
学校という名のサンクチュアリ
ある町の学校でコンピューターに詳しい人を4名募集したら700名の応募があったと聞いた。なぜ、そんなに多くの応募があったかというと「教員免許の有無を問わない」という一文があったからだという。世の中には、それだけの人材がいるのだ。問題は、学校が閉鎖的で外部から切り離された「聖域」になっていること。教師の意識が鎖国状態にあることだ。
学校で不祥事が起こると、すぐに隠蔽することはよく知られている。イジメで自殺者が出ても第三者委員会が徹底的に調査しないと学校関係者は認めようとしない。仲間意識が働いて校長、教頭を含めて責任問題に発展するのを何が何でも阻止しようとする。外部の人が校内に目を向けてほしくないのだ。
教員免許は、その最強のツールと化している。
「生徒指導に関わる者は、教員免許所持者に限る」
そういう暗黙の了解があるので、野球のルールも知らない教員が野球部の顧問をしたり、1週間のダンス講習を受けた素人の体育教師がダンスの指導に当たる。これでは、生徒たちの教育の質が向上するわけがない。
同じ市内に甲子園に出場経験のあるOBがいても、教員免許がないと学校に立ち入りを許さない。プロも顔負けのダンスが踊れる人がいても教員免許がないと校内には入れない。さすがに、ITの知識は1週間の講習では身につかないので例外的に外部の人を入れる決断をする学校も出てきたようだ。
私の教えていたアメリカのユタ州、ローガン中学校では定期的に様々な職業の人が学校を訪れて指導をしていた。トラックの運転手が輸送業の話をしたり、投資会社の人が株式の話をしたり。私もその一人で、日本の少林寺拳法やら学校の様子を授業で話していたわけだ。本物だから、学校の先生とは違う。だから、生徒も興味を持つ。
日本の学校の先生は、基本的に「小学校」「中学校」「高校」「大学」そして、教師。つまり、学校以外の世界を知らない人が多い。そして、どの分野のプロでもない。アマチュア、あるいは素人なのだ。実際、帰国子女の子に英語を教えられないし、プロ顔負けのピアニストの生徒の指導もできない。
日本は「資格、学歴、免許」などの書面だけが通用する肩書社会。学校も本当は、実力がある人が指導するという当たり前のシステムでないと生徒たちの素質を伸ばしてやれない。いいかげんに気づいてほしいものだ。変えないと、実力主義で身を削りあっている外国の会社に太刀打ちできない。実力のある人は、みんな日本から脱出してしまう。
頭脳の流出、アスリートの流出、俳優の流出。一流の人は日本から出ていくのが現実となっている。
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