ローマでお買い物!(第三部)

第5話 - 第十六章 汽笛と・・・

進藤 進2022/02/09 19:43
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男は腕を頭の下に組んで、ぼんやり汽笛の音を聞いていた。


広子は白い指を頬の下におき、隣から男の顔を見つめている。


白いうなじに柔らかな髪が横たわり、シーツから覗く細い肩をいじらしく見せている。


瞳は潤み、唇にかすかな微笑をたたえ、穏やかな時間が二人に流れている。


「昔・・・二年間ほどイタリアにいた・・・・・。」 


高田は天井を見ながら、独り言のように呟いた。

 

「その頃、新聞記者として派遣されていたんだ。女房も一緒だった・・・。


あいつとは、その三年前にスポーツジムで知り合って結婚したんだ。

どっちも水泳部出身でプールで、顔を合わすうち、どちらからともなく魅かれていった。幸せだった・・・だが・・・。」


男の意外な打ち明け話に女の微笑は消え、真剣な表情で男の顔を見つめている。


「もうすぐ日本に帰るという頃、まだ3月の肌寒い季節だった。

俺が会社にいっている間に川で溺れている子供を助けて、そのあと、あいつはカゼをひいたんだ。三日間寝込んだ後、病院に運んで入院させたんだが、あっけなく・・・本当にあっけなく・・・。」


男の目に、涙がうっすら滲んできた。


やがて、小さな光が男の頬を伝わった。


「十年前のことだ・・・。」


女は何も言わなかった。


じっと、男の横顔を見つめている。


女の目にも、涙が滲んでいる。


男の気持ちが、いたいほどわかる。


男は、まだ妻を愛している。

十年間、変わることなく。


男の昼間のおどけた表情が強く印象づいているほど、今の涙が深い悲しみを見せて女の心を不安にさせる。


若さゆえに、愛を失った。


もう少し大人であったなら、前の夫と別れはしなかったであろう。

 

今は大人になって少し年をとりすぎた分、踏み出せないでいる。


分別が女をしばっていた。


女は男を愛している事が今になって、ハッキリと分かった。


狂おしいほど抱きしめて、男を自分だけのものにしたかった。


だが、横顔を見つめながら男の死んだ妻に自分を重ねてしまう。


頬の下の手をほんの少し伸ばせば、男の涙をぬぐうことができるのに。


若さゆえに愛を失い、分別のために愛を奪えない。


難しいものだ、と女は思った。


船の明かりが、ゆっくりと部屋を横切り男の顔を照らす。


男は目蓋を閉じ、軽い寝息をたてていた。


暗闇に戻った部屋の中、女の目だけがかすかに光っている。


ヴェネツィア最後の夜が終わる。


二人の時間は、まだ始まったばかりである。