第3話 - 第十四章 汽笛と睡眠薬、そしてウイスキー1
レストランのテラスから見える夜の運河を、一槽の船が汽笛を鳴らして通り過ぎていく。
ワイングラスを持ったまま、高田はぼんやりその光景を眺めていた。
広子は少し酔ったのか、ほんのり頬を染めて高田を見つめている。
視線に気づいた高田はワインを飲み干し、わざと大きな声で言った。
「やあーうまかった、イタリア料理は飽きないですなー。魚が新鮮なせいか、くどくなくてワインによく合う・・・・。」
広子は何も言わず微笑みを浮かべながら、男を見つめている。
「じゃー、帰りますか・・・・。」
二人は並んでホテルへの道を歩いていた。
夜の風が心地よく酔った頬にあたる。
広子はそっと高田の腕に白い手をすべりこませ、もたれるようにして歩いている。
「少し・・・酔ったみたい。ふふっ・・・若い子みたい・・・・・。」
香水が男の鼻孔をくすぐる。
いつもの調子で軽口をきこうとするが、あまりにも女が魅力的過ぎて声が出せないでいる。
「今夜は・・・静かなのね。」
「いやぁ・・・あの二人、どうしたかと思って。大西君、しゃべらないからなー。」
はぐらかすように男が言った。
腕にある温もりが心に迫る。
ホテルが見えてきた。
男は女をエレベーターに乗せると、部屋まで送った。
「私・・・もう少し飲みたい気分なの。」
瞳が潤んで、妖しい光を放っている。
男は吸い込まれるように広子の手を取り、部屋に入った。
窓のカーテンが開いていて、港の夜景が美しく見えていた。
汽笛が時折、思い出したように鳴っている。
手を握ったまま女は少し体を反らし、男の手に重みを感じさせていた。
瞳は男を見つめたままキラキラと輝き、微笑みを含んだ唇は結ばれたまま柔らかそうに何かを待っている。
やがて、唇が薄っすらと開いた。
「バカ・・・鈍感・・・・・・。」
女は握っている手の力を強め、男の胸に飛び込んでいった。
唇が重なる。
甘い香りが胸の奥まで入ってくる。
女は勝利の余韻に浸りながら、男を心で操っていく。
部屋の照明は点けられることなく、二人を優しい闇に包んでいた。
二人の息づかいだけが、微かに部屋に響いている。
時折鳴る船の汽笛が、それを消していく。
やがて音が遠ざかり、闇の中で白い指が男の背中に爪を立てた。
言葉が欲しいのに、声にしてほしくなかった。
このまま心で男を操り、何も言わず強く抱きしめて欲しい。
「ああ・・・・・。バカ・・・何も・・・何も、言わないで・・・。抱い・・・・て・・・・もっと強く・・・もっと・・・ああ・・・。」
二人の時が刻まれる。
ついこの間までまったく違う人生を流れていた時間が今、合わさってぎこちなく形を確かめるように動いていく。
女の手が、何かを探すように頭や背中をさ迷よっていた。
闇の中で、男がどこかに消えてしまいそうで不安になるのだった。
重なり合う唇が女を安心させる。
一つに溶け合いながら、時間を二人のものにしていく。
汽笛が又ぼんやりと耳に帰って来た。
ヴェネツィア最後の夜。
二人の時間が今、始まった。