怪異の森には白い羽根が落ちている

第10話 - 化け物たちの休日:前編

藺草 鞠2020/06/15 11:19
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視界にあるのは青、緑、白。

森は日に日に彩度を高めてゆく。白一色に慣れすぎたタイタンにとっては刺激的すぎて、目眩がするほどだ。

澄み渡った春の青空。大樹の枝に干された真っ白なシーツが、若葉と共にばさばさと眩しくはためく。

終わりがないのではないかと錯覚するほどの厳しい冬を乗り越え、怪異の森にも春が訪れた。

眠っていた命が大地に吹き出す、新たな一年の始まり。

過去を無くしたタイタンでさえそう思ってしまう、晴れやかな季節の到来である。



日課の鍛錬の終わりに川に足を浸して、火照った体が冷えてゆく心地よさに鼻歌を歌ってしまう。

彼は歌など教わったことは勿論ない。思いつきでそれらしい音を並べているだけだ。

突拍子もない箇所で上がり下がりする不恰好なメロディーを、タイタンは歌えと言われてもきっともう二度と歌えない。

鬼。小姑。怒りん坊。無愛想。などと憎まれ口を叩かれることはしょっちゅうであるし、それを否定する気はあまりない。しかし、そんな怒り以外の感情が表に出にくい彼も、春の陽気の前にはひとたまりもなかった。

彼でさえそうなのだ。セレナの浮かれようときたら想像に難くない・・・とタイタンは思っていた。

それが。

「・・・うう、もう嫌よ。一生冬がいいわ。ええ、一年が全て冬になる魔道を今からでも開発して・・・!」

セレナはどんよりとした表情で、食卓のテーブルの下でうずくまっている。

「人間を本当に滅ぼす気か?くだらんことを言っていないで箒を取ってこい。」

川で黄昏れるタイタンの耳に飛び込んできたのは、朝食を準備していたセレナの絶叫。

暖かな陽気を切り裂くような悲鳴にタイタンが青ざめたのもまた、想像に難くないであろう。

怪我か、火事か。まさかここまで敵に侵入されたか。

神経を張り巡らせ、剣を構えて扉を開いたタイタンの目に入ったのは。

「・・・まさかあんたが羽虫を怖がって大騒ぎしているとは思わなかった。」

「羽虫!?あれのどこがただの羽虫に見えるのよ!?お母様が作り出した発明で最低最悪のものよ、あれは!!」

確かに蝿にしてはかなり大きかったし、出目金のようなぶるぶるとした大きな目玉が大変グロテスクな虫であったが。

驚いて飛び出した羽根が朝食の並んだ食卓に激突し、暖められたスープも、パンも、クマモモのジャム瓶も全て床に叩き落とし、陶器と硝子が大量に割れ・・・朝から余計な労働が増えたことにタイタンは辟易していた。

セレナが怯えて号泣していなかったら、きっと怒りを飲み込めなかったであろう。

いや、怒りを通り越して呆れただけか。とにかく、いつも小煩い小姑も、今回だけは何故か鳴りを潜めている。

「いい?分かっていないようだからもう一度言うけれど!カジリバエは肉食で、しかも生きた肉を食べる恐ろしい虫なのよ!麻酔もなにもなしに皮膚を齧りとられる痛みを想像してみなさいな!!」

「ああ、分かっている。繁殖力が皆無だと言うことも、噛まれてもたかが虫の食事量だから針が刺さった程度の傷口しか残らないことも、感染症に気をつけて消毒をすれば恐ろしくないことも、そもそも肉を食らうのは繁殖期の一週間だけであとは普通の蝿と変わらないこともさっき全部聞いた。大きな破片は俺が拾うからそこを退いてくれ。」

割れたクマモモのジャム瓶を拾い集める。

まだ数瓶あるとはいえ、貴重なジャムを失ったのは大変惜しい。

ジャムもそうだが硝子なんてこのご時世ではかなりの貴重品だ。

確かに食器棚には数瓶割れても問題ないほどの大量の硝子瓶がずらりと並んでいるが。勿体無い、という気持ちはそれでも湧いて出て来る。

「噛まれたことがないからそんなことが言えるのよ!あの気持ち悪い大きな目玉虫が迫ってくるのを想像するだけで・・・あああもう、嫌!虫なんてみんないなくなってしまえばいいのよ!」

「・・・本当に、今までどうやって生活していたんだあんたは・・・」

大自然の生活に適性がなさすぎる。まだ気分の悪そうなセレナの頰は、白を通り越して青ざめていた。

「・・・全く。これから崩落を止めようというのに。気が抜けるよ、あんたを見ていると・・・」

嫌味ったらしく吐き出した言葉が、セレナの羽根を震わせ、窓の外へと抜けていった。









春は何かと忙しい。

一年の始まり、一年の準備の季節。

畑、動物の管理、冬の間できなかった魔道装置の整備。倉庫の屋根が腐食しているのを直したり、倒木で塞がれた道を片付けたり。冬の間に溜まった仕事は山のようにあった。

すぐにでも計画のために森の探索に向かおうと思っていたタイタンだが、思わぬ足止めを食らっているのが現実だった。

どれだけ歯がゆく思っていようと、生活がかかっている以上文句は言えない。

崩落の阻止以前に、生活が成り立たなければどうしようもないのだ。

しかしタイタンは忙しいかというと、そうでもない。機械化されて最低限の労力で済むようにされた家事を済ませれば、その日のタイタンの仕事はおしまいだ。

午前で大方の家事を終わらせたあとは、本を読んで1日を過ごす。

そんなタイタンを尻目に、セレナはここ数日、馬車馬のように走り回っている。手伝おうにも、指示を出す暇も惜しいとばかりに働き回られては、春の森の勝手がわからないタイタンはどうしていいかわからないのだ。

何か手伝うことはないかと聞いてみても、

「家事をやっておいてくれたら一番助かるわ・・・暇があったら、ここから好きな布を選んでおいて。薄手のお洋服も作らないといけないから。」

と。渡された木箱の中には、色とりどりに染色や刺繍の施された布が詰め込まれていた。

その多彩さはさながら宝石箱のようだ。・・・女性であれば心踊るのかもしれないが、タイタンはそういうものがよくわからない。

タイタンは自分の体躯でも服を仕立てられそうな布を適当に見繕い、作業場に運んだ。セレナの数日ぶりの頼みごとは数分で終わってしまった。

今日も結局時間を持て余してしまった。タイタンは、パンを切り、クマモモのジャムを塗る以外にすることがなくなってしまっていた。

こんなことでいいのだろうか。いいわけがない。

自分はあの狼に、とても大切なものを託されたのだ。世界を変えるためにセレナの母親が遺したものを託されたのだ。

のんびりと本を読み、甘いジャムに舌鼓を打ち、柔らかいパンを口いっぱいに頬張る暇など・・・自分にあるわけがないのだ。

そんなタイタンの気持ちも知らずに、窓の外、鉈を持って歩き去っていくセレナの背中が見えた。

「・・・人を使うのが絶望的に下手だな、あの人は。」

そう愚痴りたくなってしまうのも仕方ないだろう。窓の外の自分が睨まれていることなど、きっと彼女は気づきもしないのだから。

セレナの髪は冬の間でかなり伸びていた。邪魔そうに結わえられたポニーテールが乱れ、細いうなじに銀糸が張り付いているのが見える。

慌てて引っ張り出した薄手のタンクトップのシャツは、ぐしゃりとシワがついたまま。

袖捲りをした細い腕。布地が切り取られ無防備に晒されている肩と背中。

真っ白なシャツの下、黒い下着がうっすらと汗で透けている。

「・・・・・・」

なんだかとても見てはいけないものを見た気がして、タイタンは首をぶんぶんと振り、彼女の背中を頭から追い出すことにした。



流石に働きすぎだ、食事くらいは決まった時間に摂れ、明日1日はせめて家でおとなしくしていろ。あまりの働きぶりを見かねたタイタンがそう言ったのがその日の夜。

朝食はスープを流し込むだけ。昼は抜いて夜に大食い。いくら若いからと言ってもあんまりである。

こんな生活を続けたら絶対にガタがくるに決まっている。彼女に倒れられては困るのだ。



「・・・家でおとなしくしろというのは、休めという意味で。針仕事をしろという意味ではないんだよセレナさん。」

「まあいいじゃない。趣味みたいなものだから、これは。」

忠告をした翌日。居ないと思って作業場を覗けば、髪を結い上げ、すっかり作業モードのセレナが、大きな薄緑のシャツに銀色の刺繍を施している最中だった。

これはタイタン用のものだろうか。セレナの着ているものにデザインが似せてある。

袖、襟に草花を模った銀色の刺繍が施され、材木の余りを削って作った丸いボタンがナチュラルで素敵だ。

「そんな小洒落たものを作ろうとしなくていい。忙しいんだろ。」

「趣味だと言ったでしょう?・・・丁度いいから一度着てみて。けっこうピッタリになってしまったかもしれなくて。」

渡された布地はタイタンが選んだものではなかった。麻でも綿でもない、高級感のある柔らかな手触りのシャツ。あまりの触り心地の良さに、無意識に何度も布地に手を滑らせていた。

着てみると暖かい感触のわりに風通しが良く、涼しい。セレナは小さいかもと言ったが、布が余る煩わしさがなくてとても良い。

「伸びのある生地を見つけたから、とりあえず一枚仕立ててみたの。動きやすくていいでしょう?タイタンが選んだ布であと3着くらいは作ると思うけど、とりあえず1着ね。」

「良いなこれ。動きやすい。」

「でしょう?お母様のものだから、何の生地なのかはよく知らないけれどね。」

知りたくないからむしろ良かった。聞いたら着たくなくなるような素材でできているに違いない。とはいっても、忙しいセレナが眠る前に少しずつ、コツコツと、毎晩毎晩自分の為に服を縫ってくれていたことをタイタンは知っている。

彼女の気持ちを無下にする気は無いし、このシャツが剣士のタイタンのことを考えて作られた大変素晴らしい逸品であることは事実であった。

「・・・ありがとうセレナさん。大事に着るよ。」

「ふふ、いいのいいの。貴方の面倒を見るのも嫌いじゃないわ、私。」

セレナはそう言って微笑み、返されたシャツに再び刺繍を始めた。

こうしているとセレナは、この大男の母親か姉になったかのような気持ちになる。

普段はガキだなんだとセレナに説教をかましている小姑だが、こうして興味深そうにワクワクしながら刺繍を見ている姿は子供のよう。

普段からこのくらい素直であれば可愛げもあるのに。彼に言ったら間違いなく機嫌を損ねる言葉を、大人なセレナはそっと胸にしまった。



タイタンは居間から本を持ってきて、作業場の簡易ベッドに座った。

せっかく彼女を休ませたのだ。

ここ数日あまり会話もしていないし、今日は何となく、彼女と1日ゆっくりと過ごしたい気分だった。

細い木で作られた折りたたみ式のベッドは、見た目よりも頑丈。タイタンが座っても小さく軋むだけ。

セレナはタイタンが作業場に居座ったのをちらりと見て、特に何かを言うこともなく、のんびりと作業を開始した。

時折風が窓を揺らすのと、セレナの僅かな呼吸音以外、音が存在しない部屋が心地よい。

出会った頃は、2人で食卓を囲む時、どちらかが咀嚼をしている沈黙すら気まずく感じたものだったが、今はもう、同じ部屋にいて言葉を交わさなくとも、そんなふうに感じることはなくなっていた。

出会った頃から仲は良かったが、厳しい冬、数多の危機を乗り越えた2人には、友情と呼ぶには軽々しい、不思議な関係性が芽生えていた。

最近読んでいるのは、いつかセレナに取り上げられた旧時代の歴史書だ。

この家にある他の本と比べて装丁の雑さが目立つぼろぼろの本は、タイタンが少し乱暴に扱えば壊れてしまうような脆さがある。掠れて読めない部分も、製本糸が解れてしまっている箇所さえある。

恐らくは製本技術が失われた比較的近代の本だ。情報の保存が考慮された時代に作られた本はこれほど酷く劣化しない。この本より古く、この本より美しく保管された本はこの家だけでも山ほどあるのだから。

狼に渡された「渡しもの」の整合性を探るために手に取った本だったが、その「渡しもの」のおかげでより鮮明に浮かぶ旧時代の情景は、タイタンをそれなりに楽しませている。

それでも数時間が経過したあたりで活字に疲れ、タイタンはふと顔を上げた。食事文化の章を読んでいたらなんだか口が寂しくなった。しかし茶を淹れる担当のセレナは未だ刺繍に熱中している。再び活字の世界に戻る気も起きず、タイタンはセレナの細い指が針を操るのをぼんやりと見守った。

まるで魔道のようだ。ただ針を刺して抜くのを繰り返しているだけで、布地に銀色の美しい霞草が描かれる。

雪解けの春の草原の如く、薄緑色の布地に銀色の花が咲き乱れていく。楽しそうな笑みを浮かべ、花を紡いでいくセレナに、タイタンは暫し見惚れた。

「・・・興味があるなら近くで見ればいいのに。」

「いや。なんというか、そういうことじゃないんだよな・・・」

この光景に自分が混じるのは無粋というか。遠くから見ているのがいいんだよな。

噛みしめるように目を閉じて唸ったタイタンをセレナは不思議そうに見つめる。

「・・・よくわからないけれど。暇なら何か面白いお話をして頂戴?」

なんという無茶振りだ。

自分も大概横暴だと思っているが、彼女がタイタンを責める権利などないのではないだろうか。

思わず黙り込むタイタンを見て面白がるセレナを睨み・・・ああ、と思いついたようにタイタンは口を開いた。

ここ数日の多忙さですっかり頭から抜けていたが、彼女に聞こうと思っていたことがあったのだ。

「あんたのお母様の話が聞きたい。」

「貴方に話してと頼んだのに。というか・・・お母様のこと?前にも沢山お話したでしょう?」

「いや、そりゃお母様のぶっとんだエピソードは山のように聞いたが。そうではなくて。なんという名前で、どうしてこの森に住んでいて・・・とか、そういったことは聞いていなかっただろう?」

セレナのお母様のことを知る、というのが今後の行動方針の1つだというのに、タイタンの中のお母様の人物像はいまいちはっきりとしていなかった。

お母様の残した計画を実行する。それを実行してよいのか、お母様を信用してよいのかを見定める責任がタイタンにはある。

お母様を盲信しているセレナの言葉で全てを判断することはできないが、それでも最初の手がかりとしてセレナの情報を求めたのだが・・・セレナは小さくそっぽを向いて答えた。

「・・・知らないわ、あんまり。」

「え?」

「お母様のお名前も、どうして森に住んでいたのかも、知らないわ。お母様に尋ねたことがないから。」

そんな馬鹿なことがあるか。揶揄っているのかと苛立ち、反射的にそう返しそうになる。

しかしセレナはタイタンの反応を見越していたようだ。彼女はタイタンに二の句を続けさせずに畳み掛けた。

「仕方ないでしょう?碌に言葉も話せなかったんだもの、昔は。お母様に出会ったのが多分8歳くらいで、10年くらい一緒に暮らして・・・亡くなったのは4年前。恥ずかしいけれど・・・人の言葉が話せるようになったのは随分最近で・・・その頃には当たり前にお母様が隣にいたから。お母様のことを尋ねる必要なんてなかったわ。」

森の外は酷い世界で、森の中にはお母様が作ってくれた安全な場所がある。私の世界はそれだけで良かったのよ。

ぽつり。小さな唇から言葉が零れた。

「・・・じゃあ。なんでお母様は亡くなったんだ?あんたはお母様が亡くなったのを見たんだろう?年齢か?」

「そんなに年寄りではないわ。見た目は私より少し年上くらい・・・だったと思うけど。・・・お母様と喧嘩をしてしまった日の夜にね、あんまり作業場から出てこないから心配になって、ドアを開いて覗いたら、机の上で突っ伏して動かなくなっていたの。目を開けたまま。眠っているのかと思ってお布団に寝かせて・・・でも三日経っても起きないから、そこで初めてお母様の胸に耳を当てて・・・心臓が止まっているのに気づいて。それだけよ。」

「・・・不可解な死だな。何か病気だったとか・・・怪我をしていたとか・・・」

銀色がふるふると横に振られた。

「前の日は元気にハンマーを振るっていたわ。それにお母様の魔道は修繕の魔道だから・・・どんな怪我でも病気でも、自分で治してしまえるもの。」

「確かに、そうだったな。どんな怪我でも治してしまう魔道の凄まじさを、俺は見ている。だったらお母様は不死身だったんじゃないのか・・・?どうして、そんな不可解な死を・・・?あとは・・・喧嘩をしたと言っていたな、どうして喧嘩を?」

「・・・・・・・・ねえ、タイタン。」

そこで。

セレナの声が冷え切っていることにタイタンは気づいた。

情報を聞き出すことに必死で、セレナの楽しげな雰囲気が消えていたことに全く気づいていなかった。背中の毛がぶわりと逆立つ。

「・・・どうしてお母様のことをそんなに聞きたがるの?いままでこれっぽっちも気にしていなかった・・・いえ。気になっていても、自分からは聞かないようにしていたわよね。どうして?何かあったの?」

いままでそっぽを向いていた銀色の瞳がまっすぐタイタンを射抜く。

怒っているわけではない、悲しんでいるわけでもない。セレナの瞳はただ真剣にタイタンを案じていた。タイタンの心を見抜こうと、真剣にタイタンを見定めようとしていた。

彼女に不審に思われた。それだけでタイタンの心臓が凍る。

彼女に計画を悟られてはならない。自分はこの先彼女を騙し続けなければならない。計画の一歩目も踏み出していないこんな序盤で全てを瓦解させてはならない。タイタンは一度小さく息を吐き、彼女に向き合った。

ここから先は瞳の動き1つすら致命になるやりとりだ。タイタンは必死に平素を装いセレナを見つめ返した。

「ねえ、この間の狼と出会った後のお話は・・・本当にあれだけ?貴方の体を変質させるほどの魔道の力を持った狼なんて、ねえ。・・・タイタン、貴方はお母様から何を聞いたの?」

「・・・・・っ。」

背中に嫌な汗がだらりと流れた。気づかれている。

既に下手を踏んでいたことに彼はようやく気づく。彼女の無邪気さに絆されすぎた。

もしかすると。いいや、絶対に。彼女はあのタイタンの変貌した日からずっと、自分が何かを隠していることに気づいていた。ここ数日、彼女を警戒していたかと言われると答えは否だ。彼女はあの日からじっと、タイタンを観察し続けていた。

聡い彼女相手に隠し事をする難しさなど、十分肝に命じていたというのに。

「・・・隠し事も限界だというだけだ。これからお母様の計画とやらに乗るんだ。お母様のことを何も知らずにそれを実行するのは・・・無責任だろう。」

嘘の中に真実を織り交ぜる。やっとの思いで出した言葉は、自分でも分かりやすいと思うほどには、酷い動揺の色が滲んでいる。

「・・・ふふ、貴方らしい考えね。でも・・・隠し事も限界なんて。本当にそんなことを思っている?見て見ぬ振りは貴方の得意技じゃない。」

違う。

飛び出しかけた言葉をぐっと堪えた。唯の話術だ。

敢えて苛立たせる言葉を選んで放っただけだ。こんなもの彼女の本心ではない。

ぎしり。タイタンの拳が握られ軋んだベッドの音を、セレナは揶揄するように笑った。

「ふふ。まあ、いいわ。これくらいにしてあげる。・・・隠し事を責められる立場じゃないし、見て見ぬ振りをさせたのも私だものね?別にそんな顔をさせたかったわけではないの。ただ・・・その。貴方が最近変だから、勘ぐってしまっただけなのよ。」

変というのは、隠し事をごまかそうと挙動不審になっていることを指していたのか、タイタンにはわからない。

人狼の見た目以上に自分の中身が変質してしまったことを、彼は嫌になる程理解していた。

数日が過ぎ、狼から与えられた「渡しもの」は、タイタンのからっぽだった記憶の中に完璧に馴染んでしまった。

旧時代の・・・今からおおよそ2000年前の、崩落以前の人間文明の記録、旧時代を生きた人間たちの記憶。

まるで自分が2000年前の人間であったかのように錯覚するほどだ。セレナと過ごす日々と記憶の隣に、旧時代の常識が当たり前に存在する。

数ヶ月しか生きていないこの世界より、よっぽど馴染み深いものになってしまった2000年前の記憶に、タイタンは正直怯えていた。

記憶が書き換えられるだけで、自分がこれほど揺らぐとは。記憶を失くす以前自分がセレナの敵であったように。

二度も大きく記憶を塗りつぶされ、揺らぐ自分にあるものは、漠然とした目標と、大切な人を守るのだという意思だけ。考えたくもないが、もし自分がそれさえも失ってしまったら・・・例えば彼女が死んでしまったら、自分には一体何が残るというのだろう?

そこまで思案して、タイタンは自分が随分と焦っていたこと、そして自分がかなり疲れていることに気づいた。

「・・・悪いな。心配させて。今気付いた。」

「・・・分かればいいのよ。私より余程休養が必要なくせに・・・計画、計画って、貴方最近そればかりじゃない。・・・いいかしら。貴方が言いたくないなら見て見ぬ振りをしてあげる。貴方が私の不利益になることをしないって、信用しているもの。だけど、お母様の計画で貴方が傷ついたり、破滅に向かうようなことをしなくてはいけないならそれは無しよ。私は絶対に協力しないし、貴方がどれだけ嫌がっても隠し事を暴くわ。よく考えて行動することね。」

そんな調子で仕事を手伝わせて、ミスをされたら困るのよ、と。

ぷい、と再びセレナはそっぽを向いた。

「お母様の計画のせいで貴方が傷ついたら、私はお母様すら憎んでしまうわ。私にお母様を、憎ませないで頂戴。」

無愛想な言葉と裏腹に、セレナの指は震えていた。

心配させて当たり前だった。タイタンは全て覚悟の上の行動だったが、セレナからしてみれば、突然こんな体になったタイタンが目の前に現れて、しかもそれが自分のためだというのだから。

自分の隠し事が多いせいで振り回して、その結果タイタンを巻き込んだのではないかと、セレナは自分を責めたに違いない。

反省して欲しいのは当然だが、過剰に気に病ませるのは本意ではない。

「いやに素直だな、今日は。あんたらしくもない。」

タイタンの、いつもの喉が鳴るような笑い声。やっといつも通りに笑ってくれた。張り詰めていた気持ちが、凍り付いていた作業場の空気がようやく柔らかく解けた。

「・・・悪い?」

「いや。むしろ普段からそのくらい素直でいてくれたら可愛いのにと思っている。」

「素直じゃない方が可愛いのよ。貴方は何も分かっていないのね?」

ふふ、と。いつも通り笑う彼女はいつも通りに可愛い。

ああ、だから彼女が好きなのだ。

セレナはいつも隠し事をして、バレバレの下手な嘘ばかりついて、いつも1人で無茶をして心配ばかりかける馬鹿女だ。そのくせ怖がりで、泣き虫で、下手に魔道が使えるせいで自信過剰で死地に飛び込んで、足が竦んで動けなくなって、助ける自分はいつも迷惑をかけられてばかり。

でも彼女はそれを補って余りあるほど、優しくて、人のことをよく見ている。

最初だけではない。自分はそんな彼女の優しさに何度も救われている。

子供のように無邪気で優しい彼女が、嘘をつかなくても生きられる世界が欲しい。

彼女が二度と何かに怯えなくて良い世界が欲しい。

そしてそんな幸せな世界に、自分はもう欠けてはならない存在になってしまったことを、タイタンは決して忘れてはならないのだ。

「休日を1日延長してくれ。明日は俺の休日にする。付き合ってくれるだろう?」

「甘えないの。子供じゃないんだから。」

「何を言っているか分からない。俺はあんたより年下のガキだからな。」

ばふん。思いきり布団に倒れこみ、横目でセレナをニヤニヤと見つめた。

「はいはい。調子が戻ったなら明後日からは手伝って頂戴。力仕事は全部貴方のために残しておいたんだから、感謝して?」

この女。1人で全部終わらせているかと思って心配していたのに、きっちり手伝わせる気だったのか。勿論手伝いをすること自体に文句はないが、この強かさは流石だ。

思わず悪態をついたタイタンを面白そうに見つめ、セレナは立ち上がった。

「夕飯はとびきりのご馳走よ。今朝兎が罠にかかっていたから・・・久しぶりに塩漬けじゃないお肉が食べられるわ。昨日採ってきた香草をたっぷり使ってステーキにして、スープは春のお野菜をたくさん入れて、デザートにクマモモのプディングも付けてあげるわ。・・・明日は明るいうちに帰ってくるし、不貞腐れないでいい子にして待っていなさい?」

ここ数日バンとスープばかりだったタイタンは、その魅惑的すぎる言葉に思わず唾を飲み込む。

捌きたての兎がじゅわじゅわとフライパンで音を立て、香草と獣肉の芳醇な香りがキッチンを満たすのを想像し、タイタンの腹がぐぎゅうと鳴った。

もうそろそろ夕方だ。活字で疲れた体にその言葉は狡い。想像だけでも美味いくらいだ。

急に黙り込んだタイタンを見てセレナは、想像通りとばかりにクスリと笑い部屋を出て行った。

ふふ、そんなにご飯が食べたいの?タイタンはやっぱりお子ちゃまね、と。

その明らかに人を馬鹿にした笑いに、タイタンのこめかみがブチンと音を立てた。

もさり、とタイタンの耳が獣耳に変化し、尾が飛び出し、狼の怒りの咆哮が飛び出した。

「ステーキで人を釣れると思うなーーーーーーッ!!!!!!」

ビダン!!!大きく逆立った尾が床を叩く。

久しぶりに本気で腹が立った!この馬鹿に、馬鹿にされるのだけは我慢ならない!

閉じられたドアを震わせた本気の怒鳴り声は、蓬山で眠っていた鹿すら叩き起こす音量だった。