味志ユウジロウ2020/08/06 13:11
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「私はロアンよ。Dương Hon Loan。あなたは?」

国籍不明の不審人物に名を告げるのは、躊躇ためらわれたが、尻尾を振るオーネストを見て、気が変わったわ。

彼がベトナム語を理解できた点も大きかった。

私は地元の大学生だけど、彼は同年代だと想う。


「xin lỗi(シンローイ=ごめん)。自分のこと、何も想い出せないんだ」

原因は分からないけど、記憶喪失になってしまい、いつからこのビーチにいるのかも分からないという。

「犬が好きなの?」

彼はオーネストから手や顔にペロペロ攻撃を受け続けていた。

「多分ね。嫌いじゃない」

「この仔(彼)はオーネスト」

「オーネスト? ソックス君じゃないの?」

冗談を言うだけの余裕もあるみたい。自殺志願者という訳でもなさそうだ。本当に記憶障害があるんだと想う。

まるで捨てられた仔犬の様な不安気な瞳をしている。


「とりあえず、いつまでもここで横になっていたら、熱中症で死んじゃうよ。朝ご飯くらい食べさせてあげるから、ついておいでよ」

わたしは、いつものルーチンに戻そうとした。

ビーチの散歩の後は、cháo(チャオ=おかゆ)を食べる。3食cháoでも良いくらいだ。

それにここをそろそろ立ち去りたい理由はもう一つあった……。


「あなたの名前を決めましょう。不便だもの」

少し足を引き摺る彼の歩幅に合わせながら、わたしは提案をした。

「何か想い出せる名前はないの? そこから決めようよ」

彼は頭を掻きながら答えた。

「うーーん、ケン、パク、コウ、トゥオン……。多分、日本語、韓国語、中国語、ベトナム語。この辺に聞き覚えがあるんだ」

「自分の名前か、友達の名前か、分からないってことね。じゃぁ、一番最初に出たケンで良いんじゃない?」

「そこはベトナムっぽいトゥオンじゃないのかよ」

「それ元カレと同じ名前なの。ひどい別れ方をした元カレと!」

「分かったよ。その名前は封印するよ」


「おい、ロアン。誰だよ、そのよそ者は?」

背後から声をかけられた。しまった。もう一つの立ち去りたい理由がもう現れてしまった。

オーネストも唸り声をあげている。

「相変わらず、躾のなってない犬だな。で、誰だよ、その犬よりも汚い身なりの奴は?」

こいつはクォク。この辺のcôn đồ(コンドー)つまりチンピラだ。チンピラのくせに、朝からこのビーチを見廻りに来る厄介者。鉢合わせしたくなかったんだけど、もう遅い。後は、何とか穏便に済ますしか……。


クォクは、海水と砂でヨレヨレになったケンの奥襟を掴んだ。倒れないように首を固定し、何発も顔面を殴るつもりだ。

拳が顔面に叩き込まれる。

……ケンの拳がクォクの顔面に。

奥襟を掴まれた瞬間、ケンはするりと手をほどき、ノーモーションでパンチを見舞っていた。

驚くことに、ケンは一歩も動いていなかった。

ホワイトサンズからケンの足跡は微動だにせず、代わりにクォクの足裏は砂を巻き上げ、尻餅を刻み込んだ。


「あ、悪い。反射的にやっちまった。まだやるかい?」

端から見れば、ラッキーパンチに見えたに違いない。だが、やられたクォクは拳から受けた波動をキャッチしていた。

絶対的な強者の波動を。つまり、一撃で戦意を喪失した訳だ。


「今日は……大目に見てやる……」

「あぁ、そうしてくれると助かるよ」

ケンは何事もなかったかのように、わたしの許に向かってきた。徐々に熱を帯びてきた砂浜に足を引き摺りながらも。


「あ、あんなの相手にしちゃダメ」

「そうだな。悪かったよ」

「ただのcôn đồ(チンピラ)なんだから」


いつもより時間が経ったせいで、交通量が増えていた。朝の通勤ラッシュにかかってしまった。

ベトナムの朝は早い。その分、夕方には仕事を終える。夜に涼しくなってから、皆、街へ繰り出し遊ぶのだ。

ビーチでの海水浴も、早朝か夕方が多い。日中にビーチに居るのは、外国からの観光客だ。

ベトナムはまだ、信号機の設置数が少ない。そして、やたらとバイクが多い。3人乗りは当たり前で、4人乗りもざらだ。

それなのに、皆ガンガン飛ばしてくる。勿論、わたしも散歩以外の移動手段はマイバイクだ。

信号機もない道路は、バイクや車をうまく避けながら渡らないといけない。

けたたましいクラクションが交差する中、わたしはオーネストを抱きかかえて、一気に道路を横切った。

足を引き摺るケンも難なくついて来る。

初めての観光客なら、尻込みしていつまでも渡れない交通量。車道の横断を、体が覚えているのだろう。

ビーチを出てから20分後、わたし達は家に着いた。