味志ユウジロウ2020/08/03 14:34
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僕の沈黙を切り裂いたのは、答えのない問いかけからのリスタートではなかった。

全身に感じる、鋭くない爪と柔らかい肉球の感触。

それに、獣の匂いが混じった唾液。首筋をくすぐる、荒い息遣い。

牙を立ててこないことを考えると、食料としてではなく、人間として扱ってくれているようだ。

僕は、ゆっくりと目を開き、唾液が顔にかからないように手で振り払った。

……まるで靴下を履いた犬のようだな。

彼、もしくは彼女は、プードルの様なもふもふした毛並みで全身的に黒いが、四肢の先だけが白かったからだ。


「Are you OK ?」

どうやら、来訪者は犬だけではないようだ。

見上げると、瞳の大きな少女が戸惑いながらも、僕を覗き込んでいた。

「Oh……Oakay」

僕は上体を起こして座り、腕や脇腹についていた砂を払い落とし、首を振った。

きっと、気怠けだるそうな仕草に見えただろう。悪気はないんだ。ただ、体の節々が痛いだけなんだ。

原因は覚えていないのだが。

長く息を吐きながら、改めて周囲を見回す。

常夏の日差しのせいか、海面で乱反射する照り返しのせいか、僕の視界に映る世界はモノクロームだった。

先程、気づいた時は寝惚けていただけだと想ったのだが。


「Are you Korean ?」

Noと言いかけて、奇妙な話だが、僕は自分の記憶がないことを想い出した。

国籍も、名前も、何をしていたのかも、想い出せない。

分かっていることは、自分が男であり、記憶はないが、言語能力・思考能力は有していること。

自分に関することを考えようとすると、頭に霧がかかったようになる。そしてそれは、鈍い痛みを伴った。

これがドラマや小説でお馴染みの記憶喪失ってやつか。

記憶がないくせに、どうして言葉を話せるんだよ!

なんて突っ込んでいたのに、まさか自分が記憶喪失になるとは……。

本当に色んなこと、たとえば一般常識や日付感覚などは分かる。

でも、自分に関することは一切想い出せない。

まるで、頑丈な鍵がかかっていて、記憶の扉を開かせないようにしているかのようだ。


「I don't know」

僕はnoではなくknowを選んで答えた。

目の前の少女は、明らかに欧米人ではない。アジアンだ。

中国人なら你好(ニーハオ)、韓国人なら안녕하세요 (アニョハセヨ)、日本人ならこんにちは。

どの国の言葉で挨拶をすべきか思案するくらいの思考能力があった。

この場面では、彼女の問いをオウム返しするのが得策だろう。


「Are you Korean ?」

「No , I am Vietnamese」

そこから先の会話はベトナム語だった。

僕は自分の過去を失っていたが、ベトナム語での日常会話が可能だった。

ベトナム語でのコミュニケーションがとれたからだろうか、彼女の警戒の色が少し解けた。

どうやら僕は、機微を感じとる能力も持っているらしい。