「ふぅ。やっぱり瓶入りのコーヒー牛乳は格別ね」
「お嬢様、本日はいちご牛乳になさると仰っていませんでしたか?」
「でも、気がついたらコーヒー牛乳のボタンを押していたのよ。やっぱり、本能には抗えなくってよ」
「仰る通りでございます」
「おーい!お嬢、ちょっとこっち手伝ってくれるか」
「はい、ただいま参りますわ」
ここは東京の下町にある、花ノ藤大衆浴場。世にも奇妙な、生粋のお嬢様が経営するお風呂屋さんである…
話は3ヶ月前に遡る。
一流企業の社長令嬢である貴伊須真梨は、私立の名門女子大に通い、毎日違うコースを通る散歩を日課とし、ピアノ、書道、茶道、勉強、テニスと何でも得意な非の打ち所の無い大和撫子である。そんな彼女も厳しい試験に合格し、父の会社の秘書室に所属することが決まっており、華々しく大学生活を終えようとしていた。
ある日の散歩中、真梨は【花ノ藤大衆浴場】という看板が下がった建物の前で立ち止まった。
「風見?これは何?」
と興味を示す真梨に執事の風見は、
「お嬢様が入られるような所ではありません」
とたしなめたが、
「そのように決めつけて見下すのは良くないことですわ。私だってもうすぐ社会人になるんですもの。今のうちに色々と体験しておきたいの。それに、興味があるのよ、とても」
と真梨は答えた。そう、彼女にとってみればそれは生まれて初めて見た銭湯だったのである。
日を改めて再び花ノ藤大衆浴場を訪れた真梨は、ガラガラの女湯を1人で存分に味わった。
休憩所へ行くと、風見が紅茶の入った水筒を取り出して待っていた。
「いかがでした?初めての銭湯は」
「本当に最高ね、ここ。どうしてみんな来ないのかしら」
「お風呂に入れるのはここだけでは無いですから。スパとか、今は色々あるんですよ。それに、銭湯も需要が減ってきているのでしょう」
「ふーん…」
「お嬢様、紅茶はいかがですか?」
「…」
「お嬢様?」
「私、あれが飲んでみたいわ」
真梨が指さした先には、自動販売機。
「お嬢様には、ちと甘すぎるかと思いますが」
「飲めなかったら、風見にあげるわよ」
「はあ…」
2人して自動販売機の前に立つと、真梨が目を輝かせた。
「こんなに種類があるのね!瓶入りの牛乳なんて初めて見たわ!これ、苺味?凄いわね」
「そのように興奮してらっしゃるお嬢様は久しぶりでございます」
「やっぱり、コーヒー牛乳が王道かしら?ねえ、風見どう思う?」
「では、そのようになされては」
「…ねえこれ、どうやって買うの?」
「買いたいものの番号のボタンを押すのでございますよ」
「へえ…わっ、凄い!これ見て!バーが動いてるわ!飲み物を取りに行くなんて!ちょっと風見、何がおかしいの?」
「いえ別に」
「顔がほころんでるわよ」
「失礼致しました」
はしゃぐ真梨に笑いをこらえきれない風見を横目に、彼女は嬉々として瓶を取りだし、ストローで飲み始めた。
「これ、美味しいじゃない!ねえ風見、買い占めちゃダメかしら?」
「他のお客様がお求めになる時に困るでしょう」
「それもそうね…またここに来ればいいのよね」
「はっ?またですか?」
「来ちゃダメなの?」
「いえ、そういうわけでは」
「お父様だって、社会勉強になるからいいって言ってたじゃない」
「それはそうですが」
「でしょ。だから明日も来るわよ」
「明日ですか!?」
「ダメ?」
「お嬢様、楽しみというのはたまにあるからいいのでございますよ。毎日来ていては、人間たるもの必ず飽きてしまいます」
「そう…じゃあ、今日は月曜だから、毎週月曜日に来るのはどうかしら?」
「まあ、それならば良いのではないですか」
次の月曜日。真梨たちは宣言通り銭湯を訪れた。休憩所でのコーヒー牛乳も欠かさない。2人で色々と話していると、近くで掃除をしていた老婦人が真梨たちに近づいてきた。
「あの、お嬢さん?」
「どなたですの?あら、番頭のお方?」
「私は、中川香世子と申します。この銭湯を経営する者です。お嬢さんが仰る通り、番頭もやっております」
「番頭さんが、どのようなご用事で?」
風見が尋ねると、中川香世子は静かに話し始めた。この銭湯は、亡くなった夫から経営を引き継いだ大切な場所であること。自分の体調が最近優れないこと。そしてそれを理由に、近々店を畳もうと思っていること…
「だからね、お嬢さんが来てくれるのは嬉しいんだけど、もうこのお店は閉めるのよ。跡継ぎがいれば良かったんだけど、それもいないし…」
「そんな!こんなに素晴らしいところを閉めるなんてもったいないですわ」
「だけど、仕方ないのよ。ごめんなさいね、せっかく来てくださっているのに」
「…跡継ぎがいればいいのかしら?」
「え?お嬢様?」
「でしたら、ここの経営権を私に譲ってくださらない?」
「そんなとんでもない!お嬢さんだって、お仕事があるでしょうに」
「私は、まだ大学生よ」
「お嬢様、お待ちください!秘書室の内定はどうなさるのですか?!」
「そんなの、他の誰かに譲って差し上げるわよ」
「それはいけません!せっかく何十倍もの倍率をくぐり抜けて試験に合格されたというのに」
「お嬢さん、無理しなくていいのよ。ここは建物も古いし、いずれ畳む運命だったの。私も後悔してないわ」
「私は後悔してますわ!」
「お嬢さん…?」
「だって、こんないい所、まだ2回しか来てないのに。お閉めになるなんて、私が後悔しますわ!それならば、私が跡継ぎになるわよ。そして、もっとたくさんの人にここを知ってもらえるように、立派な銭湯にしてみせます!」
「お嬢様。お分かりかと思いますが、経営者とてお風呂に入り放題というわけでは」
「そんなの分かってるわよ。もちろん自分が入れなくなるのも嫌よ。でも、それ以上にここが皆に知られないまま、ひっそりと閉まってしまうのが辛いの。それなら、私が経営者になって、ここを人気と活気のある銭湯にしてみせますわ」
「まあ…そう言ってくださるのは嬉しいけれど、内定が決まっているんでしょう?」
「お父様を説得してみせます。来週の月曜日、ハンコを持ってここに来ます」
「お嬢様、正気ですか?旦那様と奥様が聞いたら卒倒されるのでは」
「私が構わないんだからいいのよ。意地でも押し通すわ!」
「…そう、でも無理はしないでくださいな。お嬢さんはお若いんだし、まだまだこれからここ以上に素晴らしいものやことに出会う機会があるでしょう。でもここで働くのなら、ずっとここにいなければならないのよ。まあ、閉めるタイミングは貴方に任せるけれど」
「せっかくお預かりしたこのお店ですもの、閉めるなんてとんでもないですわ」
「お嬢様、まだ決まった訳では」
「風見!帰ってお父様とお母様を説得するわよ」
「ちょ、ちょっと!お待ちください!!」
真梨と風見は、バタバタと花ノ藤を後にした。
彼らを見送ったあと、香世子は呟いた。
「…変わった子ねえ、育ちはとても良さそうだけれど」
「ニャー」
「あらメロン、どうしたの?お腹空いた?よしよし、ご飯にしようね」
「(変わった子が来たもんだなあ。香世子の後を継ぎたいと言ってくれるなんて。ご両親を説得出来ればいいんだがなあ)」
「はい、お待たせ。美味しい?」
「ニャー」
「良かった。ふふふ」
「(面白い客だ。最近は暇で仕方なかったが、これでしばらくは退屈せずに済むわい)」
「メロン、お嬢さんがうちに来てくれたら嬉しい?」
「ニャーーー」
「まあ、メロンも少し期待してるのね。私も一緒。ねえ、征男さん?」
そう言って香世子は壁に飾られた夫・征男の写真を見上げる。
「(わしはこっちなんだがな…)」
帰宅するなり父の書斎を訪れた真梨に、父・孝介は驚きの表情を浮かべた。
「どうした?真梨」
「私、秘書室の内定を辞退したいの」
「…理由を聞こうか」
「散歩中に、とてもいい銭湯を見つけた話はしたでしょう。そこの経営者になりたいの」
「ふむ…真梨は経営者になりたいのかい?それとも銭湯で働きたいのかい?」
「もちろん、お風呂が好きで、銭湯で働きたいからよ」
「しかし、経営者もやるんだろう?」
「ええ。その覚悟はしているの。そこの銭湯は跡継ぎが居なくて、もう閉めようとしていたの。でもあんないい銭湯を閉めるなんてもったいないから、私が跡を継いで、活気と人気のある銭湯にしたいの」
「いくらお前が大学で経済や経営を学んでいたからといってな、経営というのは一筋縄じゃ行かないんだぞ。お風呂が好きで、跡継ぎになりたいからといっておいそれと出来るものではない」
「でも、やりたいの。半端な覚悟ではないわ」
「人様から譲り受けるわけだろう。途中で放り出すことなんて出来んぞ」
「それは分かっているわ」
「死ぬまで銭湯の経営者でもいいんだな?」
「ええ。お父様は私を社長にしたかったのかもしれないけれど」
「まあそれは、京市に任せるさ。あいつは出世には興味が無いくせにセンスがあるからな」
「あら、お兄様と変わった方がいいかしら」
「京市が怒りそうだな」
「ふふふ。お父様にお許し頂いて嬉しいわ」
「そこまで言うなら、止めはせん。ただしさっきも言ったが投げ出したり、泣きついてくるのは許さんからな。責任を持つんだぞ」
「分かりました」
「…瑠璃子や京市には自分で報告するんだぞ。まあ京市はお前も知っての通り今出張中だから、電話しておきなさい」
「分かってます。屋敷の皆にも」
「うむ。私は仕事があるから、もう出なさい」
「あら、ごめんなさい。それじゃ、お仕事頑張って」
「ああ」
このあと、屋敷中に母・瑠璃子の悲鳴が響き渡り、屋敷中の使用人が救急車と警察を呼びそうになったのは別の話である…
「本日付けでここの経営者となりました、貴伊須真梨です。よろしくお願いします」
「わしは佐久間源三じゃ。お嬢様と聞くが、ビシバシしごいてやるからな。覚悟しとけ」
「承知致しました。楽しみですわ」
「変わったやつじゃのう」
「こちらの方のお名前は?」
「中川みよ。あんた、花ノ藤ぐちゃぐちゃにしたら許さないからね。源さんなんかぬるま湯だよ。厳しくするからね」
「中川さんというと、香世子おばあさまのご親戚ですの?」
「おばあさまだなんて、真梨さんたら。この人は私の姪よ」
「では分からないことは、遠慮なくお尋ね致しますわ。経営者といっても、普通に同じ立場と思って下さいな。皆で、よりよい花ノ藤にして参りま…」
真梨が言い終わらないうちに、みよは
「ほらあんた、さっそく仕事教えるからこっち来な」
と言い放った。
「みよさん、ちょっとさっそくすぎやしねえか」
「厳しくするって言っただろ。ほら早く来な」
「はい、ただいま」
みよに連れられて、バックヤードへ消えていったのを見た源三は思わずため息をついた。
「仮にも、経営者だってのにあんな言われ方で、お嬢様だとすぐやめちまいそうだがな。執事さんよ、そこら辺はどうなんだい」
「ええまあ、気が強いとは言えませんが…何しろまだ働いたことが無いもので分かりかねます。しかし好奇心旺盛で、何にでも首を突っ込むので、皆さんご苦労されるかと」
「ふーん…香世子さん、本当にこれでいいのかい?」
源三の問いに、香世子は笑みを浮かべた。
「ええ。私が辞めたあとも、花ノ藤が見られて嬉しいわ」
「そうかい。まあ、何とかやって行くしかないな。じゃあとりあえず、執事さんにも色々教えようかね」
「よろしくお願いします」
「執事さんも来て下さるなんてねえ」
「まあ私は、旦那様と奥様からお嬢様の事を頼まれましたから」
「そうなのね。こちらこそよろしくお願いしますね」
「はい」
こうして花ノ藤大衆浴場は少し騒がしくなる予感がするものの、扇風機の音が響く暖かな春の日に新たな門出を迎えたのであった。