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今日も殺さなかったぁ Ⅰ

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ハンジョウ2020/12/18 01:45
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殺せない、殺したくない殺人鬼の懊悩の日々、あるいは逮捕にいたった、贖罪の書き置き

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【第一話 鍵男を殺る話】

Twitterを始めて数か月、なにしろ当初は、ひとたび失言など犯そうものなら、裸に剥き火だるまのうえ市中引き回し、的ないわゆる公開処刑が待っていると思っておりましたから、その実、僕のつまらない愚痴や些末な悩みにまで「いいね」や返信をいただいて、これは誇張ではなく、生涯でもっとも人様の優しさにふれております。


ネット上に心境を吐露することにも慣れましたので、思いきって僕の最大の悩みを告白いたします。


僕には、殺人衝動があります。(えへ、言っちゃった)


人を、殺したいのです。できれば女性を。そして、その亡骸を…


…つい話しを急いてしまいました。誰にも相談できない鬼畜の欲望を胸底に押しこめ22年間ようやく生きてまいりました。その激情の果てに、僕はとある事件を起こし贖罪の日々を送っています。いま、身体的自由はありません。


償い。そのために、自分が、何を、いかにして、そうなってしまったのか、懺悔というにはあまりに不実で恥ずべき経緯を、ここに書き置きたいと思うのです。


退屈とは存じますが、まずは僕という人間を少し知っていただければと思います。


ハンジョウと申します。22歳、男、関東のとある街に住み、便利屋で働いております。父を知りません。母は、僕が5歳のとき交通事故死しました。以来、祖母に育てられ、高校まで出させていただきましたが、卒業を見届けたように一昨年彼女も逝き、ふとすれば、"天涯孤独" があてはまる身なのだなぁと。


母ほどではありませんが、祖母も大好きでした。いや、感謝してもしてもし足りない人なのです。母を祀った仏壇に向かい、祖母は毎朝、浄土真宗の正信念仏偈を唱えていました。僕もその横に座し、手を合わせ、見よう見まねが、やがてそらんじるようになりました。朝のおつとめはふたりで。それがわが家の一日のはじまりでした。


その僕が、なぜ殺人という行為に魅入られたのか。あるいは精神科のお医者様でしたらその要因を、とは思うのですが、あいにく病院にかかるお金も勇気も持ち合わせてはおりません。とはいえ、下手な自己分析をしてみれば思い当たることもあるのです。


それは在りし母の寝顔です。


生前の母は、おそらく水商売のようなことをしていたのでしょう。朝、ぼくを保育園に送るぎりぎりまで眠るその姿。安らかで、ほぐれて、どんな苦悩のかけらもないような、かわいらしいあの寝顔、大好きでした。ぼくは着替えをすませパンをかじると、NHKの子ども番組などは観ずに、ただ母のベッドにもぐりこんで、シャンプーとお酒の残り香立つ首やほほのやわらかさをくちびるで感じたり、赤子に戻ったように乳房をそっと手包みしてみたり、そうまでしてもピクリとも動かない身体に、いつまでも、ほんとうにいつまでも抱かれていたかったのです。


ですから、病院で母の亡骸と対面したとき、悲しみも寂しさもありませんでした。頭には包帯、けれども顔には傷ひとつない寝姿。それはあまりにもいつものママでした。いや、それどころか、冷たく硬化した身体は彼女の美しさを永遠に内へ閉じ込め、今思い返しても、どんな大芸術家の天使像や神画より完璧な存在でありました。死の意味など分かるはずない5歳のぼくは、早くママを家に連れ帰ろう、と祖母の袖を引き、ところが祖母は、帰るのはお骨になってからだよ、と言うではありませんか。それがどういうことかをよくよく理解し、ようやくぼくは泣き叫びました。ですがそれは、どうして母をこの美しい状態で留めおかないのか、という、大人たちへの抗議を力いっぱい表したものでした。


以来、ぼくは ”死” に強い関心を抱くようになりました。

母の死はなんだったのか。微笑んでいた母と死んでいた母とは何が違ったのか。生のメカニズムと死のシステム。それを知り通じ、自分は死をどう感じ捉えるべきなのか。答えを求めて、死がむこうから現れるのをじっと待つのではなく、こちらから呼び寄せてやることにしたのです。蜥蜴や昆虫をつぶしたり刺したり引き裂いたり、あるいは致命傷を負わせた蛙の呼吸が、縁側の下からずるずると這い出してくる死により、ひたーひたーと奪われてゆくのを日暮れまで見守って。


そうして立ち昇ってきたのは、"えっち" な何かでした。

やがて思春期が訪れて、女性に対し、まもなく性欲と名づけられる無意識を意識しはじめるときの、あの不思議さ、抗えない戸惑わしさ、下腹がぞわぞわするなまめかしさが、命の消灯を見つめていると、さながらマッチを擦るように灯るのです。そこへ甦る母の寝姿と死相を焚き物としくべて、その蒸しる炎熱に、幼い僕は身悶えるのでした。


ある初夏の午後、家の庭先で、ちょうどねじ切ったカミキリムシの体液をぴちゃっと浴びたところを、祖母に見とがめられました。彼女は買い物袋を放り出し、ぼくを抱きしめて慟哭しました。こんなことはしてはいけない。すべての命は尊いんだ。それを奪っては絶対にダメなんだと、きつく抱かれたぼくの赤いTシャツは血だまりのように濡れそぼりました。


そうしたことが幾度かあり、ついには、「そんなに生き物を殺したければ私を殺しなさい」と、いっそう命の力強さを滾らせる大きな祖母に気圧され、以来、ぼくは自らに殺生を禁じました。大好きな "ばあば" をもう悲しませたくない、と、いっそう正信念仏偈のおつとめに励みました。まぁ、とはいえ、祖母も僕もゴキブリと蚊は見つけ次第に瞬殺していましたが(笑)それは人間の抱える矛盾ということで。


幸い、殺傷行為などせずとも、あらゆることを調べられる時代です。僕なりに死を追いかけたその結果…


死とは、安らかで静かで美しい。


そう考え至りました。どんなに苦しい最期であっても、ひとたびこと切れれば、全身の筋肉は弛緩し、その人にとって最も安楽で緩和な、いうなれば天使のようなお顔になるのです。露れ出た血や臓器なども決して気味悪くなどはありません。ふだん目にしないからそう思うだけなのです。たとえば、異性器を初めて見たときグロテスクに感じたでしょう?(僕は女性器を実際に見たことはありませんが)


命の終わるそのとき、あらゆる音は止んで、それまで築いた地位、名誉、友達の数などはすべて意味を失い、人も虫けらも、みな一様に、慎みぶかく無に還ってゆく。その美しい瞬間を、できれば僕がもたらしたい。でもそれをすることは許されない。だからこそ立ち会いたい。そして、もしも、もしも女性をそうできたなら、あの尊い亡骸を思う存分…


前置きはこれくらいにして、それでは、すべてのきっかけになったあの事件についてお話ししたいと思います。



新型コロナウィルスの流行が本格化しはじめた、2020年早春の、寒い夜のことでした。


仕事で疲れきって帰宅すると、アパートの1階で不意に声をかけられました。見ると、僕と同年代くらいで上の階に住む男が所在なく佇んでいます。彼は、「自宅の鍵をなくしてしまった」「困って大家に連絡したがつながらない」「家に入れないので、連絡をとり続ける間、お宅で待たせてはくれないか」つまり僕の家へ入れてくれと、そう言うのです。


実のところ、僕は数回あいさつをかわしただけのこの男が苦手でした。内気な僕とは対照的に、以前は金髪だったし(この日は黒髪でしたが)服装も派手で、パッチワークだらけのぶかぶかパーカーとかほんとむりです。いっそその柄みてぇにお前の身体を切り刻んでやっからな。


さりとて、寒夜にそう頼み込まれて断り切れず、僕はしぶしぶ彼を家に入れることにしました。自宅のドアへ鍵を差し込み、そういえば駅前にネットカフェとかあるだろうが、と心中毒づいて。

本棚以外には物量のない殺風景なワンルームをきょろきょろ見まわし、彼は、どこに座ったらいいすっか、と無遠慮に訊きます。どこでも、というと、ベッドにどさっと腰を下ろし、訊いてもいない自己紹介をはじめました。


彼の名前をここでは、鍵男(かぎお)とします。大学卒業を控えた22歳だそうです。


 ――じゃあ僕と同い年なんだね。と漏らすと、


なんだおぉぃタメじゃん。学生? へー高卒なんだ、すげー、社会人じゃん、と急にため口になり、「ハンジョウくん家、本の量やっば! …んー?『ジェフリー・ダーマ―』って誰? こっちは『無知の涙』? ムズそうな本だね。バカ大卒の俺よりよっぽど頭よさげじゃん」とテンションブチ上げでヨイショしてくれます。とりあえず、こいつがアホなのはわかりました。


冷えた僕の目は、ここでようやくあることに気づきました。


 ――あの、マスクは?


このご時世に、鍵男はマスクをしていません。僕はもちろん朝からつけたままです。便利屋という仕事上、お客様の家にあがることも多いので、つけ忘れなど許されないからです。


鍵男は悪びれもせず、「バイト先に忘れてきちゃってさ」


ムカつきます。そして自分にも腹がたつのです。鍵男に声をかけられた時点で気づいていれば、うちに上げない理由になったはずです。


すぐに使い捨てマスクを渡し、手も洗わせましたが、「すんませんでしたー」の言い方に、殺してやろうかと… ほんの少し腹が立ちました。


一刻も早く出て行かせるべく、大家に電話をさせました。が、やはり応答はありません。念のため僕からもかけてみましたが、呼び出し音が鳴るばかりです。


 ――鍵は探したんだよね? バイト先にはなかったの?


「うん、でも見つかんなくてー。他に心当たりもないし」


 ――警察には届けた?


「あっ、それは思いつかなかったなー。行ったほうがいいのかなー。行けば見つかる?」


しらねーよ殺すぞ。心中で鍵男をぶっ刺しながら、気を落ちつかせるためにコーヒーを淹れにいきます。鍵男も飲むというのでふたつ。淹れたマグカップを運び戻ると、「ハンジョウくん、砂糖とミルクおなしゃす」って、いよいよ殺っちまうぞコラ。ってのも当然じょうだ――



僕は鍵男に訊きます。今日この家に上がってることを誰かに連絡した? LINEとかでは? それから、さっき1階で他の住人に声はかけた? 世間話をはさみながらのそれら問いすべてに、否が返りました。


 ――ちょっとトイレ… と僕は腰を上げます。


ズボンを脱がず便座に座ると、声にせず、つぶやきました。


近々、政府から緊急事態宣言が出される可能性が、というこの時に、マスク無しで堂々と他人宅にあがりこむような人間は、殺されても仕方がない。


僕がこれまで殺人や死体損壊に手を染めなかったのは、祖母を悲しませたくなかったからです。

その祖母も2年前に逝きましたが、あの初夏の庭で彼女に諭され立てた誓いは未だ死んではおりません。いや、それ以前に僕は真っ当な社会人であります。「母を交通事故で失ったことにより、自分も人を殺してみたくなった」などと両者を強引に結び付けてみたところで、己が心に巣くったケダモノをどこのだれが愛玩動物のように愛でてくれるでしょうか。


ですが、もしも、もしも仮に、決して露呈しない殺人が行えるとしたら?

事前の殺意も計画も被害者との関係もなく、死体も見つからない犯罪。そして何より、「最近なにかあったのかい?」と僕のわずかな変化に気づき、その果てに悲しむ人がもういないのなら…

トイレの壁がせばまってくる、熱にうかされてゆく感覚と、それに相反して、頭蓋の底では小さな一滴にすぎなかった迷妄が大河の貫流となってゆきます。


人はどんな顔で、声で、力で、死ぬのか。列車の運転手が交替するように、お役目を終えた "生" が身体から降りて、入れ替わりに "死" が乗り込んだのなら、その身はどのようにしてあちらへ向かうのか。『九相図』『蟲』『殺戮に至る病』など、これまで繰り返し描かれてきたあの、さなぎが蝶になってゆくのにも勝る、婉美なお色なおしをこの目で…


 …シミュレーションしてみるだけ。それなら罪じゃない。


はじめての殺人! 記念すべき第一回! できれば女を殺したかったけれど、まずは男でも可! それに使われる凶器は~!? もう決まってるぅ~。


『バールのようなもの!』テッテレ~ !(^^)!


しかしながら、家には『バール』も、『ようなもの』もありません。もっとも、脳天を割って血が飛ぶと処理が大変ですからね。これは諦めねば。ざんねん!


血を出さずに男を殺す。では薬殺はどうでしょうか? 会社に行けば便利屋業で使用する農薬や殺鼠剤などがありますが、今は持っていません。ならばと急きょインターネットを見ても有益な情報はありません。"台所洗剤200mlを飲むと死ぬ" との記事は見つけましたが、キッチンにある『グリーンハーブの香り』洗剤を飲ませるのは難しいでしょう。


やはりここはシンプル・イズ・ベストぉ~ 。『扼殺』!(^^)! っておいおい、『薬殺』の字違いかよ~。遠回りさせやがって、灯台下暗しぃ~。


さぁ、それではどのように鍵男の首を絞めるかですが、室内のどこかで彼を背後から襲い、そのまま後ろに倒れこんで寝そべってしまうのがスマートかと。凶器は念のため、そうとは感づかれない物を用意します。(例えばロープを持って近づく様子が見つかってしまうと怪しまれますよね)実のところこれが難題で、フェイスタオルでは長さが足りず、バスタオルでは厚みのため首にうまく巻きつかない可能性があります。ここで僕が皆さまにお勧めしたいのは~~~、ジーンズなどのズボンです。なんでも構いません、ご家庭にあるものでけっこうです。お時間のある方は今すぐおズボンを脱いで首にまわし、両足部分を引っ張ってごらんなさい。ほらぁいいかんじぃ!


結論としては、まず鍵男に、「部屋に入れてやったのだから、風呂場のドアの下部のヒンジが調子悪いのを見てほしい」などと屈ませ、背後からその首をジーンズで引きずるように絞めます。最低でも3, 4分は力をかけ続け、絶命を確認しましょう。このとき、括約筋の弛緩により尿が出るはずなのでふき取ります。


…いや、待て、やめろ。そんな恐ろしい想像は。


人を扼殺するなどダメです。そんなことを考えてはならない。そのように、僕はようやく思いなおしました。


やっぱり刺殺のほうがベター♪


なぜなら、ここは木造の狭いワンルーム。首を絞めている間に暴れられ、壁を蹴られでもしたら音が響くのです。鍵男が行方不明になった日に、「この部屋で人が争い合うような音がした」などと他部屋の住人に証言されると非常に厄介です。


理由をつけて鍵男をバスルームに誘い出し、背後から抱きついて包丁で複数回刺す。


こうすれば彼の血も、返り血を浴びた僕の身もすぐに洗い流すことができます。うん、実にいいぞ。


ここからどうやって鍵男のボデーを透明にするか? 血抜きした亡骸は氷水の入ったバスタブに数日つけます。なんどか入れ替える必要があるでしょうが、この間にさまざまな観察と実験が行えます。匂いがしてきたらもう時間切れなので、肉と内臓は細かく刻み、茹でて燃えるごみに出すものと、出勤時に通る川に撒くものとに分け、これを何度か繰り返し、やっかいな頭部は仕事の合間にどこか森の中へリュックごと埋めます。そうそう、肉切り包丁とクーラーボックスを買わなきゃね。


当然ながら、もっとも警戒すべきは警察ですが、幸いこの地域にはまだまだ防犯カメラは普及しておらず、彼がこの家にいることは偶然なのですから、足取りは追えないでしょう。いや、それ以前に、事件性があり直ちに捜索対象となる "特異行方不明者" であるとは、失踪の状況からして認定されないはずです。


難しいパズルを脳内で解き終えたような高揚感とじれったさでした。瞼に描かれたその図柄が消えてしまう前に早く実物を組み立てようと、晴れやかにトイレからとび出ると…


鍵男がいません。キッチンにもバスルームにも。


玄関にも彼の靴はなく、いそいでドアを開けてみると、すぐ外の共用廊下に鍵男がいました。寒さに身を縮め、耳にスマホを当てだれかに電話しています。僕に気づくと、目礼を返しました。


あぁ大家につながったのか、と得心しかけましたが、彼の口調はため口で、おそらく親しい人のようです。やがて彼は、うん、じゃあね、と電話を切ると、少しはにかみを見せ、


「嫁に電話してた」


 ――よ、よめ!? 結婚してるの!?


ドアを開けたまま面食らっていると、「ふぅ、寒いね」と両手をこすりながら、彼はまたうちの中に戻ります。よほど僕の顔が驚きに打たれていたのでしょう。ベッドに浅く尻を乗せた鍵男が、耳を赤らめ言いました。


「3日前、子どもが産まれたんだ。女の子。あさって嫁といっしょに退院予定でさ」


二の句が継げない僕を見やると、彼はマグカップの温もりを抱いて、話しはじめました。


昨年の春、年上の彼女が妊娠した。自分は大学4年生だが、産んでほしい、結婚しようと、ためらいなく籍を入れた。大学は中退する覚悟を決めていたが、彼女から、あと1年弱だし絶対に卒業したほうがいい、と言われ思いとどまった。すでに教育関係の企業から内定はもらっており、結婚を報告したところ、人事の人はとても喜んでくれた。一方、彼女の母親(父親は幼いころに死去したそうです)は怒り心頭で結婚を認めてくれなかったが、悪いのは自分なのだから仕方がない。これから家族を幸せにしていくことで許してもらう他はない。兎にも角にもお金は貯めねばならず、それからはバイト漬けの日々を送っている。3日前に彼女が出産してからは、家には帰らずバイトをし通し、休憩の合間に産科医院へ彼女と子どもの顔を見に行っていた。そして今日、着替えをとりに久しぶりに帰宅したが、家の鍵が見当たらない。ネットカフェに泊まることも考えたが、節約のため、できれば避けたかった。そこへハンジョウくんが帰宅してきた…


「これが嫁と子ども」と、鍵男はスマホの写真を見せてくれました。

このご時世だからでしょうか。マスクをして赤ん坊を抱く女性。ですがその下の表情は間違いなく愛しみに満ちたものでありました。出産という大きな、本当に大きな仕事を終え、母親になった女性。ふと、母が僕を産んだときはどうだったのだろうかと、見えるはずのないその日のおもかげを探して、気がつけば、恥ずかしいほど画面ごしに鍵男の奥さんを見つめていました。やがて、白いベッドと入院着の淡い色彩が、ふんわりとまぶしく滲みはじめ、僕は目を細めました。


「ハンジョウくん、今日、俺を入れてくれてありがとう」


そういって鍵男が画面を閉じたとき、僕のケダモノは動きまわることを止めて伏せりました。そしてそいつを、いや、彼に愉悦的な殺意をいだいた自分をこそ憎みました。もう冗談はなしです。産まれたばかりのあの子を父なし子にしようと面白半分にもくろんだ僕は下劣な人間です。もし鍵男が外に出て電話していなかったなら。殺人の好条件がそろったままであったなら。


 ――俺は殺っていたかもしれない。


名状します。俺は女性を殺し、その遺体を犯したい。あるいは男性であれば、殺めた亡骸をバラバラに解体したい。


心の病などと優しい言葉では到底許されぬ、獣にも劣る衝迫が、この身には棲みついているのです。そんな自分を大切に育ててくれた母と祖母に報いなくてはならないのに。それなのに俺は…


「ハンジョウくん、大丈夫?」


鍵男が僕の肩に手を置きます。どうにかうなずき、やっと礼を返しました。


万が一にも、新婚の彼を手にかけてしまっていたら、僕は…


いや、それからしておかしいのです。鍵男に妻子あることが分かった拍子に罪悪感をいだく。では単身者なら死んでいいとでも? 悲しむ人がいないから? 馬鹿な、親きょうだい友人はどうなるのだ。


分かっています。僕は異常性癖の狂人です。おそらくは精神科での治療が必要なのです。


だけど、怖い。


病院へ行き、病名をつけられ、よもや危険人物として世の中に扱われることが、恐ろしい… さりとて、そう、そんなのは虫のいい甘えにすぎない。俺が暴走するのを防ぐことが最も重要だ。だけど、たとえ医者にだとしても、このケダモノを人前にさらすことが怖い。そう、でも、だって、実際に、22年間抑えてきた。檻にぶち込み、意識の底に沈めて、決して表には出さなかった。やれる。このまま一生、これまで通り、こいつを隠し通していられる…


鍵男の呼びかけが聞こえ、僕は逃げるように腰を上げました。


 ――鍵男くんはメシ食ったの?


「じぶん家で食うつもりだったから、食ってない」


 ――なら、僕もまだだし、かんたんなパスタとかでよければ食ってく?


目を見開いた鍵男の口が一拍遅れて、マジで? いいの? と動きます。


 ――うん、だいじょうぶ、毒なんか入れないから。


「うぉー! マッジうれしい! チョー腹減ってた!」と、雲が流れ去ったように彼は晴れやかです。「今日バイト先でやらかして、店長に殺されそうになってさ、ヘコんでたんだ。ハンジョウくんがマジで仏に見えるよ」


とんでもない皮肉でしたが、むしろこちらが嬉しくなってしまうほど彼は喜んでくれました。卑しく下等な自分が人の役にたてたような気がしました。


小さいころから自炊していたので、料理は得意なほうだと思います。パスタが茹であがったら、冷蔵庫で保存している自作のバジルソースと和えれば…


ふと視線の先に、いま取りだした緑のバジルソースと、台所洗剤「グリーンハーブの香り」が重なりました。そういえば、"台所洗剤200mlを飲むと死ぬ" と、先ほどネットに載っていましたね。ほんの好奇心で、大さじにとったバジルソースに洗剤を数滴たらし、舐めてみます。


激しくえずいて吐き出しました。


「え、そんなにまずいの?」不安な目を投げる鍵男に、だいじょうぶだよ、と返し、ちゃんとパスタを作りました。トングでふたり分、皿にとっていると、


「あ、もしもし」と、鍵男の声が。どうやら大家につながったようです。緊張した声で事情を説明しはじめました。僕はパスタを盛った皿をローテーブルへ運びます。電話のやりとりから察するに大家は怒っているようです。無理もありません、夜は更けています。無事に鍵が借りられるといいのですが。


ペコペコ謝って通話を切った鍵男が、「ようやく話せたよ。でもめっちゃ怒ってる」


 ――まぁ、仕方ないよ。でも良かったね。これ食う時間ある?


「もちろん。この部屋にいるって伝えたら、合鍵持って20分後くらいに行くって」


いつもひとりのこの食卓は、ふたり分の皿を乗せると手狭なのだな、と、そんなことに気がつきました。彼から、立ち会いでの出産の様子を聞かせてもらっていると、瞬く間に20分が過ぎました。


インターホンが鳴り、玄関を開けると、眉間に皺を寄せた50代くらいの女性が、「ここの大家です」と無愛想に入ってきました。もちろんマスクを着用していますが、その顔に怒りが走っていることは明らかでした。


「あんた、何回目だよ!」


奥にいる鍵男に声を荒げます。鍵男はカーペットに正座し頭を垂れています。口調からして、以前にも鍵を失くしたことがあったのでしょうか。


「ほんとにいい加減なやつだね! ろくでなしだよ! これだからあんたは信用できない!」


まぁ怒るのは当然。そう思って聞いてはいましたが、しだいに違和感をおぼえました。怒りすぎではないかと。以前によほどのことがあったのでしょうか。


 ――あの…


家の中で大声をあげられることが不快ということも手伝い、つい声が出ました。大家の吊り目と鍵男の弱りきった眼差しが僕に注がれます。もう言うしかありません…


 ――彼は、先日、子どもが産まれたばかりなんです。それでバイ…仕事をですね、がんばっていて…


「あなたには関係ないでしょ」

大家に一刀両断されてしまい、こいつの身体を一刀両断してやろうかと… いや嘘ですけどね。しかしながら、僕は人の話しを遮る人間がはっきり申しまして嫌いです。話しは最後まで聞くのが最低限の礼儀だよ、と祖母は常々口にしていました。


「だいたいね」大家が僕に詰めよります。「あなたもあなたで、こんなろくでなしを部屋に入れてやる必要なかったんだ。だからこの人がつけあがるんですよ」


それは言いすぎでありましょう。鍵男にも、僕に対しても。失礼ですが何様のつもりですか、と反論しかけると、


「悪いのは俺です。この人は関係ないです」と、鍵男が割って入りました。が、大家は引き下がらないどころか、こめかみのあたりを震わせ、燃えあがらんばかりに彼を見たのです。


「もういい加減にしてよ! あんたはいつも口ばっかだね!」女性が唾をとばし怒る様を、僕は初めて目にしました。「あたしがバカだったよ。今まで我慢してきたけど、もうあんたたちには出て行ってもらうからね!」


何を言っているのでしょう? この人は頭がおかしいのでしょうか? 大家とはそんなに偉い人種なのでしょうか? 疑問、怒り、気持ち悪さ。それらに心がかきまぜられ、膝が硬化してしまい、鍵男が大家へ伸ばした哀願の手が振り払われる様子を、ただ自分の網膜に映していました。


とつぜん、風が狭所を抜けたような音がし、大家が床に倒れました。ゴンというすごい音とともに。


僕はとうに混乱していましたから、大家がふざけているのか、とも思いました。それを打ち破ったのは鍵男です。


「大丈夫ですか!? ハンジョウくん! 足持って、ベッドに寝かせて!」


言われるがままそうしました。大家の顔を見ると、まぶたをひくつかせ、白目がのぞいています。呼吸は苦しそうで、ほら穴から風が抜け出るような異様な息づかいです。鍵男は彼女の首を支え、後頭部にかけて見回しました。


「ちょっと血が出てる。倒れたとき壁にぶつけたんだ」


 ――タオルとってくるよ… どう、したんだ?


「心臓が弱いんだ。薬を飲んでるって聞いた」


人の顔が石膏の色になってゆく様を初めて目にしていました。呼吸は浅く弱くなってゆくようです。おそるおそる手を握ると、潮目の引く速さで指先から温もりが失われ…


「ここ202号室だよね? 救急車呼ぼう。俺が電話する」


鍵男の声がします。僕の視界は、なぜでしょうか、大家を横たえたベッドから、本来の色が消えていくのです。焼け焦げ灰色になってゆくカラーフィルムのように。


 ――待て。


そう言いました。が、聞こえないのか、鍵男は慌ただしくスマホをタップしています。


 ――待てって言ってんだろ!


声をあげ振り返ると、鍵男が僕を見て表情をなくしました。救急車? そんなことは許さない。


 ――もう少し待ってくれ。


務めて穏やかに、ご丁寧に少し頭まで下げて。


「ど、どうして?」


彼の瞳に浮かんだのは怯え? いや、今はそんな些末なことを注視しているときではない。


世界が、砂に覆われてゆく。どんな許容や慈悲をも含んではいない灰褐色の風が吹いている。


 ――ここは俺の家だ。俺の家で起こったことの対処は俺が決める


「…決めるって言ったって… 」


 ――なぁ、こいつ死ぬかな?


鍵男は殴られたみたいに首をのけぞらせやがった。首筋の筋肉が緊張し、それが全身へ伝播したことがわかった。


「な、何言ってるんだよ?」


降って湧いた幸運だった。目の前で、人が死ぬかもしれない。しかもこの手を汚すことなくだ。その時を、見たい… 見たい… 見たい… 待ちに待ったその瞬間が、訪れるかもしれない。


そのためには――


 ――おれはこいつがムカつく。お前だってそうだろ? あんな言い方されてよ。だから、このババアの自業自得なんだ。だろ? せいぜい苦しめばいい。ちょっとの間、このまま放っくんだよ。な?

面倒だが、やはり鍵男の協力は必要だ。それを引き出すため、俺は急ごしらえの理由を並べた。


が、奴は俺になびかない。「病院に連れてかなきゃだめだ」と、拳を握り、くさびを打つように両足を踏ん張りやがる。


俺はとにかく時間が惜しかった。時という早馬は俺を引きずってもう駆けだしているんだからな。俺は立ち上がり、真正面から鍵男に対峙した。奴の口がわななく。


「…お、お前がい今、言ったこと、け、警察に証言すんぞ。そうされたくなかったら、はやく救急…」

 ――やってみろよ。


これを乗り越えれば山の頂きだ。長年望み焦がれたその場所からは何が見えるのだろう。到達した俺は、膝をつき、涙を流して眺望するだろうか。そのもうあとひと踏ん張りを邪魔する石ころを、谷底へ蹴落として、進め。


 ――どうせたいした罪にはならない。俺がババアを殺すわけじゃないし、この場合、救護義務もない。お前がそう証言したところで俺は無罪かもしれないし、もし罪に問われたとしても、釈放されたら、お前をどこまでも追い詰めて牛刀で切り刻んでやる。自分の目玉を喰わせてから、指を一本ずつ切り落としたところで、今何本残ってるかを当てるゲームをしてやる。絶対に、絶対にそうする。

俺のアレは完全に勃起していた。このババアの生きている姿には何の欲望も湧きはしない。だが今は、たしかに自分を構成する一部でありながら、忌むべきだ、嫌悪すべきだ、忌避すべきだ、と長年拘禁してきた獣欲を、ちょっと外へ散歩させてやるくらいは許される状況なのだ。それをコイツになど、邪魔はさせない。


今まさに雄たけびをあげている醜いケダモノは、俺の下着にこれまでの欲求不満をぶちまけそうなほどギンギンにいきり立っていた。


鍵男が泣き出した。綱渡りをやらされているように身体を揺らして。不規則な息をひっひっと吐きやがる。


 ――なぁ、ちょっと大人しくしてるだけでいいんだ。お前の不利益になることなんて何もない。そうだ、疲れたろう。風呂入ってもいいぞ。タオルあそこにあるから。


いい考えだった。奴が風呂入ってる間にババアを犯す。なんども、なんども。おそらく、ババアはこのまま死ぬ。その後で救急車を呼んだら、警察や医師は身体の異変に気づくだろうか。バレたら死体損壊罪? いや、生前の婦女暴行罪か?


まぁいい。どちらにせよ、鍵男のことはもう十分あやしてやった。奴が身体を震わせるばかりで行動には出ないことを確認すると、おれはベッドにひざまずいた。女のセーターの袖をまくり、ズボンのすそも膝まで上げる。見たいのだ。今はまだ青黒い血管からやがて血液が干上がって、枯れた組織が硬直していく様を。白く肉づきのいい中年女の肉を凝視する。自分の吐く息で、鼻と唇が火傷しそうに熱い。


「…義理の母なんだ」


もはや鍵男など眼中になかった。足元で鳴くネズミよりも取るに足らなかった。だから奴が嗚咽しながら何を言おうが知ったことでは――


「俺の嫁の… お母さんなんだ… その人は…」


俺の、おそらく脳が、その意味を俺に伝えてきた。たとえ1%たりとも思考用のメモリを鍵男になど割きたくない。だというのに、つい、振り返ってしまう。


 ――あ?


鍵男がたじろいだ。蹴り飛ばされた犬のように間合いの外まで退くと、涙と鼻水が口に流れ込むのをぬぐいもせず、つっかえながら言う。


「その人の旦那が死んだ後、ひとり娘を育て上げて… その娘が、俺みたいな奴と結婚するって言うから、凄く反対してるんだ。だけど娘が… 俺の嫁が、どうにか説得してくれて、旦那が遺したこのアパートに、俺が就職するまでは住まわせてくれてるんだ」


ひどく面倒なことが起こったような気がした。要するに、目の前で泣いてるこのパリピみたいな奴が、この大家の義理の息子だと?


 …だったらよ。


俺はお互いに win-win な提案を出してやる。


 ――おまえにとってもこの義母が死んだ方がいいだろうが? 結婚を反対する奴はいなくなるし、ひとり娘がこのアパートを相続だってできるんじゃねぇか? 一石二鳥だろうが。


鍵男がうつむいた。俺はそれを承諾と受けとりかけた。が、奴は、「…認めてもらいたいんだ。結婚を…」などと、クソほど気色悪いことを言いやがる。


「…俺は、こんなバカだし、なのに子ども作っちゃって、反対されるのは当然なんだ。悪いのは俺なんだ。だからその人は何も悪くない…『その人』って言ったけど、いつか、ちゃんと『お義母さん』って言わせてもらいたいんだ。就職して、ちゃんと稼いで、家族を幸せに…」


こんな口上を惨めったらしく述べはじめ、ぐだぐだむにゃむにゃ言い終えると、「お願いします! 救急車を呼ばせてください!」と頭を下げる。


俺の登頂を邪魔する石ころを、谷底へ蹴落として、進め。


俺はズボンを脱いだ。その両足部分を持ち、左右にビシンと張る。いきなり下半身いきり立ちのボクサーパンツ姿になった俺を、鍵男が呆気にとられ見つめてるよ。


奴との間合いを詰める。さすがに何かを察した鍵男が一歩退く。話し合いは決裂した。首を絞めて殺す。そのあと大家を犯す。


と、そのとき、何かを得心したように、鍵男の目に光が差した。


「信じてないんでしょ?」


意味を測りかねたその刹那、鍵男にスマホをとりだす時間を与えてしまった。119番はさせねぇ、と飛びかかろうとして、だが奴は、「これ見てください。証拠写真です!」と、画面を突き出した。


病室で赤ん坊を抱く大家。


こいつの嫁が撮ったものだという。その画像を見つめたほんの一瞬が、俺には長い時間に思えた。

気づけば、奥歯を割るほど強く噛み締めていた。ズボンの股部分を引き裂くほど腕に力を込めていた。俺は写真の赤ん坊に、すり鉢状の砂底へ放り込まれたのだ。躊躇するほど身動きのできない蟻地獄に。


スマホの画面に、色がつきはじめた。病室のアイボリー。赤ん坊のピンク。はにかむ大家の淡いボーダー。そして、明示のできない、歓びしあわせのにじむ彩り。


ようやくわずかばかり陽を見られるはずだったケダモノを、散歩用のリードをつけた後で暗い檻に連れ戻すなんて、あまりに不憫じゃないか? 怒りの咆哮は哀れな抗議でもあると分かっているから、俺だって痛ましい。あるいは、宝くじの当選券を、高層ビルの屋上から風に飛ばしてしまったようなものだ。血眼になって眼下を見下ろしても、もうそこには変わり映えしない日常がどこまでも広がって、まぁ昨日までの日々に戻っただけじゃないか、とクソみたいな慰みを受けたとしても、そんなの誰が聞き入れられる?


分かってる。俺は排除されるべき異常者だ。人並みのなにかなど望めない鬼畜だ。だけどな、それは求めて授かったものじゃない。そんなもの、欲しくなどなかった。俺をこんな恥ずべき獣にしたのは誰だ? そいつを、俺は憎む。そいつを、俺は殺す。そう、俺が本当に殺したいのは、鍵男でもこのババアでもなく…

 ――もう、いい… 分かった。

鍵男はエサ待ちの金魚のように口をパクつかせ、「――それって…」


 ――大事にしてやれよ… このババアと、てめえの嫁を… てめえの人生をかけて。


俺はズボンを投げ捨てた。高々とテントを張っていたボクサーパンツがみるみるしぼんでゆく。なのにまだパクパクやってる鈍くせえ鍵男だ。


 ――さっさと救急車よべこのバカが! ババアが死ぬだろうが!


「はっ、ありがとうございます! 救急車、呼ばさせて頂きます!」


 ――それから俺を思いっきり殴れこのバカが!


「は?」


 ――殴れっつってんだろコノヤロー! やんねえなら、てめえをぶっ殺す!


胸の奥から熱い何かがこみあがる。すべてを、何もかもを振り払いたくて、涙があふれ出る前に、俺はわざと大げさに拳を引き、唸り声をあげた。


蠅の止まるような右ストレートが奴に届くより先に、信じられない衝撃を顔面に受けて、俺は吹き飛んだ。


 …ええ、そうです。僕の義理の母です、この人は。


遠いところから引き戻されてくる血流のひだが、誰かの声を拾っていました。


 …こっちの人は、ハンジョウさんといって、この部屋の住人です。事情があって、上がらせてもらってるんです。


知らない男性… いや、たしか今日会ったばかりの… そう、鍵男です。話している相手は救急隊員でしょう。


 …義母が倒れて、どう対応したらいいかお互いパニックになって、気がついたら、ハンジョウさんとケンカになってました。それで、僕が殴ってしまって…


そのやりとりが終わると、僕と大家さんは救急車に乗せられていました。彼女は病院で回復し、僕も精密検査で異常なしでした。もちろん、鍵男を告訴などしませんでした。


後日、鍵男、あの大家さん、そして、奥さんに抱かれた赤ちゃんの4人で、迷惑をかけたと、わざわざうちに挨拶に来ていただきました。とんでもないです… と、さりとて追い払うわけにもいかず、ただ、ひとつだけお願いをしました。


 ――あの、もし、できればでいいのですが… 赤ちゃんを、抱かせていただけないでしょうか?


ことみちゃん、というお名前だそうです。一応、このご時世ですから、その前に手を洗い、もちろんマスクもして。


 ――どっ、どうやって抱けば?


初めてなもので。首を支える抱き方を教わり、慎重にそーっと腕におさめます。赤ちゃんって、柔らかくてふわりとしているのですね。もぞもぞと不思議そうに見つめられ、背中がくすぐったい心地になりました。すると、背骨あたりの、あの日から温もりをなくしていたどこかが、ほかほかと癒され慰められていくように思えました。


人の親になることなど許されない人間の、わずかばかりの現実逃避――

 ――ことみちゃん、ありがとうね。


春の白い光が、鍵男家族を見送るため玄関を出た僕に降りそそぎ、陽だまりのなか、人知れずこうつぶやいていました。


よかった。今日も殺さなかったぁ。

第一話 完

逮捕に至った経緯は次回。

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