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「京大医学部医学科」合格者の言ったこと(起)

「京大医学部医学科」合格者の言ったこと(起) 30代の頃、名古屋の河合塾学園をはじめてとする予備校・塾で講師をしていた。自分の塾を作って維持するための方法を考えていた。大規模塾の金看板が無ければ通用しない講師ではダメだと信じていた。 まず、教える対象。生徒と話すと 「野村萬斎が宣伝していたから」 とか 「ハイジが歌っていたから」 という理由で塾を選ぶ子はダメ。その程度の熱意の子を教える気はサラサラなかった。 いろいろ考えて、京大、阪大、名大などの受験生を指導対象にすることに決めた。私は、名古屋大学出身で英検1級に合格していたアメリカ帰りの英語講師だった。ところが、それでも旧帝ー特に、京大医学部医学科の生徒は 「で、先生が京大受けたら医学部のボーダーの8割超えられるんですか?」 と、疑ってきたのだ。 そんな生徒なら、狂言師やアニメで釣られたりしない。きちんと要望に答えたら東進、河合塾、駿台などの大規模校に対抗できると思った。ただし、6万人を擁する「佐鳴」でさえ東大理Ⅲを4名合格させたとテレビCMを流しているくらいだ。 When I was in my 30s, I was working

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父親は一筋縄ではいかない(4章、名古屋大学の受験前)

4章,名古屋大学の受験前 数学に対する執着は残っていた。 最初に 「ボクは数学が苦手なのだろうか?」 と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。 当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。 点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて 「もうボクの頭には入りきれない」 と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、 「こんなのありえない!」 とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、 「証明できないと、使う気になれない」 というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。 2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ち

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イナベより愛をこめて(9)

イナベより愛をこめて(9) 不当な圧力には断じて「ノー」と言え 日本の文化の特徴として「和を以て貴しとなす」というのがある。現代の言葉で言うと、同調圧力がきわめて強いということ。制服に反対でも、ブラック校則に反対でも、ブラック部活に反対でも、「ノー」というと目立つので黙ってしまう。 私はクリスチャンなので仏式の葬式はしなかった。神社で行う寄付もしない。「組」も抜けた。その時々に、周囲から同調圧力があった。陰口も多い。しかし、私にとって組長とか自治会長という肩書は意味がない。きちんと自分の思いを伝えれば、「あの人はそういう人だ」と周囲の人も諦める。 日本も21世紀になり、中国や韓国に経済的に追いつかれ追い抜かれて自分の国に何かしらの欠陥があることに気が付き始めている。制服も自由化が進み、ブラック校則やブラック部活を廃止、自由化する波は止めようがないほどの流れになってきた。 昭和の時代に生きていた教師が引退する頃には、制服は消え、校則は大半が廃止され、部活は好きな人だけがやるという当たり前な姿に変化していることだろう。 憲法も改正され、軍事侵攻しようとする隣国に“遺憾砲”ではなく「ノー」と

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