いを強要される。だから、「組」を抜けさせてもらうしかなかった。すると、また市役所の人が
「自治会を抜けるとゴミ出しが出来なくなる」
と恫喝してきた。本当に、このような基本的人権の理解さえ出来ない人は市役所に勤務するべきではないのだ。思考停止でモノを言うのなら早くAIと交代して欲しい。
多くの日本人は自覚していないが、現在の日本は江戸時代の鎖国状態に近い。科学技術でさえ「ガラパゴス化」と呼ばれ国際標準では通用しないことが多い。江戸時代は国内は天下泰平だったかもしれないが、欧米から大きく遅れをとり明治維新の時に混乱に陥った。追いつくのが大変だった。
日本は黒船や第二次世界大戦の敗戦など、外圧がないと自分では変われない国だ。日本だけが30年間不況で給料が全く上がらない異常事態になり若者たちは気づき始めている。
優秀な子たちはこの社会に絶望して「頭脳の流出」が起こっている。しかし、大半の人たちは破局的な事態が起こるまで気づかないのだろう。せめて、
1,ブラック校則全廃
2,ブラック部活の自由化
3,制服廃止
4,クラス解体(大学のように授業毎に生徒が移動)
5,飛び級やカリキュラムの柔軟化を進める
このくらいのことは、即日実施できるはず。やらないと、頭脳の流出は止まらず日本は三流国に転落していくことだろう。
肌着着用禁止の背景に「学校の文化」 教育の専門家が指摘
小学校での肌着を取り巻くこうした現状について、校則の問題に詳しい名古屋大学の内田良准教授に聞きました。 内田准教授はまず、肌着の着用が制限されていることについて「個人の自己決定の域に学校が入り込んでいるところが大きな問題」と指摘。また、そうした校則ができた背景については「学校の文化」が影響しているといいます。
セクハラです。教師も教育委員会も狂っているとしか言いようがない。何で学校が下着にまで口をはさんでくるのか。中国や北朝鮮でも無い狂気の沙汰が日本では行われているわけです。
こんな国から脱出したい人が増えるのは当たり前。日本は本当にもうダメなのかもしれない。
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