第2話 - 溶けきらぬ雪
「あ、また雪降ってる。さっきは少し晴れてたのに」
誰が聞いている、という訳でもないが彼は呟いた。伸ばしっ放しのボサボサの髪を掻くと、のそりと立ち上がって窓際に寄る。呟いた先刻よりも目の前の景色の霞が酷くなっているように感じた。透明なガラスから外の冷たさがジリジリと伝わってくる。深緑色のローカル線の電車が小さく見えた。下りの列車だった。
「天気予報当たりすぎて怖いよ。何でこういう時は当たっちゃうのかなぁ」
彼の独り言に応える人は誰一人居ない。ただ、呟きと息遣いに呼応して窓ガラスが白く濁る程度だった。小さく首を傾げた彼は溜息をつき、元居た場所──散らかりっ放しの作業台に戻る。全体重を預けた背もたれがギシリと軋んだ。
───音が、無い。
男は手の中でシャープペンをくるりと一回しする。
彼は、雪が嫌いだ。昔からそうだった訳では無い。勿論、人並みに幼少の頃は雪だるまなんかを作って遊んだ記憶もある。それでも何故か、何時からか……嫌いになった。彼自身何となく見当はついていたが。
落ち着かない様な気持ちを振り払うように、大きく伸びをした。そして目前の課題と再び向き直る。作業する自分が発する音が彼の鼓膜を刺激する。
然しその集中も長くは続かなかった。手が止まる。と同時に音が消える。
「嗚呼、クソっ」
汚い言葉を漏らした彼は天井を仰いだ。そして少し首を傾け、窓を睨みつける。雪は止んでいた。
ここぞとばかりに彼は黒いジャンパーを羽織り、いつも履いているスリッパを突っ掛けて玄関から外に出てみた。冷たい空気が鼻腔に、肺に、どっと流れ込む。身震いした。ほんのちょっと吐いた息さえも真っ白になって風に流されてゆく。
押し開けた重く冷たい扉が大きな音を立てて閉じる。その振動で木の葉に積もった雪が落ちた。
数日前にいっきに積もった雪が未だ残っていて、溶けかけのそれらの上に新しい雪が被さっていた。そっと手に取ると、それをすくい上げた手が、指先が、真っ赤に染まった。彼は、ゆっくりゆっくりと溶けていく雪を見つめていた。
「こんなんじゃ……気晴らしに出掛けるのも無理だよな」
彼の住む場所は決して豪雪地帯という訳ではなかった。だが、それが逆に仇となったか雪が積もっている間はあまり出歩くのに適した街ではないのだ。それも彼を億劫にさせている一つの要因である。家の目の前の坂は近所の子供達がソリ遊びをした所為でツルツルになっていた。これじゃ、歩くのも一苦労である。
部屋の中に戻ろうと玄関先で踵を返した鼻先に白いものがチラついた。
「まだ降るのかよ……雪が解けないじゃん」
無駄とは分かっていながらも視界に入る雪を手で払う。
部屋に入った彼はストーブの前に胡座をかいて冷えた身体を温めた。じんわりと温まっていく指先。だが彼は、石油の燃える匂いにむせた。
丁度その時、作業机の上でスマートフォンが光った。バイブを鳴らして唸る。
「もしもし……」
《あ、やっと出た! さっきも鳴らしたんだけど、トイレでも行ってた?》
やかましいくらいの話し声に、堪らず彼は通話音量を三つ下げる事にする。
「出し抜けに何がトイレだ馬鹿。ちょっと外に出てたんだよ」
苦笑しながらも、彼は少し嬉しそうに話を続ける。電話の向こうの相手もややハイテンションで話し始めた。
《そっちまだ雪積もってる?》
「あぁ。晴れてちょっと溶けたかと思ったらまたすぐに降ってくるんだよ。マジ困る」
ギシギシいう椅子に三角座りをした彼は心底嫌そうにそう返事した。
《で、どうなの、そっちは》
「何が?」
《元気でやってんのか、って聞いてんだろうがバータレ》
電話の向こうの彼の質問の意図が分からない彼は、シャーペンの底を机にコンコンと当てて考える。
勿論、元気だ。風邪も引いていないし、雪がある以外は特に不自由も無い。
「別に、どうってことないよ。元気だ」
《ふーん、ならいいけどさ。最近全然電話寄越さないから》
「あ、そうだっけ、ごめん」
《ウワッ、きも! お前、そんな普通に『ごめん』とか言う奴だっけ?》
「失礼な」
彼は、ハイテンションなこの男にいまいちノリきれない。だが、何故か……その通りだとも思った。ここの所、少し変な感じはする。周りに何も音が無さすぎて、刺激が無さすぎて。
「まぁ、ちょっと静か過ぎるかな」
《え、それって、俺に来て欲しいって事か? なぁなぁ!》
「お前はいい。うるさい」
《ひっでぇ》
やっぱり、変だ。彼は確信した。『来てくれよ』と言おうとしたのに、口はそう言っていなかった。不思議なこの感覚を消化しきれない。くるりと回そうとしたシャープペンが床に落ちてしまう。
《ま、元気にしてんならいいや。頑張れよ》
「あぁ、ありがとう」
《雪、溶けたらいいな》
身を屈めてシャープペンを拾う彼は、電話の向こうから聞こえた“雪”というワードに、反射的に窓を覗き込んだ。
吹雪いていた。また積もってしまう。そう思っただけで彼の心はまた少し滅入る。
「溶けるかなぁ」
掠れた声の呟き。視界の霞がいっそう強くなる。
《何言ってんの》
向こう側の彼が、不思議そうに訊ねた。然し、この男は彼を突き放した訳ではなかった。彼の境遇を理解している彼だからこそ、だろうか。
《雪が溶けねー訳ないじゃん。エベレストじゃねーんだし》
彼は笑いながら言った。
《春になったら自然と溶けるんだよ。俺ん家の前なんか、うちのバーチャン埋まっちまうくらい積もってんだぞ? それでも、春にはぜってー溶けるんだ。溶けて、乾いて、そこからちっちゃな芽が出てさ》
窓から目を離せなかった彼は、友人の言葉に一つ瞬きをした。熱い何かが頬を伝った。
くしゃりと細めた目、少し上を向いた口角。彼は、笑っていた。
「お前、詩人かなんかになったらどうだ」
照れを隠すように、鼻声の彼はそう呟いた。電話の向こうの男が嘆息を漏らす。
《ならねーよバーカ。あっ、バーチャン帰ってきたわ、切るぜ》
ツーツーツーツー、という終話音をしばらく聞いていた彼はスマートフォンを机に置いて、もう一度外へ出た。降る雪の塊は小さくなっていて、見上げる先には太陽があった。
大きく吸い込んだ空気が、身体中を駆け巡っていく。
かざした手に雪が舞い降りる。よくよく見ると、綺麗な形をした結晶だった。知らなかった訳では無い彼だが、何故かそれをマジマジと見つめる。だが、それはすぐに消えて無くなってしまった。
次々と同様の現象が、彼の身に降り掛かっては溶け、降り掛かっては溶けを繰り返す。
彼が、雪を嫌う理由。
己に雪景色を重ねてしまうから。彼の心を、塞いでしまうから。
降った雪は、それがほんの少しならばすぐに溶ける。でも、それが振り払えない程なら残ってしまう。なんの音も無いままに。誰も気づかない間に。
「『溶けきらぬ 雪にかぶさる 陽の光 我が心も 溶かすかな』……って、何詠んでんだよ、これじゃ俺の方が……」
はは、と力無く苦笑した彼は白い雪に反射する光に目を細めつつ、部屋に戻った。
喉が痛くなりそうな思いをしながら、ストーブを切る。
窓を、開け放った。
温かい空気は冷たい空気よりも軽く、逆に冷たい空気は温かい空気よりも重い。冷気が暖気の下に潜り込んで部屋の中へ轟ッと吹き込んだ。遠くをよく見ると、北西の空も晴れているのに気がついた。
「さ、続き。頑張るよ。春はもうすぐそこだから」
誰が聞いている、という訳でもないが彼は呟いた。