第4話 - 音と色彩と私
ポロン、ポロロン。
美しい球状の音が泡のように生まれては消え、生まれては消え、生まれては……。
マルカートで美しく奏でられていたはずのそれが突然表情を変えた。シャボン玉が硝子玉に装いを変える。スタッカートは曲調に遊びを加えた。
クレッシェンド、クレッシェンド、クレッシェンド。
たった四拍。その間にもどんどん産声をあげる硝子玉がバラバラと宝石箱に詰められてはそれぞれが輝きを放った。
オクターブ上がり、更に激しく細い銀線が叩かれる。
一瞬の呼吸。ピタリと動きを止められた光たち。すると今度は濁流のような音が響き渡る。ペダルを深く踏んで指を思い切り滑らせたのだ。グリッサンドの後に待っていたのは厳かな和音の響き。
だが、その時。
白鍵と見違えるほど真っ白な指がハタと止まってしまった。折角の硝子玉も一瞬にして夢の世界へと還っていく。
「──聞こえない」
耳にかけていた黒髪がはらりと落ちる。
触れれば折れてしまいそうな彼女の腕はまだ鍵盤から下ろされてはいなかった。
MIDIノート番号64国際式音名E4……和名ホ音。よく知られた名前でいえば【ミ】に相当する音。ちょうど、奏者の腹のクビレのあたりに位置する。
彼女はそっとその白鍵を押す。
コトン、というハンマーの上がる音。確かに、彼女の目の前でその白いハンマーが銅色に輝くワイヤーに触れていた。
なのに、美しい音色は生まれない。何も、聞こえない。
「何処に行ったの……」
彼女はふらりと立ち上がった。
窓の外を見つめれば、灰色の空が広がる。白鍵と黒鍵を混ぜて濁らせたような、少し明るいグレー。
スリッパの踵を擦りつつピアノに背を向けて部屋を去る彼女。
なにかに取り憑かれたかのように、小さな歩幅のまま……だが、確かな足取りでフローリングを溝と並行に進んでゆく。嗅ぎなれない、カビのような土のような……そんな匂いに誘われるように。
両脇の白い壁が妙な圧迫感を与える。壁掛けの観葉植物が女の動きに合わせて首を振った。彼女を心配しているのだろうか。
鳶色の古びたスニーカーと、赤茶の真新しいローファーがぴっちり揃えられて待ち構えていた。外へと誘うように。彼女は躊躇わずに鳶色の靴紐を緩めた。いつもより念入りに足先から足首まで締め上げる。
白いスカートの裾を気にしながら立ち上がる。
そして、グイと腕を曲げて戸に密着する。自重をかけつつドアノブを押した。
彼女をここまで誘った香りはいっそう強くなる。そして、白い腕を掴んで引きずり出した。
目を離せばすぐこうだ。
糸のように細い眉を顰める。
数秒遅れて彼女は肌寒さを感じる。
いや、肌寒いどころではない。
ため息が白い雲のように視界を遮った。
背後でガチャと冷たい音がした。オートロック式の鍵が本来の仕事をしたに過ぎない。
諦めた彼女は一歩前へ出た。家人の帰りはいつも遅い。幸いだったのはカラシ色の分厚いセーターを着込んでいたこと。足元の鳶色が真冬の雨を吸ってさらに濃くなる。斑状だったそれも数メートルで全部が同じ色になる。
聞こえないホ音。あれが無ければあの曲は完成しない。美しく幻想的な和音は成立しない。
庭のベンチをサッと払い、腰を下ろす。服越しにでもわかるヒヤリとした感触。踵をつけてつま先をゆらゆらと揺らす。ちょうどその先の彩が目に留まる。季節外れにも思える黄色い花は、よく見ると福寿草だった。その奥には格子を隔てて線路が走っている。
ぽたぽたぽた、椿の葉を沿って落ちた雨粒が水溜まりに吸い込まれていく。
そんな何でもないものを彼女は瞳にやきつけた。しかし、時々思い出したように指先は膝小僧の上で音を紡ごうとしている。
「濡れちゃうよ? というか、濡れてるよ」
必死に求めていたその音ではないのに、彼女は微かな安堵を得たことに驚いた。
「いいの」
「よくないでしょ」
声の主は赤い傘をさしていた。彼は庭に立てたアーチの下に居る。初夏になればそこには彼の傘とおなじ紅の薔薇が咲く。
「良くないのは貴方の方だわ。此処はうちのお庭よ?」
「そうだね。それを言われちゃあ、ぐうの音も出ないな」
ぴちゃ、ぴちゃりと石畳を踏みしめて赤い傘は彼女に近づく。彼は老年と呼ぶにはまだ若く見える。
きつく張った帆がバチバチと雨を弾く。その音は彼女の頭の上までやってきた。
「君もよく聴いているのかい」
「何を」
「今日は聴こえないけれど」
「……そうね。私にも聴こえない」
雨足は激しさを増してきた。彼の傘が無ければ、と思うと彼女は背筋が寒くなった。だが、同時に余計なお世話だとも思った。
それ以降彼は何も言わなかった。彼女もただただ水溜まりの模様を目で追っていた。
「──フン、フフン」
「それって……」
ふ、と零れた笑みは土砂降りの庭に消えていった。しかし、彼の鼻歌は続く。
振り向いた彼女は彼の肩が濡れていることに気がついた。
「貴方が濡れてしまっているじゃない」
「──トゥッ、トゥルル」
加速するメロディ。細かく刻まれるリズム。
それは正しく……
「このあとが好きなんだけど、鼻歌じゃあ限界がね」
「……そうね。私もよ」
細腕を曇天へ伸ばす。吐いた息で指先が霞む。
「貴方も音楽を?」
「やっぱり弾いていたのは君か」
分かっていたくせに、と彼女は口を尖らせた。腕を伝ってきた雨粒の冷たさに思わず手を引っこめる。
「ええ」
「僕も昔、ね」
「辞めてしまったの」
「そうさ」
如何して、と訊こうとした彼女の目に映ったのは彼の濁った瞳だった。
「盲目であってもピアニストは続けられる、ましてや僕は完全に視界を失った訳じゃあないんだ──でもね、僕には彩が必要だったんだよ」
ひとり、語り始めた。
「音が色に見えたんだ。その逆もそう」
「今は……」
「さっぱりだよ。濃淡くらいは分かるけれど、僕にはこの傘も花壇の花も何もかも美しい色を感じないんだ──勿論、僕の奏でる音にも」
こんな話をしているのに、彼の口角はほんのりと上がっていた。彼女を見つめる目がゆったりと細まる。
「でもね、君の奏でる音は色鮮やかなんだよ。君が持つパレットはいつだって美しい色で覆い尽くされている」
彼女は何と言えばいいか分からなかった。自分のピアノにそんな感覚を持ったことは無い。そんなふうに褒められた事なんてもっと無い。
口を噤んだままの彼女の手を彼はとった。細い指が触れ合う。
「僕はすぐそこの駅に向かうんだ。良かったら、これを使いなさい」
「……その為だけに、わざわざここへ?」
「そういうことにしておこう。風邪をひかないように気をつけるんだよ」
彼女が拒む暇も与えず、彼は踵を返した。白い息を靡かせる彼の背中がどんどん遠のいていく。
がたんごとん、がたんごとん──
薄らと開けた目に深緑色の列車がうつる。
大窓からは未だ曇天が見えた。
黒い漆塗りの蓋を指でなぞる。いつの間にか眠りこけてしまったらしい。楽譜も閉ざされたまま。
蓋を押し上げ、カバーの赤いフェルトを捲る。
偶々当たった指がぽぅん……と鍵を弾いた。
「──聴こえる」
庭のベンチには見慣れぬ赤い傘。
──彼女は再び楽譜を開いた。