ローマでお買い物!(第九部)

第1話 - 第三十章 ファーストクラス

進藤 進2022/02/15 21:40
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ウイスキーの香りと共に、男は生きている実感をかみしめていた。


ガンだと思っていたのは自分の早とちりであったのだ。


すぐに日本に飛んでいきたい。


さゆりの細い肩を抱きしめ、愛していると叫びたかった。


(だけど・・・・。)


男は思った。


よく考えてみると、貯金は500万円をきっており会社も辞めている。


この不況のさなか、再就職できるあてなどほとんどない。


この先どうやって暮らしていく、というのだ。


自分一人であれば土木作業員等の肉体労働でも何でもやって、つましく暮らしていけばいいが、さゆりに惨めな生活をしいる事は考えられなかった。


貧乏は身にしみていた。


さゆりに母と同じ境遇におかせることなど決して出来ない。


ドラッグストアーでも経営すれば、多少のノウハウもあるし何とかなるのだが。


今更ながら、あの4000万円があればと思った。


せめてダイヤの指輪の約3000万円が。


(バカな・・・・・。)


自分は生きているではないか。


こうして神様は僕をすくってくれたのだ。


今さら何を望むというのだ。


男は苦笑いしながら、グラスの酒を飲み干した。


かすかな歓声を耳にした。


ふと横を見ると閉ざされていた扉から客が2、3人出入りしている。


ウエイターにチップを渡すと「カジノ」と一言答えた。


「ミー、OK?」と聞くとニヤッとうなずいた。


秘密のカジノバーだったのだ。


卓也は、恐る恐る扉を開けて入っていった。


中はタバコの煙が充満していて、中央のテーブルでは人々が目をギラギラさせてルーレットをにらんでいる。


がっしりした男が寄ってきて、隅の小窓を指さした。


「チェンジ・マネー」とだけ言う。


金をチップに変えるのだろう。


色とりどりのチップが客とディーラーの間を行き交っている。


卓也はポケットの中にあるありったけの紙幣をチップにかえた。


どうせ一度は死んだ身であった。


又、最初からやり直せば良い。


ここはひとつ、ローマの最後の思い出として勝負してみようと思った。


飛行機のチケットはクレジットカードを使えばいいし、この金額以上は使いようがない。


だから、もし全部すったとしてもたかがしれている。


チップは全部で約500万リラ・・・約40万円になっていた。


卓也は慎重にルーレットを見ている。


食い入るように眺め、出た目を手帳にメモっていく。


赤、赤、黒、赤、黒、黒、黒と続いている。


まだ、特徴が目に出ていない。


こういう時は、わからないのである。


別にルーレットに確固としたセオリーはないのだが、どうせ張るのなら自分に納得いく方がよかった。


その方が、あきらめがつく。


又、黒が出た。


客達から小さな歓声がもれた。


ここだ、と卓也は思った。


賭け事をやるのはこれが初めてだったのだが、株とかをやっていたので勝負時を本能で感じとれるのだ。


しかも、ついさっきまで死のイメージと闘っていたので、妙に感性がとぎ澄まされている。


卓也は長い時間見ていて、一番熱くなっている初老の男に注目していた。


その男が次はもう赤がくるだろうと、赤に大量のチップを張っている。


卓也は初めてテーブルの前に座り、黒にチップ全部を張った。


一発勝負である。

半分を残す事等はしない。


なくなったら、それが今日の自分の運なのだ。


何より、今の鮮明な予感を大切にしたい。


二度とないチャンスだ。


ルーレットが勢い良く回り、ディーラーが小気味よく玉を入れる。


ガラガラと音をたてて玉が止まった。


「ブラック、7:セブン」


場内がどよめいた。

五回目の黒である。


いわゆるツラ目・・・同じ目が何回も続くこと、であった。


異様な興奮が辺りを包んでいた。


初老の男はますます熱くなって、今度こそ赤だとばかりにチップを叩き付ける。


卓也は倍になったチップを又、全てを黒にかけて、腕を組んで眺めている。


ディーラーの視線に無言でうなずくと、ルーレットが回され玉が音をたてて転がった。


「ブラック、9:ナイン」


ディーラーが木のコテで、チップを卓也の前に押し出す。


卓也は両手でそれをかかえ、初老の男が赤にかけるのを見ると、又黒にチップを全部寄せた。


これも逆目といわれる手法である。


一番熱く、負けている者の逆を張るのである。


だが、これも100%の保障はない。


だいたい、賭け事にセオリーがあるのなら誰も負けはしない。


結局、存在するのはほんの数%のセオリーと、本人の精神力なのである。


株でもそうだ。


買うのは簡単なのである。


問題は売り時だ。


現金を手にするまでは、いくら株価が上がっても売れなければ何にもならない。


ただの紙屑なのである。


今、目の前にあるチップも、ただのプラスチックのかたまりなのだ。


これを金に変えて、ポケットに入れて店を出るまでは何でもない。


これを悟っているものが、ほんのわずかであるが有利なのである。


卓也は最初から開き直っていた。


どうせ一度は死んだと思った自分である。


しかもこのチップはポケットの中から寄せ集め、ないと思っていた金なのである。


迷いはなかった。


ただ、自分でつくったセオリーだけには忠実に従った。


歓声があがる。


又、黒が出て卓也の前に4000万リラのチップが寄せられた。


初老の男がしびれをきらしたかのように、今度は黒にかけた。


卓也は初めてチップを動かし赤に全部を賭けた。


ここで弱気になってはいけない。


気合を込めてディーラーを睨んだ。


チップの色は徐々に一番高いゴールド・・・1000万リラ、が交じってきている。


ギャラリー達もようやく、このポーカーフェイスの日本人に注目し始めている。


「レッド・・・20:トゥエンティー」


ディーラーの声にギャラリーが反応した。

 

卓也の前のチップはもう、8000万リラになっている。


初老の男はさらに熱くなり、今度は赤に賭けた。


目が変わったと思ったのであった。


卓也は、再び黒に賭ける。


そうすると他のギャラリー達も一斉に黒に賭けた。


この神秘的な匂いのする日本人の運に乗ろうというわけだ。


ギャラリー達が固唾を飲んで見守る中、ディーラーから玉が入れられた。


玉はゆっくり旋回して、中々止まらない。


赤に止まるかと思った瞬間、最後に一ころがりした。


「ブラック・・・15:フィフティーン」


場内がものすごい歓声に包まれた。


チップを引き寄せる卓也の肩を、便乗して儲けたギャラリーがバンバン背中を叩いている。


初老の男は悪態をつくと、卓也を一瞬睨み付けて去っていった。


ギャラリーは次に賭ける卓也の動きを見守っている。


屈強なガードマンらしき男達が、卓也の回りをじわじわと囲んでいる。


今、手元に1億6000万リラ・・・約1250万円のチップがうず高く積まれている。


ここが勝負だと思った。


次に勝てば3億2000万リラである。


これだけあれば、何らかの開業資金ができる。


堂々とさゆりを迎えられる。


(でも・・・・・・。)


1億6000万リラでも、すごい大金である。


マンションの頭金を払ってもおつりがくる。


この金でも充分ではないか。


今まで運が良過ぎたのだ。


ターゲットの初老の男がいなくなったらセオリーは通用しない、全くの運試しになってしまう。


ディーラーも卓也が張るまでルーレットを回さない。


ギャラリー達が張らないのを知っているのである。


店側もこのポーカーフェイスの日本人に戦々恐々としてきた。


1億6000万リラなど店側にしては、はした金である。


だがギャラリー全員がこの男に乗り、莫大な金額が動くのと、フラリとやってきて荒稼ぎされたのがシャクにさわる。


店のオーナーは目配せして、ガードマン達を卓也の回りに近づけていた。


卓也の背中に、冷たい汗が流れている。


逃げる訳にはいかない、と思った。


ここで引いてもいいのだが、生まれ変わった自分のこれからの人生を占う意味でいくしかないと考えたのだ。


負けてもいい・・・全部なくなっても元はわずか500万リラなのである。


勝てば帰りはファーストクラスで帰ろうと思った。


(さゆりさん・・・)


卓也は心の中でつぶやいた。


そして、目をつぶって黒にチップの山を押し出した。


ギャラリー達が一斉に黒に賭けてきた。


口々に金額を叫ぶだけの者もいる。


他のテーブルは一切の勝負をやめて、ルーレットのテーブルを取り囲むように人が集まってきた。全員が固唾を飲んでシーンとしている。


ルーレットが回され、ディーラーが慎重に玉を投げた。


玉はゆっくりと転がり、やがて止まった。何十の目が血走って、その行方を追っている。


ディーラーがしぼりだすように声を出した。


「ブラック・・・3:ス、スリー」


     ※※※※※※※※※※※

 

男は大きな背中を折るようにして、窮屈そうに機内食を食べていた。


プラスティックのナイフとフォークで、器用に固いステーキを切っては口に入れている。


ビールで流し込むように、ガツガツと詰め込んでいく。


自分がガンではないとわかると、猛烈に食欲がわいてくる。


卓也は機内食を食べ終わると「フーッ」と一息ついて、窓の外を眺めた。


飛行機の翼が雲の上を、月明かりに照らされて見える。


スチュワーデスが食器を下げていった。


卓也はエコノミークラスに乗っている。


ファーストではない。


食後のコーヒーをすすりながら、昨夜のことを思い出していた。


「ブラック・・・3:ス、スリー」


ディーラーの悔しそうな声に、ギャラリー達は一斉に歓声をあげた。


卓也は何十本もの手にもみくちゃにされて、チップの山を抱きかかえていた。


オーナーが立ち上がり、顎をしゃくると屈強な男達が卓也を取り囲んだ。


(あそこで、やめられれば・・・。)


卓也は窓の外を見て思った。


だが、あのまま換金して帰れば、おそらく袋叩きにあって身ぐるみ剥がされていただろう。


異常な殺気を背後に感じていた。


卓也はもう、あきらめていた。


どうせ、ないと思っていた500万リラなのだ。


肩をおとして卓也はチップの山を全部、又黒に賭けた。


ギャラリー達も一斉に黒に張る。


オーナーがディーラーに目配せをした。


ディーラーは玉にフッと息を吹きかけて、右手でルーレットに転がした。


左手はテーブルの端をつかんでいる。


その指が妙に不自然に動いたのを、卓也は見逃さなかった。


卓也は腕を組んで目を閉じた。


暗闇のスクリーンの中、ギャラリーのため息が聞こえた。


「グリーン・・・00:ダブル、ゼロ」


テーブルの上のチップが一切合財、ディーラーの元に寄せられた。


オーナーは満足そうに眺めている。


しかしギャラリー達は、このポーカーフェイスの日本人の潔い態度に、賞賛の拍手を送り次々と手が伸び握手していった。


初めて卓也は白い歯をこぼし、テーブルを離れカジノの隅のバー・カウンターに腰掛けた。 


肩を軽くつかまれ横を見ると、店のオーナーがニヤリと笑って座っていた。


ウエイターにウイスキーを二つ注文して卓也に渡すと、早口のイタリア語で乾杯した。


オーナーは卓也に好感を持っていた。


ギャラリーを沸かす程の豪快な賭け方。


そして、潔い負けっぷり・・・。


いかさまを使ったのが多少後ろめたく、なにがしかの金をやって、この男を帰してやろうとさえ思っている。


この男のおかげでギャラリー達は大金を店におとしていき、その上満足して帰っていくのだ。


店にとって、これ程ありがたい存在はないのである。


オーナーが500万リラ程の紙幣を出して卓也に渡そうとした時、卓也はニヤリと笑って、ポケットからゴールドチップを出し二十枚ほど並べた。


オーナーはキョトンとした目をして、それを見た。


そして、短い沈黙の後、大きな声で笑った。


卓也の背中を何度もうれしそうに叩き、早口のイタリア語でまくしたてるとガードマンの男を一人呼び、そのチップを渡して耳打ちした。


男は足早に戻ってきて分厚い札束をテーブルの上に置いた。


2億リラであった。


卓也は最後の勝負の時、ギャラリー達にもみくちゃにされながら、とっさにゴールドチップだけを選り分けて、ポケットに入れていたのだ。


どうせ最後のルーレットは、いかさまをやられるに決まっていると思っていた。


オーナーは、この目の前の男に日本の「サムライ」を見た思いがして、笑いながらグラスを差し出した。


卓也も笑みを浮かべグラスを合わせ、一気にウイスキーを飲み干した。


オーナーは、その飲みっぷりのよさに口笛を吹いて目を丸くした。


卓也は立ち上がるとオーナーと握手を交わし、ゆっくりとカジノを出ていった。


ガードマン達も「サムライ」を微笑みながら見送った。

 

店を出ると夜の冷気が感じられた。


卓也は靴音をたてて、慎重に歩き出した。

 

ホテルの近くまで来て後ろを振り返り、誰もいないと知ると走り込むようにホテルに入り、エレベーターで自分の部屋に向かった。


部屋につくと内鍵も慎重にかけ、照明も点けず窓辺のソファーに座った。


「フーッ」と大きく息を吐いた。


冷たい汗がどっと噴き出してくる。


上着のポケットは、さっきの2億リラ・・・約1600万円でふくらんでいた。


     ※※※※※※※※※※※


飛行機の窓に写る自分の顔を見ながら、卓也は苦笑いを浮かべている。


今から思うと、よくあんな無茶をやったものである。


下手をすれば、殺されていたかもしれないのである。


さゆりに言えば又、心配して泣かれるだろうと思った。


でも、これでなんとかなるだろうと思う。


まだ自分は若いし、この資金があれば、とりあえず生活に苦労はかけずに、さゆりと結婚できるはずだ。


落ち着いたら、御両親にあいさつにしに行こうと思った。


飛行機は順調に星空を飛んでいる。


もうすぐ日本に帰れる。

さゆりに会える。

さゆりを抱きしめられる。


柔らかい唇を、思いきり感じる事ができる。

 

そう思うと又大きく息をついた。


コーヒーが下げられスチュワーデスが去ると、次々と電気が消えていき他の乗客は眠りに入っていった。


卓也も毛布を広げ、シートを傾けた。


腹に巻いてあるセーフティーバッグの札束に手をあてて、感触を確かめると静かにまぶたを閉じた。


日本まで、あと数時間で着く。


さゆりの顔が、頭に浮かんだ。